あなたを引き算する
“うつろう心いまだに曇らす、その人の影、私は知りたい。”
これはEPOの『身代わりのバディー』の中の一節だが、耳に聴く音はもちろん、口に出す音も小気味良いのは、音読してもらえればめいめい感じられると思う。だが、それ以上に素晴らしいのは、彼の心を曇らせている“その人”を恨むでもなく、妬むでもない、このなんとも苦々しくも噛み殺すしかない不快な感情を表すのに、それほど多くの言葉が必要ないのだと理解る点にある。そうした半ば諦めの様な心模様が、非常に可哀想で放っておけないのだ。電影少女で言えば *1 ノブコだ。EPOの音楽にはそういった引き算の秀逸さを感じることが出来る。
現代人は多くの文字や言葉を観て、聴いて、感じて、生活している。ひとり孤独に街を歩けど、所詮自分も多くの言葉が行き交う雑音の中のひとりなのだと実感することもできるし、インターネットの光に乗れば、家から出る事なく自ら他者との交感を求めて、世界を渡り歩くことだって簡単に出来る。言葉を携えた我々がその手に持つのは、ほつれた髪をとかす櫛であるが、それと同時に容易く腑を掻っ切る刃とも成り得るのだからとても恐ろしい。こんな風にnoteにだらだらと駄文を編む事でしか精神的な自己抑圧を解消できない私も、実に引き算の苦手な人間なのだなとひどく落胆する。様々な芸術から学んだ筈なのに…非常に残念である。だが「で?残念がってそれで終わりじゃん(嘲笑)」ってのは、私のポリシーに大きく反するので“それすらやめてしまったら…”という程度の低い精神で言葉の引き算について編んでいきたいと思う。
*1 ノブコ(仁崎 伸子)漫画、電影少女の登場人物。主人公であるヨータと一度は付き合うものの、その影にチラつく“あいちゃん”に苦しみ、最後には身を引いた。
文化の引き算
ここ最近はもうずっとEPOと大貫妙子に心を注いでいる。彼女らの音楽が何故こうもイイのかは、時代の流れの中で薄れつつある文化をその繊細な歌の中に感じることが出来るからである。私が70s後半から90sにかけての文化に積極的に触れ、信仰するのには、そういった亡びゆくモノを新しく記憶したり、再認識することで、「クールじゃん」「カッケーな」と忘れた人達にもう一度言わせたいからだ。大変烏滸がましいとわかってはいるが、亡びゆくソレらに輝きを取り戻させる為でもあるのだ。記憶媒体のことを記憶しておけるのは皮肉にも人間だけなのだから…。
VHSやHi8のビデオ文化は僕が子どもの頃にもうどんどんと衰退して、VHS文化は末期だった。映像を記録するだけでもCD→DVD→BD→データと大きく分けても、もう4度も形態を変えている。音楽などはもっと顕著だ。幼少期はアンパンマンのカセット(アンパンマン全曲集①)を母の車で聴いていたのを今でも憶えている。ちなみに中でも『わたしはドキンちゃん』をリピートしていた。今聴いても少しキケンな香りがする…色んな意味で…。その後CDはもちろんMD→MP3のデータ保存を経て、今となってはサブスクリプションで、もうもはやその手にデータさえ持つ必要のない時代になってしまった。いつからかそれが虚しいとすら感じなくなってしまった。我々は手に何も持たなければ持たないほどカッコいいと信じさせられてきた。便利だと教えられてきた。今より小さく、軽く、薄く、もっと簡単に、もっと身近に…それも“引き算の美”かもしれないね。でもそうした結果好きな音楽さえ、ちゃんと触れられない時代になってしまった。きっとそのうち好きな人にだって触れられなくなっちゃうかもしれないよ。それが美しい、かっこいい、賢いなんて少し寂しいよね。
だけれども私は、決してそれをただの逆張りで否定しているわけではない、むしろそういった触れられないモノのおかげでこうしてなんとか日々を過ごせている節がある。コレはエゴだが、オンラインで出会う人達に優しさを向けられる時の自分が好きだし(日常でも当然だが)、その結果やさしさを返してくれる事に他人が思う以上に、私は強く有り難がっている。それは私自身が他人に振り撒く慈悲が、何か少しでも影響を与えている事を、より現実にしたいからだ、「あなたも有難いでしょ?」と押し付けているのかもしれないネ…はぁ…そんなの本当の慈悲じゃねーだろって内心では思ってはいるけれど、そこまで達観して他人に全てを捧げられるほどの器量も気概も、どんなに嘆いたって私にはないのだ…トホホ。
けれど、他のモノの為に心をかけなければ、胸にある良心はただただ余って腐ってしまう。そのほうが悲しいじゃんね。だから私はVHSを主に信仰している。亡びゆくモノ全てに心をかけることは難しい、いやそんなの無理だ。だから心をかけるモノをきちんと選びたい、引き算したい。ちっぽけで無能な自分が生命を使って出来ることなんて、“覚えておくこと”くらいしか出来ないんだから、OVA文化のことやその時代に素晴らしいアニメがあったことはせめて人にきちんと話せるくらいの言葉を手に持っていたい。それがセレクターとしての使命である。
オタクの引き算
昨今のオタク事情を語れるほど大した存在ではないが、多くのオタクが“フルコレクターであること”に重きを置いている。異常なまでに固執しているといっても過言ではない。私はそれを“在り方”として認めることは出来ても、私自身がそうなってしまうことは断固として拒否している。フルコレクターと言うのは、その名の通り全てを見境なく収集する。という理念のもとにオタクの旗を掲げている。その理念の意図として、経済を回しコンテンツを支える為に一消費者として微力ながらでも燃料を焚べると言う意味合いでは、ある種至極真っ当、立派なオタクであろう。けれど、それが本当に確固たる意志、意地、信念、信条そのどれでも良い、どれかに則っているだろうか?そのどれ一つもないただ馬鹿の一つ覚えで「イイ」と言っていないだろうか?それはコンテンツの未来や、その他後世のコンテンツを大きく歪ませる危うい思想だと理解した方が良い。私はそうして散っていったコンテンツを多く見てきた。オタクだからとナメられた搾取により、「あぁこんな程度で喜ぶんだ。」とハンパなモノしか生み出さなくなった公式に何度も落胆させられてきた。あなたがもしフルコレクターを賛美しているのなら、真のオタクは“セレクター”なんだと考えをあらためて欲しい。ズラリと並べられた素敵なモノの中から、より素晴らしいモノを選ぶ力がある者こそが真のオタクだと私は固く信じている。それもキケンなのかもしれないが、「好きな人のすべてが好き」これが大きな歪みを生む事は容易に想像できるであろう…良い悪いの話ではない。歪みは確実にズレを生じさせる。その結果、恋人同士はずっと一緒にいられないし、消費者の心はコンテンツから遠く離れていく。その先にあった筈の未来まで、1…2の…ポカン!だ。新しく何かを憶えることもない。
アノ子の引き算
EPOの音楽を読物的な面白さとして例えるならば、大貫妙子の音楽はとにかく言葉遊びとしての面白さと例えることが出来る。言葉の配置はまるで積み木の家ようで、そこには子どもが立てた無邪気さがある。不安定ながらそのどれもが“そこ”に配置されていなければ大貫妙子の音楽は成り立たない。それを支えている土台には坂本龍一をはじめとする偉大な人達がいることも忘れてはいけない…。そうした音楽は一度聴くだけでは非常に伝わり辛い、それほどまでに無駄を削りきっている。緻密な引き算により成り立っているから、この時代、この人達、この音、この声でなければダメなのだと思い知らされる。何度も聴くほどに脳内でボヤけた輪郭が、次第にハッキリとあらわになるのがとても気持ちが良いのだ…。
こうして特徴を書いては見たけれども、当然ながら2人共に同じ側面があると理解っている。だが私が愛するのは77年〜83年と比較的短い期間の両者である。その為その時代のそれぞれの特徴としては大きく間違っていない様に感じる。(認識が間違っていたらスマン)
代表的なアルバムに、77年の『SUN SHOWER』やその翌年、78年の『Mignonne』があるが、コレらはあまりにも洗練され過ぎている。恐ろしいほど純度が高い…高過ぎるのだ。そんなのイイに決まってる、決まってるんだけどこんなのずっと聴いてたら大半の音楽がつまんなくなっちゃうよ…それくらいこの2つのアルバムはキケンだ。甘すぎる蜜だ。
それでもこの後述した『Mignonne』の中に後年の大貫妙子に通ずる無邪気な歌を読むことが出来る。
シングルでも販売された『じゃじゃ馬娘』だ。B面はこれまためちゃクールな『海と少年』で、夏の終わりの物悲しさをありきたりな分かりやすい恋愛で表現するのではなく、本当にただ“夏が終わっていく”というような穏やかな歌になっている。好きだ。
『じゃじゃ馬娘』に戻ります、この歌は奇しくも初めに書いた『身代わりのバディー』のアンチテーゼの様になっていて、好きな彼を狙っている年上の女性のことを“イカしてるアイツ”と言ったり、彼に対しても「相手にしてくれないならいいの」なんてツッパネたりしちゃう。素直にカワイイと感じてしまう。 電影少女で言うと *2 ノブコだ。コレまでの奥ゆかしい女性としてのマインドだけでなく、フツーの女の子としての大貫妙子を見ることが出来てとても親近感が湧く。だからと言って音楽が軽くなっているわけでもない。この絶妙なバランス感が大貫妙子のスペシャルな点である。それは『じゃじゃ馬娘』の77年よりもっと後、82年『ピーターラビットとわたし』で爆発している…。
*2 ノブコ(仁崎 伸子)漫画、電影少女の登場人物。ポジティブな性格で、おてんばな女の子。好きな人の為に大胆かつ驚かせる様な行動をとる。主人公であるヨータと一度は付き合うものの、その影にチラつく“あいちゃん”に苦しみ、大きく心を乱してしまう。作中でもよく笑い、泣き、怒り、見ているこちらまで苦しくなるほど感情の波が激しい。それでも心を押し殺し、最後には身を引いた。ノブコの引き算は悲しくも美しい…。ノブコを泣かすなボケ…グスン。
わたしの引き算
これまで対極の様に語ってきた二人だが、決してその様な意図はなく、同じ事務所だけあって根底にある音楽の芯は同じであると思う。どこまでもこだわった音楽と触れあう瞬間、音が細胞を揺らし、次第にその揺れは大きくなり、文字通り胸躍らせる。日常のヤなことや、雑音は身を潜め、心が澄んでゆく。それぞれが同じ時代にPOPsの波にのり、その当時の多くの人を揺らしただろう。大貫妙子の至高は82年の『ピーターラビットとわたし』。EPOの至高は『日曜はベルが鳴る前に』だと私は思っている。異論は大いに認める、というよりもう既に私の中にすらある(?)「いや〜『4:00A.M.』も〜『くすりをたくさん』も『エスケイプ』も『バナナ村に雨がふる』もめちゃくちゃイイんだよな〜…」と迷いに迷った。EPOに関しては正直『バナナ村に雨がふる』が至高だと本当は言いたい…!!言いたいんだけれども、コレは作詞を銀色 夏生さん、作曲を乾 裕樹さんが担当しているので、厳密に言うと“EPOの至高”とは言いづらい…そもそもNHKの『みんなのうた』で流れた映像以外で聴くことは出来ないし、EPOが歌ったバージョンは販売すらされていない。悔しいけれど、コレは聴いた人にしかわからない素晴らしさがあるのだ…。子どもの頃聴いていたら確実に頭がぶっ壊れていたと思う。
ここまで読んでもらえた事をとても嬉しく思っている。ただ至高の二曲、『ピーターラビットとわたし』と『日曜はベルが鳴る前に』については、どうかその耳で確かめてほしい。決して無責任に突き放しているつもりじゃあないのをどうかわかってほしい。あなたの心がどう感じるかは、私の言葉無しで自由に感じてほしいからである。どうか悪く思わないでほしい。コレは私の引き算だから…。