2-07-5【「ゼロを目指してバカになる者」と「バカになってゼロから始める者」】+ちょいエヴァ考察
■無為を目指すな!無為から始めよ!■
私とあなたの関係とは、中身をカラッポにした「私というサークル(殻)」と「あなたというサークル(殻)」を線でにじり寄らせるよう繋げていくから『人間関係』が成立すると説明した。『縁』の繋ぎ方は文化場で訓練されると論じた。「己と的をひとつにする」と申す『弓道』『合気道』『禅ZEN』の思想もこういうことだ。『阿吽の呼吸』もコレ。『主体律:空の心』で『客体律:身体の秩序』が『個』を保つから『縁』が繋がるわけである。
だがしかし!『空』は『無為状態』と勘違いされて、人々は「カラッポ状態の中身」を目指して『客体<主体』に化けることがある。中身をカラッポにした状態を「結果」とするのと「始まり」とするのは違う。だから禅は徹底的に「無為を目指すな」という教えからスタートするのだが、この差異は何か?を論じてみる・・・
「フィジカル(客体)とメンタル(主体)をカラッポにすれば色んなものと繋がれる」と勘違いするただのバカがいる。「"空の殻"と"空の殻"を刹那に"線で繋ぐ"」のが『縁起』であり、それは「恒常的カラッポ状態の中身を目指す」となる『道教』的な『無為自然』とは違う。ヒッピーは『中身』を無為にしたがる。無為にして、次に他者と繋がる線を抽出していくなら仏教的になるが、無為状態を「よし」とするなら道教的になり、それは縁起とは真逆になる。人間関係において「私の無為に合わせて、お前も無為になれ」となる状態は、線を繋ぐ作業をしていない。次のステップが無い。その差異は「文化的か?否か?」となり、文化として受け継がれていくか?ただの流行りで終わるか?の分岐点ともなる。『個』の『客体律:姿勢』を崩すか?保つか?でもある。
中身がカラッポ状態になるのは、時間的に『恒常』ではなく『刹那』である。ネイティブアメリカンは野生動物と己の魂を寄り添わせ。獲物と自己を信じ、何時間もかけてにじり寄り、最小限のアクションで狩りをするという。無為は『行為』つまり優れた方法論である。異質な者同士は繋がれる部分で繋がればいい。その意味で互いにWin-Winの関係になれる。同化や同調ではない。協調は最も重要なことではない。光の中で水と油が混ざる刹那の美が『共感』である。今に集中して己を一旦無為にせしめるのだ。刹那の交わりでいいのだ。そしてその線の上昇した先の中空に感謝し、「すべては繋がっている」と申して『個』へ戻るのである。
「すべてを無為にして混ぜる」のではない。自我に執着すると、世界を自分の思い通りにしたくなる。「私の○○」という価値基準は無為状態にしてもそこに在り、いやむしろ、無意識になることで純粋にそのまま表へ滲み出てしまう。純粋に世界を否定して自己を肯定しだすのである。無為を目指すと、今の自分と向き合わなくなるからだ。
■バカに2種あり■
テストで30点取って「0点でもいいじゃないか!私は生きているんだ!」とバカへ走る者と、「そもそも0点から始まったんだから、再び0からやり直そう」とバカになって走り出す者は違う。言い方換えれば「ゼロを目指してバカになる者」と「バカになってゼロから始める者」は違う。
下手なのは前者。『客体⇄主体』間における『否定の肯定』だ。それは虚構を生み、現実と対立して発狂を呼ぶ。人は世界を否定する自分を肯定しだして狂気へ突入するのだ。だから「無為を目指すな」であり、代わりに「己に克つ心」『克己心』という言葉がココに嵌る。「私(自我)を捨てる姿勢」とも言えるか?
世界のすべてを自我と繋げて思考する、その線を断ち切るわけである。『否定の否定』である。これを介して価値観が「世界と私の繋がり」になるのだ。『不確実性』の『ポストモダン』的価値観に依り、セカイの中心が無くなる。執着が『分散型』になる。去来したネガティブな観念を即座に分散する作業に移行させるのである。こいつが己の内に宿る、又は因果の渦中に宿る、ネガティブな観念や毒を、薬へ化けさすのである。繋げる作業に集中する為に、我々は余計な観念を捨ててカラッポになるのである。
有り体に言うと「私には偏見と執着がある。消そうとしてもある。ならばようこそ!偏見を表に出すと上手く他者と繋がれない。だから偏見を薬へ変化さそう」となるのである。無理に「偏見があるならそれを無くせばいい」となればこの模索は発生しない。「世界を偏見の無い状態にすれば(否定)、私も変われる(肯定)」となり、自分の中に在る偏見を無意識に肯定して、私を中心に世界を拒絶しだすのである。己の観念を編集せずに、世界の側を編集したがる。それは『因果律』に対し「毒を無くせ」と要求しているだけで、無茶なお話なのである。
縁起は「因果の不条理を拒絶してしまう(否定)、その私の観念を別のカタチに編集する(否定)」で始められる。二元的に対峙するエネルギーを落とすから、他者と繋がれるわけだ。イライラした瞬間にその観念を分散せしめるわけだ。他にも様々な観念を編集する。例えば何か大切なものを失い、その存在に執着して苦しみが去来した瞬間、「あれは私の前を通り過ぎただけなのだ。何を嘆く必要があろうか?」と思考を切り替える。それで他者と繋がり行為することで、『縁起』を介し欠けた心の補完をしていくのである。
「私が居なくても世界はまわっている」という至極当然の「あたりまえ」に気づき、私は「世界に生かされている」と感謝する。捨てても捨てても、それでも世界と私は繋がっていると気づく。今この瞬間に繋がっているものを大切にする。それがリアルなわけで、それのみが『確実性』なわけで、この作業を説くのが仏教であり、その作業がいくらでも自由に出来るのが『文化』なのである。『マインドフルネス』もコレで、こちらは「価値判断するな」とまで申す。「無為を目指すな!今そうなれ!」である。無為自然なゼロ状態から行為を始めるのであり、無為自然状態を「よし」として話が終わるのではない。そこから世界との繋がりを始めるから『文化』になる。
だから『仏教』を国教に据えた国は、「価値あるものを行為主義的に社会へ奉納し続ければ、社会を良くすることで結果私も救われる」といった感じになる。『客体律:行為主義』で『他力本願』になる。ちなみに『道教』を国教に据えると逆に「主体の虚構の側を絶対化しだす」となる。二元的対立を『主体律:道徳』で内包し、そいつを絶対化して、虚構に権力者が君臨し「この虚構を現実化しろ」となる。コイツが単純に『社会律:法律』へ変換されて、人々を従わせる構図になる。ちなみに虚構に偏ると、それは歴史的な悲劇も色々生むのだが、そいつは本著後半、東洋文明の歴史で論ずる。
■ゼロ地点は今この瞬間に宿る■
ちなみにこいつはこの後論ずる世阿弥の『初心』とも関わる。「あなたは何を信じて生きるか?」の人生哲学にも関わる。ゼロ地点をどこに置くか?で『実存主義』も2つの方向性に分岐する。「現実の実存認識が、己のセカイ観を規定するのか?」「現実的な虚構の実存認識が、己のセカイ観を規定するのか?」へ分岐する。例えば「映画を観た後リアルに帰りファクトと向き合うか?」と「映画のファンタジーをリアルに上書きするか?」の違い。ゼロ地点を『過去⇄現在⇄未来』どこに置くか?の差異だ。
もし「世界をゼロに変えれば(否定)、私も変われる(肯定)」となれば、未来の理想が現在を否定しだすので、縁を繋ぐ作業が放棄され、現実社会が悲劇化する。逆に現在にゼロ地点を置くと「今を生きる」になり、実存主義は仏教的な『色即是空・空即是色(否定の否定)』となり、「世界を拒絶する(否定)、そんな私の観念を捨てる(否定)」となって、ゼロから「私と他者の縁を繋げる」という『縁起』の作業へ突入するのだ。実に縁の導きへ入るか?入らぬか?で実存主義も意味を変えるのだ。
実際の世界史的にはどうだったか?実存主義は、近代文明に対する絶望へ向かって近代文明が二度にわたって最大に輝く『世界大戦』の後、「何を信じて生きればいい?」となった不確実な時代に、この両者を演じた。サルトルは「実存は本質に先立つ」と申して『本質』を脇に置いたのに、あるがままの自分の『実存』を人生のスタート地点に置いたのに、『客体律:行為主義』にならず、ゼロから現実と向き合わず、皮肉にも大衆は「実存主義かっこいい!」となって実存を内面化し、『主体律:心の内の本質』に再変換して、己のセカイ観に没入した。こういう悲劇も生んだのだ。すべては「ゼロから始める」と「ゼロを目指す」の違いから分岐するわけである。
■縁起×実存主義+ちょいエヴァ考察■
ちなみに映画『エヴァンゲリオン』もこの辺のジレンマを命題にした作品だった。ココで本著が掲げた2つのテーゼを再提示する。
《テーゼ①》「人間とは、望まぬ未来を願って突っ走るバカな生き物である」
《テーゼ②》「文明とは、人間の願いを純粋に叶えて実現させる装置である」
これに則り、実際に起きた人類文明の三大パラダイムシフトに、エヴァのメタファーを重ねる。
①『農耕革命(中世)』ファーストインパクト
②『産業革命(近代)』セカンドインパクト
③『情報革命(現代)』サードインパクト
そして「人は何を信じて生きるか?」の価値観シフトを重ねる。
①『農耕文明(プレモダン:象徴性と道徳)』
漠然と信仰して生きればいい、神に対する信仰道徳で人々を支配する時代。
②『産業文明(モダニズム:絶対性と確実性)』
神を言語理解して生きればいい、聖書主義で始まる人間理性が神を内包する時代。
③『情報革命(ポストモダン:多様性と不確実性)』
どう生きていいか分からない、神が精霊となって分散した不確実な時代。
これが次に起こるであろう④『人類進化(全と個の融合)』フォースインパクトの手前で、『縁』が『個⇄個』を繋ぎ人生を導く『ポストモダン(不確実)』な『分散型社会』へ戻して、「バラル(散れ)!」となって、現実社会へ着地していく・・・となる。本章で散々ぱら論じてきた『縁起』の発生する社会へ着地するわけである。さながら20世紀末に失敗した『サルトル的実存主義』に『縁起』を加味した『仏教的実存主義』と言えよう。
・・・つづく
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