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誰かの私でありたかった、そう思っていた

とある歌の歌詞に出てきた「誰かの私でありたかった」という言葉。
その言葉に既視感があった。かつての私の思いと同じ。

そうありたいとはっきりと言葉にはなっていなくても、そんな想いは確かにあったから、この言葉に共感してしまうんだろうと、素直に思えてしまった。

小さい頃から、私は私のものではなかった。
優等生というレッテルを貼られて、いい子でいる自分が自分だった。周りの人から見られるように、レッテル通りにやればいいんでしょと心の中でだけ悪態をついて、澄ました顔して優等生演じてる、”誰かの私”だった。

それは虚像だと気づいていたけれども、どうすることもできなかった。
みんなの思い描く自分でいることをやめられなかったのだと思う。
突拍子もないことを、優等生のいいこらしいと思ってもらえないことをするのが怖かった。

学生の頃、髪を長く伸ばしていた。ズボラだっただからけれども、そういうイメージがついている気がして。ある日お友達が、長い髪をバッサリ切って、ベリーショートにしてきた。

ああ、自分の殻を破ったんだな、と。
少し羨ましかった。私にそんな勇気はなかった。

それでも私は、自分の役割を全うするような行動しか取れなかった。優等生として見られてる自分がいて、それが自分ではないと思っていたけど、抜け出せずに。

心とは裏腹に、誰かの役に立っているとか、期待に応えるとか、求められているとか、そういう感情もまた欲していたのかもしれない。
求められるって、気持ちいいものだもの。誰かが喜んでくれるならそれでいいとも思っていた。
そこに押し込められていた自分がいたことにも、薄々気づいてはいたけれども。

だから、いつも疲れていた。
自分ではない自分のために取り繕っていたから。
それでも頑張って一生懸命に演じていたから。

私は、誰かの私であるために自分に無理を強いてきてしまったなと、振り返って思う。あの頃の自分には、”よく頑張ったね”と”ごめんね”と言ってあげたい。。

この歌には続きがあって、「私の私でいてもいいの」と問う。
誰かのために在ることをデフォルトとしてきた自分が、自分は自分だ、ということに気づき始めたということ。
それでもいいの?と自信なさげに、確認せずにはいられない不安と戦って、一歩踏み出そうとしているような、切ない問い。自己肯定感。

「いいんだよ」

自分を見失いかけているすべての人へ、いいんだよ、と伝えたい。伝わってほしいと願う。
優しすぎて、周りばかりに気を遣って、自分が見えなくなってしまっているんだよ。影ばかりでない、自分があるんだよ、と。
私もかつての自分へ、全肯定で「私の私でいいんだよ」と言ってあげたくなるような切なさが込み上げる。


人は一気に変われるものではない。
思い方のクセも、そうする必要があった状況にいて身についてしまったもの。
少しずつ、思い直していけばいい。何度も何度も思い出して。

今日はそう思えたとしても、明日はそうでないかもしれない。信じられない瞬間だって何度もやってくると思うけど、もう気づいたから。知っているから。

いつも元気でいられる日ばかりではない。
自分は自分のもの。誰かに何か言われることもしなくていいし、自分のために行動してもいい。それは、きっと、他の誰かは普通にしていることだったりする。

自分の普通が誰かの普通でなくても、それに気づけたのなら、私の私であっていい。顔を上げて、前を向けたならそれでいい。

少しずつ、身体に馴染ませて、いつかそれが”私の普通”になったらいい。
気づくって大切だ。気づけたなら、そこから始めればいい。
私の私で在るという存在証明を。





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fuu
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