見出し画像

2-07-13【「選択する」とは何か?】

2-07-12のつづき
本著の概要と目次

■記憶の抽象化作業は選択の準備と同じ■

ちくと前回のまとめ的なお話を先にするが・・・
『客体空間:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体空間:長期記憶』
何度も申すが、意識さんは『客体⇄主体』を一致させたがるだけである。1/100万bitの意識は
「勝手に入力情報を捨て」
「勝手に長期記憶から情報補完する」
ので、選択を意識した時点で選択も既に決まっている。人間が出来るのは、事前に環境に対する客体の姿勢をバランスさせ、スイッチング
『外向←客観→内向』
することだけ。言い方替えれば『具体化⇄抽象化』の作業で事前に優れた型を記憶に刻んでおくことだけである。

『情報入力→客体→具体化→主体』と『情報出力←客体←抽象化←主体』を切り替え続けること。『具体化⇄抽象化』は同じなので、この作業を繰り返して客観の解像度を高めながら思考と行動を一致せしめることが軸となる。コミュ力も表現力も才能を引き出す能力も、自己承認も世界認識も・・・認識に関わるすべてがコレを起点にする。人類文明もこの構造をベースに歴史を刻む。

客体が主体の長期記憶を編集するから、上手い情報共有を外で成す。寄り添う。上手く自分を外へ出す型があるから、自己承認も可能になる。『外向←客観→内向』の解像度は同じだ。逆に客体スルーして本質のみを摂取し、線も刻まず主体の本質をそのまま表に出すのが下手となる。『現実⇄理想』が寄り添うのは徹頭徹尾『客体』が機能してるか?否か?である。
四律『因果律:世間⇄社会律:ルール⇄客体律:行為⇄主体律:心』
この異質な秩序空間の整合を成すのは客体の行為に始まる。もし客体スルーすると人の理性は世界の側を否定しだし、主張はそのまま社会で共有され難い故に、自ら苦しみのジレンマへ突入させて致し方ない。『客体<主体』を恒常化すると各秩序を崩す。解像度の高い『客体:行為』の模索が間に挟んで、世界を変えることも、自分を変えることも出来てくるのである。

ちなみにその解像度自体は諸刃の剣で、良くも悪くも機能する。例えばネガティブな方向に高解像度な者ってかなりいる。これもスイッチングの不具合。外向と内向のスイッチングは解像度を高めるが、解像度自体は重要ではない。

■過去も未来も今のあなた■

さて、あなたの記憶の中の『過去⇄現在⇄未来』のイメージも、世界の認識も、自明としてすべて「今のあなた」である。神道的に申せば『今中』、仏教的に申せば『空観』。更に『唯物論』的に申せば、過去の記憶も未来の理想も「今の記憶の状態」である。頭カラッポにして今に集中し、これを高解像度で客観できて「自分を変える」も可能となる。構図を整理し直すとこうなる・・・
『⇄客体律:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体律:長期記憶』のうち、『客体律』は「現在の入力情報」で、『主体律』は「過去や未来のイメージの集合体」。そしてどちらも「今のあなた」だ。
故に「行為に集中する」『客体>主体』は「今に集中する」「現実と向き合う」で、客体スルーが「今の現状を無視する」になるなのだ。どちらがメインか?のお話。動物は漏れ無く客体メインだ。これが本当の「ただいま」だ。だが人間のみが時たま主体メインと化す。

「私は自分を変える為に、先ず世界を変えたい。だから私は、お前が変われと延々主張し続ける。それは全員にルールとして平等に課す必要もある」・・・【共産主義の台頭】の章で論じた『共産主義』の思考回路である。
これを四律にすると
『因果律:世間<社会律:ルール>客体律:行為<主体律:心』
となる。手前の脳内の極めてミクロな視点が、行為やルールや世間の側を純粋否定する構図。思想を正当化し絶対化する構図。『主体律:長期記憶』の過去や未来が、今のあなたも否定している。こうして自己批判させて選択肢を支配者が与える構図が『全体主義』である。

リアルを生きる我々は、この逆の構図で内包されている。たとえ世間やルールを否定するにしても、心が自己正当化されるとただの主張を投げるだけに終始するのだ。そして「理解しろ」の応酬だ。主体の出っ放しが危ういのだ。
故に『色即是空・空即是色』「世界を否定している、私の観念を否定する」で、四律を並べて線を繋ぎ、「整合せしめる姿勢」が軸になるのが自然となる。世間を否定するなら、優れた線を世間へ奉納することが、「世界を変える」に結果としてなるのだ。そしてそれが「自己の内面を変える」と同じになる。

先に論じた『縁起プロセス』も同じ。「異質な他者と創造を成す」を『外向←客観』することと、『客観→内向』で「自己の内の矛盾を内包すること」も同じになる。社会で他者と成した縁起と、自分の内で起こる主客縁起も、同じになるのである。我々は異質な概念を縁起させ、体系化したものを客観して、矛盾を美意識に内包していくのである。
四律は動的平衡している。すべて『現在』をメインに変化し続け、常に整合したがっている。水も空気も高きから低きへ流れる。カオスから秩序へ。不安定から安定へ・・・主体の内から外の秩序を眺めるか?四律を俯瞰して眺めるか?どちらが賢いか?のお話だ。
主体の中に宇宙が在るのではなく、宇宙の中に主体が位置づいて在る。現在の認識の渦中に過去や未来の認識も在る。それが大前提となる。人類が21世紀までマトモに哲学してこなかった「システムとして世界を観る」も、この姿勢を前提にしてようやく始められるのだ。

■選択とは何か?■

だから「苦手を克服する」は「昔の自分を救うこと」と同じになる。行為や姿勢のみが己の主体を書き換える選択肢と言えてくる。経験こそが自由なのだ。昔の記憶というやつは、自明として今の記憶と同じである。記憶の中身よりも、どんな本質を宿しているか?よりも、『主体律⇄客体律』を繋ぐ刻み込まれた線が重要となる。そもそも『選択』とは何か?・・・

原因とか結果とか、目的とか、そういう点に注目しても普遍性は見いだせない。人それぞれに持つ「点と点をどう結ぶか?」という線がすべてを規定してる。もっと言えば、「その線をどの環境から拾ってきたか?」が認識の普遍性を人それぞれに決めている。強引に心理学的な視座から行為主義を解釈しちゃうと、

フロイト心理学は「過去の原因がその選択をした」
アドラー心理学は「未来の目的がその選択をした」

と申す。本著においては、過去や未来の影響はどうでもいい。どちらも今その時の自己の状態だ。主体空間では原因も目的も同等に点在する。行為は原因から決まるのか?目的から決まるのか?よく「どちらが正しい?」の論争があるが、本著の四律モデルに言わせりゃどっちも正しい。「そういう線を長期記憶に刻んでるだけでしょ」だ。
点と点を繋いだ線が、どちら側の点から再生されたか?で行為が決まっただけ。ネガティブもポジティブも、線の刻みを客観する解像度が高まれば、即ち自分で『具体化⇄抽象化』する作業を繰り返せば、スイッチングが可能となって「どっちでもいい」になる。我々が思考すべきは、『客体⇄主体』スイッチが高速で切り替え可能な環境を選ぶ側にある。選択肢自体は問題ではない。

例えば「ポジティブな方を選択せよ」という啓蒙がよくあるが、本当にそれでいいのか?ネガティブな環境に居座り続けてそれを行為してないか?相対性のジレンマ。ネガが濃いとポジも濃くなる。それで一喜一憂するなら、環境の側を疑った方がいいではないか?ネガティブな方向へポジティブに走り続けるのは客体スイッチ不良状態で、秩序のバランスを崩すことでもある。
カラリと澄み渡る晴天が、私の絶望を、より確かなものへと高めさせる・・・という経験に覚えはないか?「明るい人たちの中の陰鬱な私」と言い換えてもいい。本質の摂取と姿勢の切り替えと、どちらが大事か?を考えると、姿勢の側が観念を制御せしめる支配的制御装置であると言える。人は『環境』や『人』の影響を受けて選択をする。
本質的な観念への影響は、意志と関係無く実に御し難い。異質な環境に異質な点を置いて意識を奪われるより、それで「君は視点を変えるべき(客体→主体)」と言われるより、逆に「お前ら環境を変えろ(客体←主体)」と反作用するより、点を適材適所な空間に位置づけ『客体⇄主体』が自在にスイッチングできる環境に身を置いた方が自然に則す。

■選択は『外向←客観→内向』のスイッチングのみ■

ていうか、人間が選択可能なのは姿勢のスイッチングのみである。「環境に適応する」を自分のペースでやることが軸。ネガもポジも、矛盾もあるがままに客観する解像度を上げる方が大事となる。「Aか?Bか?」よりも、AとBを俯瞰して全体像に位置づける眼の解像度である。棒上を歩く虫さんの選択肢は前か?後ろか?だが、それを上から俯瞰する者は選択肢自体をコントロールする。
本当の選択は論理ではなく「今の私の状態がどの情報の塊と向き合っているか?」が起点である。未来の目的や過去の記憶に意識を奪われると、今の自分を否定すること、自分の可能性を捨てることと等しくなるからだ。
何度も申すが『客体空間:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体空間:長期記憶』の構図で、1/100万bitの『意識』は「膨大な文脈情報を勝手に捨てる」と「勝手に長期記憶から情報補完する」をやらかし、主客を整合させたいだけである。客体に入力された情報を、主体と整合させたくて、我々は選択をする。

だから客体の姿勢を変えることが、選択肢自体を選択する唯一の意識的な作用になる。客体が環境の影響をフルに受けてる時点で、我々は「環境に選択させられている」のである。外の影響が強いか?主体の影響が強いか?ただそれだけの力学だ。環境が提示した視点が、事前に刻まれた線を再生して、選択をするのである。
それに対抗できるのは、その理屈を利用して、事前に「その文脈認識は勝手に捨てるな」「その欠損情報はこの型で補完しろ」と意識さんに水をさすこと、又は事前に影響を受ける環境を脳内に構築しておくことになる。「影響を受ける環境の側を選ぶ」である。これも『環境→客体→主体』と『環境←客体←主体』のスイッチング以外の何者でもない。

先に論じた『縁起プロセス』で「何を捨て?何を守るか?」を模索する際の『距離感』のお話ともまったく同じである。異質な概念と寄り添い創造を成すこと、縁起の経験が即ち、このスイッチの切り替えと同じになる。本章のすべては同じことを多様な角度で解釈しているだけである。
選択肢が出た時、我々が選ぶべきは環境に対する姿勢の側である。『姿勢』で『感情』も客体のコントロール権に収まる。事前に線が刻まれてりゃ、去来した観念の囚われを分散させることが出来る。仏教の『悟り』も「イライラが無くなること」ではない。去来した観念を即座に散らせる状態を覚えることだろう。
『寛容』も『客体律:行為』の線が多方向へ刻まれていて可能となる。「私を理解しろ」と言われていきなり距離を詰めた時点で、既に選択させられている。そこには理解か?拒絶か?しかない。そうではなく、「あの人は何か事情があるのでしょ」と一旦距離を置くから、異質な他者への理解が結果としてある程度可能となるだ。繋がる線で繋がり、繋がらない点は距離を置く。
テスト環境なら、学習した環境や先生を思い出し、その姿勢で「解ける問題から解く」である。「線を繋ぐ」という作業だ。これも『縁起プロセス』と同じである。そして「距離感を掴む」もまた客体でしか為せぬお仕事である。
ちなみにこの様な自在な『視点移動』も、それ自体は重要ではない。こいつを情報戦に使えば『論点ずらし』のスキームに化けるからだ。

異質な概念が衝突し、別の道を探る『縁起プロセス』↓
この『Dドリブン:分離』で「ちょいと距離を置く」のは、選択においては「全体像を俯瞰しに行く」という意味になる。もしこの段階を経ず、『Pドリブン:競合状態』で合理的に選択を成しちゃうと、『P:プラン=A:体系化』で、共産主義で申す『アウフヘーベン』となり、脳内のアプリオリな結論が、純粋に現実を否定しだすプロセスへとなって悲劇を生む。

縁起図2

■環境や人のイメージの塊からアクセスする■

自分の客体が客観的に自己の主体を眺め、『具体化⇄抽象化』を高速で編集し続ければ、主体記憶の拡張が成され、その認識解像度が最終的に自己承認もするのである。そして外の環境の影響が強ければ、事前に線を刻んだ環境に客体をスイッチングして、『客体⇄主体』のバランスを持続化する側が大事なのである。コレができなくて、人は一喜一憂する。
『縁起プロセス』も加味するとこんな言い回しになるだろう。人と人は文脈を共有して繋がる。個人の客体と主体も文脈を繋げて心をバランスさせる。そして両者は同じことになる・・・

『客体空間:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体空間:長期記憶』
意識は両者を一致せしめたいだけ。ロジックはその内に人それぞれのカタチで点在するだけで、しかも『環境』や『人』のイメージに内包されて記憶されている。歴史のテスト問題で選択をする際、答えを記憶した環境や、先生のイメージから思い出して答えを選ぶことってあるだろう?我々は『情報の塊』にアクセスしてから『ロジック』を引き出すのだ。選択の後「言い訳する」「正当化する」もそれ故に発生する。

広義に申せば、選択の支配的原因は『経験』や『習慣』が刻んだ線である。だがもうちょい狭義に内を観ると、それらは『環境』や『人』のイメージの塊に内包されてある。ロジック自体もその内に刻まれてある。支配的な影響を宿すのはロジックの側ではない。言語記号もそれを包む塊の文脈で意味を変えるからだ。意味論的に、言語は意味から記号化される順番が自然だ。例えば同じ言葉でも、内包される文脈の塊が違えば別の意味になる
「このハゲちゃびんが!」と申す言葉が『差別』の塊に内包されてりゃ差別だ。その塊からズラして『コント』の文脈塊に位置づけりゃお笑いだ。

『実存主義』の「実存は本質に先立つ」風に申せば、この差異が表すのは「意味づけは言語記号に先立つ」だ。地味ながら重要なのはこの法則の側なのだ。本質つまり点、つまり言語記号、それらに注目しても、文字通り意味は無い。例えば差別的ニュアンスに「このすこぺっそすがぁっ!」と無意味なフレーズを位置づけば、その無意味な"すこぺっそす語"は差別用語にされてしまう。故に『ポリコレ』だの『言葉狩り』は本質に注目した故に、本質ではないのである。記憶の構造(システム)の問題なのである。

普通は概念の塊が論理を内包しているだろう?我々は一本の線で記憶しているのではなく、余計な情報と関連づけて論理を記憶しているのだ。論理自体を取り出したくとも、実は「この論理の扱いは得意だ」という『自我』の塊に論理を刻んでいるだけだったりする。だから自我と乖離した異質な環境の影響を受けながら、自我の外に意識がアクセスしてる状態で、自我の内に刻んだロジックのみを抽出するのは困難なのだ。『あがり症』というやつだ。「忘れたことを思い出す」のコツは「思い出したいものがあった環境に行くこと」だそうだ。

あがり症

線は必ず塊に内包されている。論理的に関係無い情報の塊の中に論理が刻まれている。教室のイメージの塊の中に、学習した論理が内包されていたり、英語教師のイメージの中に、英文が内包されていたり・・・人の記憶はロジックで整理されていない。塊にアクセスしてから、論理を抽出している。それでも事前の線の刻みが表に出るのは、相当ロジックを自分で抽象化し、体系化してるか?更に大きな目的ですべてを内包してるか?だろう。


これらをPDCA風にまとめるとこう・・・
①『P:思いつき』
意識さんは『客体律:短期記憶⇄《意識現象》⇄主体律:長期記憶』を整合させ、両者を書き変え安定させたいだけ。
②『D:やってみて』
人間は、論理を無視して関連づけた環境や人の『イメージの塊』にアクセスしてから、その影響を受けて内包されたロジックを取り出し、選択をする。
③『C:軌道修正』
ならば本当に選択すべきは、選択肢それ自体ではなく「どの情報の塊と向き合うか?」の姿勢の側にある。
④『A:体系化』
その視点移動を自在にする為には「事前にどの様な情報の塊を形成するか?」を『具体化⇄抽象化』の作業で事前に記憶に刻んでおくことになる。

・・・つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?