襟裳の春は何もないバルディッシュ
チェスタトンに言わせれば、何かを産むことは「別れ」を意味するらしい。ヘッダ画像をお借りしています。
出産を例に取れば、それまで一体だった母と子が分離する。
ぼくが今この文を書いて世間に公表する瞬間も、ぼくの中にあった思想がぼくから切り離されたから公開された。
ぼくが何かを生み出すたびに感じるのは、春に何もないような虚無……などでは決してない。創作することで得られるはずの充実感や達成感とは、切り離された思想や感情が外付けハードディスクに保存されていく感覚と同じだ。
その過程とは、出力者自身がどんどん軽くなっていく感覚と同一といえるだろうか。日本では「軽いこと」が持て囃される。だからいいんじゃない。
創作して生み出すことが別れを意味するなら、ぼくらは軽量化する。日本文化では軽いことが異様にもてはやされている。
2023年に一番ネットで聴かれた歌である「TREASURE BOX」の歌詞にも「宝物より大切なもの見つけちゃった?いいんじゃな~い?」とある。それが全てを物語っている。だからいいんじゃない?
なんでこんなこと言い始めたかっていうと、ぼくは「何かを生み出すこととは真逆」の映画であるポーラー狙われた暗殺者を見てしまったから。
マッツ・ミケルセンが主役で、舞台は襟裳のようだった。美人局に狙われバルディッシュで殺して正当防衛するようなストーリーといえば伝わるだろう。
ジョン・ウィックの前半の雰囲気が好きだったぼくは、ジョンウィックの以降の一辺倒な展開が許せなかった。それについて過去に死ぬほど文を書いた。
ポーラーも一部では大不評だったっぽいが、それはジョン・ウィックとの酷似を否定されたからだろうか。でもぼくにとってはポーラーの方がマシだった。
マッツ・ミケルセンが強すぎる。クソ以下の敵をボコボコに惨殺するのがたまらない。が、そのクソ共の親玉のカス虫以下のド外道に殺されそうになる描写は鬱陶しい。ベルセルクでグリフィスが受けた拷問を思い出すから嫌だ。
それでもすべてを返り討ちにするマッツ・ミケルセンが良い。片目が見えなくなるのは受け入れがたいが、ヒロインがあらかじめ復讐しに来ているのは面白い。でも取ってつけたように見えるかもしれない。だって薬漬けにされたり、性暴力を受けたりしたのかどうかが曖昧でモヤるからです。
何らかを産むことを持て囃すのも、その軽さがもたらす一時的な解放感に過ぎないのかもしれない。でも生み出された物を鑑賞するだけのぼくらみたいな連中がその軽くなった出力者を見て「ああ、軽くなったね」なんて思うだろうか?そして、軽くなったことでぼくらや彼女らはなんの恩恵を受けるのだろうか。
ぼくらは何かを生み出すたびに、自分自身を少しずつ失っていく……とは思わないし、それが真の「軽量化」とも思わない。何かを生み出して何かと別れて軽くなったとして、その失われた部分を埋めるためにまた何かを生み出そうとするとも思わない。別にそれは繰り返しではない。
ぼくらはこのよくわからんPDCAの中で本当に大切なものを見つけることができるのだろうか。いや、本当に大切なものなど見つけようとしているのか?そんなこと知らんし興味すらわかないからこそ、創作を続けるのかもしれない。失われたものが外付けハードディスクに保存されただけなら、そこまでの別れでもないだろう。