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言葉をさがす前に空気にあたらせて

真上の太陽が影を消し去り、どこもかしこもサンクチュアリー。早歩きの改札の疾走感はきっとEPOの『PAY DAY』のせいだろうが、あぁ…また目の前で電車が行った…いつもこうだオレは…。線路に吐き捨てられた黒ずんだガムさえも憐んでいるように見える。土曜のアヴァンチュールなどオレには訪れないのだから。


似過ぎている

親愛なる上司に「僕と似過ぎていて心配になる」と言われたのが深く胸に引っかかっている。それは彼にとってどういった意味だったかは分からない(それ以上も以下もないだろう)が、私にとってはとても嬉しい言葉であったと感じている。彼の理解し難い趣味嗜好(褒め)や、それに対する向き合い方や、それを胸に秘めたまま表面上“真人間”を全うしていることが私にとっては恐ろしいほど美しい立ち居振る舞いに見えるのだ。それほどの魅力を隠してもなお、こぼれ落ちる“ナニカ”が私を惹きつけた事は間違いでは無いんだけれどもそれが何なのかを知りたい欲求を私はどうしたって抑えられなかった。仕事終わりにふたり、彼の予約したお店へ食事へ赴いたがそれは私がしっぽを振り、せがんだが故の優しさのようにも感じた。きっと彼は私が女性だったら良かったのにと思ったかもしれないし、私も彼が女性だったならば、イチコロだっただろうな〜と思った。すこし安心もした。

彼のパーソナルなことをこんなとこへ垂れ流してしまうのは良く無いことだとわかっている。だからあまり多くを語りたくはないが、彼の出生が非常に複雑なことや、幼い頃からひとり寂しい思いをしていたことや、誰かと過ごす人生を諦めた出来事など、そのどれもが本当に私とほとんど同じであった。よくある「似ている」ではなく本当に「ほぼ同じ」であった。ちょうど10年周期で彼と同じパターンの私が生まれた様な、神様は人を創る時に完全なランダムではなく、おそらく幾つかのプロットに当てはめているのでは…?と思わざるを得ないほどに近かった。彼の話す思い出が、感情が、思考が、彼の口から溢れるたびに、私の胸の内をガサゴソと漁られている様でゾクゾクした。あぁ私が彼に惹かれるのは彼の中に過去の私と、これから先の私が混在しているからだと気付いた時に、であれば彼の中にもやはり陰鬱とした暗い心がありその眩いまでの聖母の笑顔エンジェルダストにも時に雲が横切り、重たい影を落とす事もあるんだろうか…と想うとただのちっぽけな私にはどうにも出来ない巨大な寂しさを感じてしまった。だから彼が言った「僕と似過ぎていて心配になる」の真意は私が思うに、ただ単に生まれの境遇や趣味嗜好の話だけではなく、もっとその奥底の私が沈む夜を想ってかけてくれた言葉であると思う。あの夜私が感じた“セラスがいっぱしのドラキュリーナへと変貌するためだけではなく、ただ愛するベルナドットとただただひとつになりたかった一心で血を飲んだ時”の、これ以上ない在るべき形Jesus Christ is in Heaven nowの様な感覚はきっと彼も感じた筈だから…。



似合わない

江ノ島へ向かう電車で(あぁ…オレはなんで今ここにこの人といるんだろうか…)と気持ちの具合がとてつもなく悪かった。別に貴女が悪いわけではなく、ただ私の性悪さが渦巻いて喉奥がググ…と締まって苦しかった。今にも「もう帰りたい」と口から飛び出てしまいそうで、がんばって抑えている。まだ着いてもいないのに。いやいや…そもそも出掛けるという事に“頑張って抑える”のが必要な時点で、とっくに正常な心ではないんだが、行く前のワクワクウキウキハッピーサイコーな自分がウソみたいで自分で自分に嫌気がさす。オェーウンザリ。江ノ島に着いたらとっとと入水でもしてしまおうか…とか想いながら凡な会話をして、ツマンナイ時間を共有した。何度でもいうが貴女が悪いわけではない、私の脆い心が悪いだけなのだ。
夜までの記憶はほとんどない、どこで見たって同じ水族館や、観光地価格の少なくて高いメシも最初ハナからこれと言って期待していないだけに(こんなモンか)と斜に構えて、ソレがなんだかカッケーみたいなほどイタイ考えはないにしても、わざわざはしゃいで「わーうれしい!おいしい!キャピ」とはならんのだよ。心は痛いほど正直だ。砂浜の日差しの照り返しに、冷たい心だけが汗をかき、本当の胸踊るアツさは少なくとも今此処にはないんだな〜とか思うとバカみたいで虚しかった。

海が見たい

それでも良い夜はそこにあって、オレがどうしても海に来たかったのには理由があったのだ。オレにとって海や砂浜というモノは非常に高尚で、大切に想う映画の中には素晴らしい海がいつもある。ソレは決して青く輝いているわけでも、澄んだ清らかな海でもなくって、潮風がびゅうびゅうと吹き、少し白波が立つくらいの海で、あの太陽も月もない薄暗い空に静寂とやさしさだけがそこにある、“あの映画”の中の海に近しいものがあったのだ。オレは人いきれから少し離れ、もう人もまばらな砂浜に、行きしにもらった小さなチラシを敷いて、そこに腰を下ろした。ジーパンがチラシからはみ出て砂にズズと少し埋まってく感覚は、もうどうでも良かった。波風をよけてタバコに火をつけて、目にかかる前髪をかきあげた時に見た海はまさしく“最後に見たかった海”だった。
ドイツ映画の『ノッキン・オン・ヘヴンズ・ドア』の中で見た海と通ずるものがこの日本の江ノ島にもあるんだな〜…なんて思ってオレはすごくセンチメンタル良い気分だった。でもコレは不特定多数の誰かにわかってほしいとかそういういいかげんな悲哀ではなくって、信頼をおく人たちに「あなたならわかるでしょう?」というくらいの偉そうだが、高貴な感覚である。高い次元での共感がオレは欲しかったのだ。でもそんなのオレの隣にはなかった。この寂しさはいっそひとりのほうが良かった。どんなにいいひとであれ、やはり私がだれかと一緒に何かを見たり聴いたり感じたりすることは難しいのだなぁと痛感して、別にそういうなれあいをめったやたらに望んでいたわけではないが、胸の奥で小さな希望の光を夢見ていたのは事実だ…実に愚かだがこうも早く消えてしまうのなら、はじめからそんなにフラフラと寄るんじゃあなかったなぁ…とフツーに後悔した。バカげてるもん。土曜のアヴァンチュールなんてやっぱねーんだよ。消えたい日曜が待ってるだけだよ。

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