続・自分の夢
フォロワーさんが
1000人になった時に
書こうと思っていた
初めての有料記事です。
①中学校時代
私は中学受験を経験しました。
フォローさせて
頂いている
赤星さん
息子さんの
中学受験に真剣に
向き合っておられます。
実は私も中学受験経験者でした。
都内の小学校を卒業したら
郊外に引っ越すことが
決まったのは
5年生の時でした。
母は私に私立中学の受験を勧めたのです。
何故なら
私は幼稚園入園時も
そうだったのですが
人見知りが激しく
なかなかお友だちが
出来ませんでした。
小学校時代は
同じ園の卒園生が
何人かいましたので
大丈夫でした。
新しく
右も左もわからない
地元の公立中学では
苦労することが
目に見えていました。
そんな私のことを心配してだったと思います。
(このことは私の想像です)
当時の中学受験は
今とは全然違い
予備校の数も
圧倒的に少なかったです。
とりあえず
電車で通えるところにある
大手に通いました。
そこは大学受験で有名なところでしたが
中学受験クラスも少しはありました。
私は同い年の従姉妹と
一緒に毎週日曜日に
通い始めたのです。
赤星さんと奥さまが
息子さんのために
親子一丸となって
受験に向けて
頑張っておられます。
しかし
何度も言いますが
当時は
中学受験をする
子どもの数は
まだ少なかった時代なので
競争も苛烈ではありませんでした。
母は弟がまだ
幼稚園児なので
子育てに忙しくて
私は自分で頑張らないといけなかったのです。
志望校は
引越し先の情報が
皆目わからず
母と私は
受験雑誌を読み
そこで1番有名で偏差値の高い私立の女子校に決めました。
今、思うと
かなりの冒険でした。
そこは中高も名門校で
現在の偏差値は
軽く70は超えています(°▽°)
試験当日は
母は弟を叔母に預け
一緒に電車に乗って
受験会場の学校に行きました。
初めに個人面接があり
次は筆記試験です。
面接はなんとかクリアしました。
筆記試験は3科目
国語と算数と社会
国語は元々得意だったので
割とスラスラと解き
算数は苦手な方でしたが
予備校で学んだ知識が
役に立ちました。
昼食は母と一緒に
ベンチでお弁当をいただき
次は社会です。
問題用紙を開き愕然としました。
地元のあまりにも
細かい地理の問題があり
全く歯が立ちませんでした(>_<)。
ガッカリする私のことを
何も言わずに
肩を抱いてくれる母と一緒に
帰宅したのを覚えています。
その日は久しぶりに
父が赴任先から
帰って来る日だったのですが
父は結果はまだ出ていないのに
沢山のケーキをお土産に買って来たのです。
私は、胸が詰まって少ししか食べられなかったのです。
もちろん結果は
不合格で
私は地元の中学に
進学することに
なりました。
東京は公立も私服でしたが
こちらは制服があると聞き
母と私はとにかく
近くのデパートで
制服のオーダーをしました。
制服を着るのは
幼稚園以来でしたので
不思議な気分でした。
入学式は小学校に進学する
弟と重なってしまい
母は弟の方へ
私は父方の叔母と
参加しました。
今でこそ
少子化が問題になっていますが
当時は子どもが多く
1学年は12クラスもあり
私は1年1組でした。
やはり近隣の小学校からの
進学が多く
あちらこちらで
固まっています。
私は疎外感を感じ、登下校もしばらく1人でした。
自己紹介の時に
「東京から来ました。」
ということ
「好きな音楽は(歳の離れた従姉妹から既に教わっていた)Queenです。」
と、言いました。
すると
後ろの席の女の子が
休み時間に
話しかけてきました。
「私も他県からの引越し組なの。Queenってブリティッシュ🇬🇧ロックだよね。私も聴いているんだ」
初めての友だちが
出来ました。
彼女はとても明るい性格で
私のことも
みんなに紹介してくれて
クラスの仲間入りが出来ました。
②親友たち
中学からの友だちは
未だに付き合って
います。
仲良し4人組で
みんな高校も大学も環境も様々です。
最初に話しかけてくれた
Y子ちゃん
ご主人の仕事の都合で
ブラジル🇧🇷に10年以上駐在しています。
リオに居たときは
カーニバルにも
参加したそうです。
フォローさせて
いただいている
Shiominさん
やはり南米で
長い間
お仕事をしていらっしゃいました。
Shiominさんに
Y子ちゃんのことを
お話したこともあります。
彼女は
高齢のお母さまが
1人で日本に
いらっしゃるので
時々一時帰国もしたりしますが
今はLINEという
便利なツールがあるので
瞬時にチャットが出来ます。
Skypeなどで
話しをしなくても
便利な世の中になりましたね。
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