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纒向は卑弥呼の都ではない:9つの根拠
僕は、奈良県桜井市の纒向[まきむく]遺跡が卑弥呼の都だったということはありえないと思っています。根拠はこれまで個別の遺物・遺構・文献などの記事で繰り返してきましたが、今回は「纒向は卑弥呼の都ではありえない」という切り口で、9つの根拠をまとめて説明します。
内容は目次のとおりです。大項目の1つ目では僕が「纒向は卑弥呼の都ではありえない」と考える根拠を3つ紹介します。2つ目では「纒向は卑弥呼の都」の根拠とされる5つの説を検証し、根拠にならないことを紹介します。最後は、しっかりした根拠があるわけではなく、僕の主観ですが、「纒向は卑弥呼の都ではありえない」と考える理由を説明します。
9つの根拠のうち7つは考古学的な根拠です(文献学1つ)。
それぞれ僕の個別記事のリンクを掲載しますので、詳しくはそちらの記事も読んでみてください(小項目⑥⑦は個別記事なし)。
なお、僕は時代区分を以下のように単純化してとらえています(通説とは異なります)。卑弥呼の時代は弥生終末期前半(3世紀前半)になります。
弥生後期:1~2世紀
弥生終末期(土器の庄内式期):3世紀
古墳前期(布留式期):4世紀
古墳中期(須恵器):5世紀
※トップ写真:鏡をかかげる倭の女王卑弥呼(大阪府立弥生文化博物館)(2025年10月撮影)
Ⅰ「纒向は卑弥呼の都ではありえない」根拠
①纒向は大陸や九州との交流の痕跡が希薄
纒向は大陸(中国・朝鮮半島)や九州との交流・交易の痕跡が希薄です。坂靖[ばん・やすし]さん、関川尚功[ひさよし]さん(いずれも元・橿原考古学研究所)は以下のように述べています。
▶庄内式期の纒向遺跡には、海外交渉を示す資料が極めて稀薄である。日本列島における楽浪系土器の分布の東限は、島根県山持[ざんもち]遺跡<である>
▶北部九州では…比恵・那珂遺跡群などで楽浪系土器が集中的に出土し、当該期の外交拠点であったと考えられる
▶それに対し、纒向遺跡に楽浪系土器は皆無であり、外交拠点となったのは、布留式期以降と考えられる
▶古墳出現期という時期にかかる纒向遺跡において、金属器なり、大陸系の遺物が非常に少ないことは、むしろ意外ともいえる
▶それがこの遺跡に実態というものを現わしているとみなければならないであろう
※引用は、見やすいように文章を▶で改行します。順番は入れ替えていることがあります。< >は僕が補った個所です。
交易・交流を示す最もわかりやすい遺物は土器です。しかし、纒向には朝鮮半島の楽浪系※土器や九州系土器がほとんど出土していません。卑弥呼は九州から帯方郡※を経て中国と交流していながら、纒向にはその痕跡が見られないのです。
※楽浪[らくろう]郡:現在の平壌。中国の朝鮮半島の出先機関が置かれた
※帯方[たいほう]郡:204年に楽浪郡を分割して南に置かれた。現在のソウルまたは北朝鮮沙里院[サリウォン]とされる。魏使の出発地
坂さんは「纒向遺跡に楽浪系土器は皆無」と述べていますが、纒向学研究センターのHPで破片1個が紹介されています。九州系土器は石野博信さん(橿考研)が「<1973年に九州を回った際>纒向遺跡の九州系と考えた大壺片を携行しておきながら、大分県安国寺遺跡の南九州系由来と考えられる大壺には気付いていなかった」と述べています(「邪馬台国時代、吉備と出雲連合は大和に新王権を樹立したか」(『季刊邪馬台国』第137号、梓書院、2019年))。大分県で出土した土器の系統1片が纒向で出土しているようです。どちらもほとんど出土していないことは変わりません。報告書・論文などで正式には報告されていないと思います。
坂さんが触れている山持[ざんもち]遺跡の報告書は、楽浪系土器について、以下のように述べています。
▶楽浪土器の出土例のほとんどは壱岐・対馬を含めた北部九州が主要地域となり、特に長崎県壱岐市原の辻遺跡では約150点出土していることから、当時の大陸との交易拠点と考えられている
▶関門海峡以東の地域では…出雲市山持遺跡・青木遺跡と松江市鹿島町沖の引き揚げ例のみが知られているだけ<である>
▶現状では<楽浪系土器は>北部九州と島根県東部地域の山持遺跡に集中するという特異な分布状況を示している
(島根県教育委員会、2011年)
寺沢薫さん(纒向学研究センター)は「大阪市加美[かみ]、大阪府八尾市久宝寺[きゅうほうじ]遺跡などに楽浪系・三韓系土器がはじめてもたらされていることは重要である」(『弥生国家論』(敬文舎、2021年))と述べています。しかし、大阪府文化財センターに問い合わせましたが、加美遺跡・久宝寺遺跡とも楽浪系土器が出土しているという事実は確認できませんでした。
寺沢さんは卑弥呼共立のバックには公孫氏※がいて、倭国に倭国乱の終息を働きかけたとし、その年代を210年前後としています(『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年))。寺沢さんは3世紀の早い時期には公孫氏と外交関係があったとしているわけです。
※公孫氏[こうそんし]:遼東半島を実質支配していた中国の氏族。204年に帯方郡を置いたが、238年に魏によって滅ぼされた
公孫氏が倭国に外圧をかけた可能性はあると思います。そうだとしたら、当然、その成果を見届けるために高官が倭国を訪れ、滞在もしているでしょう。卑弥呼は239年以降は帯方郡を通して、魏に使いを送っています。しかし、纒向にはその気配が感じられません。
繰り返しですが、纒向では楽浪系土器、九州系土器がほとんど出土せず、大陸や九州との交流・交易の痕跡が希薄です。僕はもうそれだけで、纒向が卑弥呼の都とは考えられないことは明らかだと思います。
②大型建物は卑弥呼と相いれない
纒向では前方後円墳が生まれており、ヤマト王権発祥の地だったことは間違いありません。2009年に確認された大型建物は、年代、立地、規模、規格性などから、ヤマト王権の前身となる大和の勢力(プレヤマト王権)の王宮だったと考えるのが自然です。しかし、卑弥呼の王宮だったかどうかは別問題です。
最大の建物である建物Dは、高床建物であること、正面柱間が偶数(4間)であること、内部空間が広いことなどから、出雲大社と親近性があることが、復元した黒田龍二さん(神戸大学)によって明らかになりました(『纒向から伊勢・出雲へ』(学生社、2012年))。出雲大社の祭祀の特徴は、本殿内に祭祀者が入って祭祀を行っていたという開放性にあります。それは古代までさかのぼる可能性が高いです。だから出雲大社本殿は巨大で開放的な構造となりました。建物Dは王の生活の場であり、祭祀や政務(会合や謁見など)を司る場だったと考えられます。
一方、卑弥呼は魏志倭人伝で「鬼道を行い…見たことのある者は少ない」と記述されます。「建物Dの開放性」と「卑弥呼の閉鎖性」は相いれず、大型建物が卑弥呼の王宮だったとは考えられません。纒向は卑弥呼の都ではなかったことを示します。
③ヤマト王権に卑弥呼の記憶が残っていない
仮に纒向が卑弥呼の都だったとすると、卑弥呼とヤマト王権は連続し、ヤマト王権の記憶に卑弥呼が残っているはずです。しかし、ヤマト王権の正史である日本書紀には卑弥呼の痕跡がありません。
神功皇后の注釈
痕跡がないというのは実は半分不正確で、日本書紀は神功皇后のパートの注釈で以下のように記述しています。
▶魏志倭人伝によると、明帝の景初三年<239年>六月に、倭の女王は大夫難斗米[なんしょうまい]らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた
▶<神功皇后の>四十年、魏志にいう。正始元年<240年>、建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた
▶<神功皇后の>四十三年、魏志にいう。正始四年<243年>、倭王はまた使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして献上品を届けた
▶晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初ニ年<266年>十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している
▶<神功皇后の>六十九年<269年>夏四月十七日、皇太后<神功皇后>が稚桜宮に崩御された、年一百歳
神功皇后は日本書紀が創作した非実在の人物だというのが僕の説です。創作の目的は2つあって、1つは継体から天武・持統朝に至る出来事を正当化することです(女帝による中継ぎ、朝鮮半島遠征、皇后の皇子でなければ天皇になれないこと、藤原氏による補佐など)。
魏志倭人伝の反映
そして、もう1つが、卑弥呼の遣使の反映です。日本書記は、倭の女王が景初3年(239年)から泰初2年(266年)にかけて中国に遣使したことを注釈で記述しました。266年の遣使で役割を終えたということで、神功皇后(皇太后)には269年に亡くなってもらったのです(松村一男「神功・応神伝説に秘められたもの」(『倭の五王の謎』(学生社、1993年))。
ヤマト王権に卑弥呼の記憶が残っていたわけではありません。日本書紀の編者は魏志倭人伝を読んで卑弥呼を知っていて、卑弥呼が存在しなかったことにはできないから注釈を入れたのです。朝鮮半島遠征した神功皇后と巫女的な女王だった卑弥呼はまったく似ていません。
卑弥呼と天岩戸伝説
天照大神の天岩戸伝説が、卑弥呼の死→混乱→台与の共立の反映だという説がありますが、僕は賛成できません。天照大神は皇極・斉明天皇と持統天皇の出来事を正当化したのだと思います。
天岩戸伝説は皇極天皇・斉明天皇の初めての重祚[ちょうそ]を正当化しました。卑弥呼と台与は別人ですが、皇極天皇と斉明天皇は同一人物です。ニニギノミコトの天孫降臨は持統天皇による軽皇子[かるのみこ=文武天皇]の立太子を正当化しました。卑弥呼は生涯独身ですが、天照大神は誓約[うけい]という形で子孫を残しました。
そもそも、注釈で魏志倭人伝を引用し、卑弥呼の遣使を記述したこと(注釈という形でしか反映させられなかったこと)が、ヤマト王権には卑弥呼の記憶が残っていなかったことの証明です。
卑弥呼とヤマト王権は連続していないのです。
Ⅱ「纒向は卑弥呼の都」の根拠を検証
④弥生終末期の画文帯神獣鏡は近畿からの配布ではない
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先ほど、纒向には大陸との交流の痕跡が希薄だと書きましたが、奈良県ホケノ山古墳で出土した画文帯[がもんたい]神獣鏡(完形鏡・破鏡)は、中国との交流の証明だという説があります。画文帯神獣鏡は近畿を中心に出土します。弥生終末期に近畿の勢力が中心となって入手し、配布したと理解されてきました。
一方、辻田淳一郎さん(九州大学)は以下のように述べます。著書の『鏡の古代史』(角川選書、2019年)より、僕なりに整理して紹介します。
画文帯神獣鏡の流入・流通は、弥生終末期(3世紀)と古墳前期(4世紀)を分けて考える必要がある
徳島県萩原1号墓、兵庫県綾部山39号墓、奈良県ホケノ山古墳は、いずれも石囲い木槨、鏡の破砕副葬、三角縁神獣鏡を含まないという特徴があり、画文帯神獣鏡の弥生終末期の出土事例と考えられる
画文帯神獣鏡の出土は、弥生終末期は上記に限られ、他の大部分は古墳前期である
鏡の流入・流通は、弥生終末期は破砕副葬・破鏡、古墳前期は完形鏡という流れがある
弥生終末期の破砕副葬・破鏡は、九州北部を起点として東方に拡散した
ホケノ山古墳など弥生終末期の画文帯神獣鏡も同様である。近畿が中心となって入手し、周辺地域に配布したという特徴は見られない
近畿に中心性がないことは、鉄製刀剣類やガラス製小玉などの流入・流通とも整合的である
近畿が中心となって入手し、配布したのは、古墳時代に入ってから(4世紀以降)だということです。ホケノ山の画文帯神獣鏡は、弥生終末期(卑弥呼の時代)の大陸との交流・交易の証明にはなりません。
⑤纒向は外来系土器が卓越しているわけではない
纒向は外来系土器の比率が高く、地域も広いとされ、共立された卑弥呼の都にふさわしいと言われます。諸国から人々が纒向を訪ね、移住したことを示すというわけです。
纒向の外来系土器の比率は調査報告書『纒向』(石野博信・関川尚功編、桜井市教育委員会、1976年)で報告された、様式分析による「約15%」という数字が知られています。しかし、外来系比率の算出方法は確立されていません(破片で出土する土器をどのようにカウントし分母とするかなど)。
2021年の様式分析では、外来系比率は「10%」となりました(橋本輝彦「纒向遺跡巻野内家ツラ地区における土器様相」(『纒向学研究紀要』第9号p55~66、2021年))。現時点ではこの数字が最も信頼できます。
2002年の胎土分析では外来系比率は「43%」となりました(寺沢薫・堀大介「出土土器の統計的報告」(『箸墓古墳周辺の調査』第6章第1節(奈良県文化財調査報告書89集、2002年))。様式分析と胎土分析で大きな差が出ていますが、理由は未解明です。同じ試料で様式分析と胎土分析を併用しなければわからないと思います。
纒向が卓越しているというためには、確立され、統一された算出方法で、他遺跡との比較がなければ説得力がありません。統一された胎土分析による外来系比率は、大阪府久宝寺[きゅうほうじ]遺跡は58%、中田遺跡は48%であり、纒向が高いわけではありません(奥田尚「久宝寺遺跡における土器の胎土分析」(『久宝寺南(その1)』付章第3節(大阪文化財センター、1987年)、奥田尚「土器の表面に見られる砂礫」(『中田遺跡』(八尾市文化財調査研究会、1995年))。
外来系比率が高いと言えなくなり、寺沢さんは外来系土器の地域の広がりを強調するようになりますが、纒向は関東から九州まで、唐古・鍵[からこ・かぎ]遺跡は信越から九州までであり、同等といえます(纒向の関東系は胎土分析で抽出されておらず、九州系も報告書で正式に報告されておらず、不確かだと思います)。奈良盆地(唐古・鍵)は纒向が形成される前から日本列島の交流・交易の中心だった可能性があります。
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纒向は外来系土器の比率や地域の広がりが卓越しているわけではありません。外来系土器は纒向が卑弥呼の都であることの根拠にはなりません。
⑥卑弥呼の鬼道がどのようなものかは不明
纒向では、木製仮面、弧文円板、桃の種、導水施設など、祭祀にかかわると推定される遺物・遺構が出土し、卑弥呼の鬼道、ひいては中国の初期道教、神仙思想とのかかわりが指摘されることがあります。
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しかし、卑弥呼の鬼道がどのようなものだったかは、わかりようがありません。神獣鏡の流入をもって、鬼道が神仙思想を取り入れたものだとは言えません。倭人が神仙思想を理解していたとは考えられないからです。
画文帯仏獣鏡が古墳中期(5世紀)に副葬されますが(リンク先は宮内庁書陵部サイトの千葉県祇園大塚山古墳鏡)、5世紀に仏教を倭人が理解していたと言えるでしょうか。仏教の伝来は欽明天皇の年代(6世紀)です。
祭祀にかかわる可能性のある遺物・遺構が目立つからといって、纒向が卑弥呼の都だったというのは、想像に過ぎません。
※この項目は個別記事はありません。
⑦初期の前方後方墳には銅鏡なし
最古の前方後円墳は纒向にある石塚古墳と言われます。纒向では、まず石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳がつくられ、次に東田[ひがいだ]大塚古墳・ホケノ山古墳、そして箸墓古墳へと続いたと考えられます。
前方後円墳も、纒向が卑弥呼の都だった根拠とされています。前方後円墳の属性には様々な地域の墳墓の属性が持ち込まれており、前方後円墳が生まれた纒向は、共立された卑弥呼の都にふさわしいというわけです。
前方後円墳の属性がどこから持ち込まれたかについて、寺沢薫さんは、例えば以下のような系譜を挙げています(『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年))。
墳形(円丘+方丘):キビ(瀬戸内)
墳丘の巨大化:イヅモ・タニワ(近畿北部)、キビ
葺石・貼石・積石:イズモ・タニワ、キビ
鏡・玉・武器:北部九州
鉄器多量副葬:北部九州
特殊器台・壺:キビ
周濠:近畿
ここで注目すべきなのは鏡です。弥生後期ぐらいまでの近畿の銅鐸の祭祀は、弥生終末期には九州北部の銅鏡の祭祀(または大型墳墓の祭祀)に取って代わられたとされています。
しかし、石塚・矢塚・勝山といった初期の前方後円墳には、鏡は副葬されていません(ちなみに、吉備の楯築[たてつき]墳丘墓にも鏡は副葬されていません)。前方後円墳に鏡が副葬されるようになるのは、ホケノ山からです。
ホケノ山の年代が問題になります。ホケノ山に副葬されていた画文帯神獣鏡の破鏡(B鏡)は、上野祥史[よしふみ]氏(歴博)によって、文様と銘文から中国で230~250年に製作されたと推定されています(上野祥史「ホケノ山古墳と画文帯神獣鏡」(橿考研『ホケノ山古墳の研究』、2008年))。ホケノ山の上限年代(それより古くなることのない年代)は230年代です。
中国で製作されてから、倭国に流入して使用され、ホケノ山に副葬されるまでのタイムラグ(期間)は特定できませんが、中国鏡の流入には、まず楽浪郡・帯方郡の介在があり、外交交渉も恒常的に間断なく行われたとは限りません(寺沢薫『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年))。ホケノ山B鏡もタイムラグなく副葬されたとは考えられず、僕はホケノ山は3世紀第3四半期以降を見込むのが適切だと思います。
つまり、前方後円墳の属性からは、九州北部の王権の祭祀が、纒向の王権(プレヤマト王権)の祭祀に影響を及ぼすようになるのは、早くて3世紀第3四半期だと考えられるということです。
※後述するように、僕は箸墓とホケノ山の小枝試料の炭素14年代測定から、箸墓は300年前後、ホケノ山は270年前後と推定しています。これはホケノ山B鏡の推定年代と矛盾しません。
仮に、卑弥呼が3世紀初めに共立されて纒向に都を置いたとすると、卑弥呼の共立には九州北部の王権は参画しておらず、纒向の王権は九州北部と本格的に関係を持つ前に(239年に)魏に遣使するという、おかしなことになってしまいます。前方後円墳の属性からも、纒向が卑弥呼の都だったとは言えないのです。
※この項目は個別記事はありません。
※ホケノ山の画文帯神獣鏡の年代については、2023/5/26のnote第1章で詳しく説明しています。
⑧箸墓は3世紀中頃ではない
歴博は箸墓古墳周辺から出土した土器の付着物(煤など)や小枝の炭素14年代測定により、「箸墓古墳の築造直後の年代は240~260年」と発表しました(2009年発表、2011年論文※)。箸墓のような巨大古墳を築造できる3世紀中頃の有力者は卑弥呼しかおらず、箸墓は卑弥呼の墓であり、纒向が卑弥呼の都であることが明らかになったとされました。歴博の発表は、箸墓の年代の根拠として、メディアなどでも引用されることが多いです。
※歴博の2011年論文「古墳出現期の炭素14年代」は、測定試料の前後関係が不明確で、どうして箸墓の年代が240~260年と言えるのか、とてもわかりにくいので、読むことはお勧めしません。この論文を読んで、歴博の根拠が理解できる人はほとんどいないと思います。にもかかわらず、世の中で引用されることが多いのが問題です。
箸墓の年代を表す試料は、歴博が炭素14年代測定したものの中では、僕は周濠下層から出土した小枝(試料番号NRSK–C21)が最も望ましいと思います。箸墓周濠小枝を炭素14年代測定し、国際標準ソフトOxCal[オクシカル]を使って実年代に較正[こうせい=変換]したのが下のグラフです。
![](https://assets.st-note.com/img/1738116658-2rOxliMw8NJHmjWIoBKeXGf1.jpg?width=1200)
較正年代は230年前後と300年前後に確率の高い山があって、年代を絞り込めません。このような場合、年代の前後関係がわかっている他の試料と組み合わせて年代モデルを組み、モデル全体を較正することで、年代が絞り込めることがあります。このような手法をベイズ推定※といいます。
※ベイズ推定:事前確率に新たな情報を加えて事後確率へと更新すること
歴博は箸墓周濠小枝を含む56試料で年代モデルを組み、ベイズ推定しました。それによって、確かに箸墓周濠小枝の較正年代は234~262年に絞り込まれましたから、歴博の発表に嘘はありません。しかし、56試料の個別の較正年代とベイズ推定後の較正年代を照合すると、較正年代の統計的適合度はわずか16%になってしまいました。適合度は本来60%以上が求められます。
特に箸墓とほぼ同年代とした東田[ひがいだ]大塚古墳の試料の適合度が低く、全体の適合度を押し下げました。東田大塚古墳の位置づけ(年代の前後関係)が間違っていて、歴博の年代モデルが不適切だったことは明らかです。不適切な年代モデルを根拠とした年代推定を正しいということはできません。
歴博の2011年論文の筆頭筆者である春成秀爾さんは、2023年になって、以下のように述べています。
▶<歴博の>炭素14年代では、箸墓古墳の築造開始が3世紀第2四半期までさかのぼる可能性があること、すなわち、被葬者生前に築造を始めた寿陵であった可能性を示唆しているとまでしかいえない
「箸墓古墳の築造直後の年代は240~260年」という発表はどこへ行ったのでしょうか? 春成さんのコメントは歴博の発表(年代絞り込み)が不適切だったと認めたことになります。
僕が箸墓周濠小枝とホケノ山古墳出土の小枝群の炭素14年代から推定すると、箸墓は300年前後、ホケノ山は270年前後になりました。
歴博の炭素14年代測定のほかにも、箸墓を3世紀中頃や第3四半期と推定する説があります。福永信哉さん(大阪大学)・岸本直文さん(大阪公立大学)による三角縁神獣鏡を根拠とする説、寺沢さんによる中国鏡を根拠とする説などです。ここでは簡単に、これらが根拠にならない理由を紹介します。
仮に古いタイプ(編年B)の三角縁神獣鏡の製作年代が240年代だったとしても、前方部がバチ形の古墳には新しいタイプ(編年C=270年代)の三角縁神獣鏡も副葬されている。箸墓古墳がバチ形だからといって、3世紀中頃の古墳とは特定できない
たとえ、箸墓と同じ布留0式古相の古墳(福岡県津古生掛[つこしょうがけ]古墳など)に副葬された中国鏡の製作年代が特定できたとしても、日本に流入して使用され、古墳に副葬されるまでの期間(タイムラグ)は様々だったはずで、中国鏡では布留0式古相の年代、ひいては箸墓古墳の年代は特定できない
箸墓が3世紀中頃~第3四半期とする説には根拠がないということです。
三角縁神獣鏡について、僕は以下のように考えています。
ホケノ山には三角縁神獣鏡は副葬されておらず、ホケノ山の年代には三角縁神獣鏡は出現していなかったことを示す
ホケノ山古墳には、中国で230~250年に製作されたと推定される画文帯神獣鏡の破鏡が副葬された。破鏡が副葬されるまでのタイムラグ(期間)は特定できないが、ホケノ山は3世紀第3四半期以降を見込むのが適切
よって、三角縁神獣鏡の出現が240年前後とする福永さんの説は否定される
三角縁神獣鏡は黒塚古墳での副葬例などから下位の鏡と考えられ、魏から卑弥呼に贈られた「銅鏡百枚」とは考えられない
三角縁神獣鏡は4世紀にヤマト王権が中国鏡だと偽装した鏡である
詳しくは以下の記事で紹介しています(第1章:中国鏡、第2章:三角縁神獣鏡、第3章:歴博の炭素14年代測定)。
僕のnoteの一丁目一番地の記事です。
この記事には、炭素14年代測定結果を実年代に較正(変換)する国際標準ソフトOxCalの使い方、歴博と僕の年代モデルを較正するためのコマンドなどをエクセルファイルにまとめて添付しました(ダウンロード可能)。誰でも較正結果を再現することができます。みなさんも試してみてください。
Ⅲ⑨常識的に3世紀に西日本全体で共立はない
卑弥呼は倭国乱を終息させるために共立されました。卑弥呼の政権は伊都国(福岡県糸島市)に大率[だいそつ]を置き、諸国を監督したとされます。
そもそも、3世紀に西日本全体で争乱があり、西日本全体の諸国の合意で王が共立され、大和(纒向)に都を置いて、九州に出先機関(監督機関)を置くということがありえたのでしょうか。
西日本全体で争乱があったというのは、まるで源平の時代、南北朝時代、戦国時代みたいな話です。西日本全体で合意が交わされるというのは、幕末の薩長同盟みたいな話です。九州に出先機関を置くというのは、7世紀以降の大宰府、鎌倉幕府の鎮西探題、室町幕府の九州探題みたいな話です。
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3世紀の日本列島はまだ交通手段も交通インフラもそれほど発達していなかったと思います。軍隊が西日本全体で移動する(大和・吉備連合軍と九州北部連合軍が戦火を交える)とか、幕末の坂本龍馬のような人物が近畿から九州までの諸国を奔走して合意を取りつけるとか、大和の勢力が九州に出先機関を置いて監督するといったことが可能だったのでしょうか。
僕は常識的に考えられないと思います。僕は3世紀の交通について詳しくなく、僕の主観であり、しっかりした根拠があるわけではないのですが。
少なくとも、ヤマト王権が九州を実質的に支配するようになるのは、6世紀の磐井の乱の後、糟屋屯倉[かすやのみやけ=福岡県糟屋郡?]を置くようになってからとされています(屯倉はヤマト王権の直轄地)。
2021年1月1日に放送されたNHK「邪馬台国サミット2021」で、司会の本郷和人さん(東京大学)も、寺沢薫さんの「纒向は筑紫・吉備などの談合(政治的合意)によって成立した」という説に対し、「3世紀に諸国が談合なんて、そんなことができたんでしょうか?」と疑問を述べていました(直後にテーマが変わってしまって議論がなく残念でした)。
それが専門外の人の感覚だと思います。纒向が卑弥呼の都だったという説(主に近畿や歴博の考古学者の説)は、一般人の感覚からかけ離れているような気がしてなりません。
※ところで、この記事で僕はnoteの投稿が2023年3月以来、24ヶ月連続になります。最低でも毎月1本は書こうと思っていて、この2年間は達成できました。そろそろ、僕の邪馬台国に関する説をまとめなければなりません。今年の上半期中までには書き上げることが目標です。
※なお、僕は邪馬台国九州説ではありません。かん違いする人がいるみたいなので念のため。
(最終更新2025/2/9)
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