【女子高生を拾う=道徳的?】ライトノベルは気持ち悪い性欲文学なのか
問題提起
社会人が女子高生を拾う・匿うストーリーは”気持ち悪い”のか?
社会通念や法律に照らし合わせれば、未成年を匿うことは誘拐にあたります。
その視座に立てば、気持ち悪いという感情を理解することは不可能ではありません。
しかし、そのことと「道徳的に正しい」ことは完全に一致するのでしょうか。
本記事では、倫理学を用いることでこの問題に取り組みたいと思います。
結論を先に述べると、
JKを拾うライトノベルは、
①近代英文学の傑作とも比肩しうるし、
②道徳的に正しい選択を示唆している
私は上記のように考えました。
ではどのような理由でそう考えたのか、検証の道筋をここから書いていきます。
私はサムネイルにJKを拾うライトノベルを3つ挙げました。
ひげを剃る。そして女子高生を拾う。
駅徒歩7分1DK。JD、JK付き。
くたびれサラリーマンな俺、7年ぶりに再会した美少女JKと同棲を始める
とくに『ひげを剃る。そして女子高生を拾う。』(ひげひろ)は、アニメ化もした大人気作品です。
一方でこのような批判の声もありました。
犯罪を助長している
男の性欲のはけ口のようで「気持ち悪い」
「気持ち悪い」は道徳的に正しいか
そのような批判に妥当性があるのか。
JKを拾う一連の作品を倫理学的に検証しようとしているのが本記事の試みでした。
ここでは、倫理的=道徳的として考えて論をすすめたいと思います。
であるならば「道徳的に考える」とはどのようなことなのでしょうか。
(本記事は大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』をタネ本にしています)
まずは「道徳的」であることの要素を客観的に提示しましょう。
そうでないと説得力がなくなってしまいます。
米哲学者のマーク・ジョンソンは道徳の要素として3つあると考えました。
理性、感情、想像力
理性と感情という相対する要素が並存しているのが興味深いですね。
ここでは感情の要素に着目したいと思いますが、理性と想像力の意味するところも軽くふれておきましょう。
理性とは、
批判的・合理的に「道徳性」を吟味することです。
想像力とは、
個別具体的に事象の文脈をシュミレートすることです。
「赤信号を渡る」ことの是非も、その背景を無視して判断することはできません。そうした時に想像力は力を発揮します。
では、感情は道徳的判断にどれほど有用なのでしょう?
むしろ感情は正しい判断を阻害するマイナス要因なのではないでしょうか?
確かに倫理学における主流では「感情」を遠ざけています。
例えばジェームズ・レイチェルズは、道徳的思考の根拠に感情を用いることはできないとしています。
しかし、道徳的判断に「感情」の役割を積極的に認める動きもあります。
米哲学者マーサ・ヌスバウムがその一人です。
最近では京アニ事件の判決が下りました。
沖縄では辺野古移設のための代執行が始まりました。
こうした状況において、問題の当事者が「そんな判決は容認できない」と主張する場合を想像してみましょう。
たとえば、京アニ事件で「死刑」を求めたにもかかわらず精神鑑定によりそれが認められず、遺族が涙を流すとき。
あるいは、代執行の判決は政治の暴力だとして容認できないとき。
このような場合に、「感情は客観的な論証たりえない」として彼らの思いを退けることは本当に「正しい」ことなのでしょうか。
マークが道徳の三要素として感情を提示したのであるならば、
それを排除することが本当に「道徳的に考える」ことなのでしょうか。
ここでエリオットというある脳腫瘍患者の症例を考えてみましょう。
神経学者アントニオ・ダマシオが報告した実際の事例です。
エリオットは、良き夫であり良き親であり、有名企業に勤めるエリートでした。
しかし脳腫瘍手術を経たあと、彼は合理的に物事を判断することができなくなってしまったのです。
計算能力や言語能力に異常はない。
それなのに物事を判断することができなくなってしまった。
原因は前頭葉という感情を司る部分にダメージを負っていたからです。
この症例が示すのは、感情がなければ理性は働かないということです。
『PLUTO』を思い出しますね。
故障したアトムを治すために全地球人のデータを組み込んだ結果、アトムは人格を決定できずに動作不能に陥りました。ここでもある種の「偏り=感情」を与えることによってアトムは再始動していました。
少し話が逸れたので本題に戻りましょう。
ここで主張したいのは、
倫理学的にも道徳に感情は不可欠であるということです。
そうなると、
①JKを拾う作品に気持ち悪いという「感情」を抱いた。
②道徳に感情を持ち込むことは正当である。
①=②により、
③JKを拾う作品は道徳的に不適当だ
QED.証明終了
となるのでしょうか?
そうではありません。
もう一度マーサ・ヌスバウムの主張に戻ってみましょう。
すると感情の妥当性を認める彼女も、全面的に肯定しているわけではないとわかります。
彼女は”ある感情”を、道徳的判断の根拠にすることを否定します。
それは嫌悪感です。
嫌悪とは、
汚らしいものを遠ざけ、自分は清廉潔白であると思いたい願望なのです。
これは人間の弱さや脆弱性から目を背けたいという願望と結びついているため、道徳(特に法や政治)では不適切な感情だとしています。(前掲書から一部変更して引用)
そうならば、JKを拾うというプロットだけ俎上に上げて「気持ち悪い」という嫌悪感上により作品を低く見積もることは道徳的正当性を保証しません。
結論1️⃣
ここで結論1️⃣を示しておきましょう。
ラノベは犯罪を助長するか
さて、上記ライトノベルには別の視点からの批判もありました。
「犯罪を助長する」という指摘です。
これは簡単に退けられます。
犯罪を助長することが書籍の道徳性を決定するならば、
世にある殺人小説はすべて不適切な作品になってしまいます。
例えば、介護殺人を扱った『ロスト・ケア』(葉真中顕)があります。
本作は、要介護者が殺される殺人事件が発端となっていますが、遺族らが犯人を肯定するような主張をしています。
これを「犯罪を助長する」として退けることができるでしょうか。
こうしたことから、「犯罪を助長する」という批判も根拠薄弱です。
結論2️⃣
2つの結論を総合すると次のようなことが言えそうです。
単純にテーマだけをとりあげて、
「気持ち悪い」や「犯罪を助長する」と批判することは不適切だ
ラノベは文学足り得るか
彼らの批判が道徳的思考において弱い説得力であることはあきらかにしてきました。
しかしそれが、冒頭の「ラノベは近代英米文学に比肩する」という主張にどのようにつながるのでしょうか。
それは、扱うテーマ性において近代英文学の傑作・『ハックルベリー・フィンの冒険』と重なっているから、です。
『ハックルベリー・フィンの冒険』(ハックの冒険)は、マーク・トウェインによる冒険小説です。『トムソーヤの冒険』の著者としても有名ですね。
本書は英文学の傑作として評価されており、あのヘミングウェイも認めています。
大谷弘によると、本作は「理性」と「感情」の葛藤を描いた作品とされています。
理性と感情。
これは米哲学者マークが提唱した道徳の三要素の2つです。
理性と感情の葛藤とはどういうことでしょうか。
それは、
黒人奴隷・ジムの逃亡に手を貸したいという「感情」
と
彼の主人に通報しなくてはいけないという「理性」
のせめぎあいのことです。
もう少し背景を詳しく説明すると、
当時のアメリカは黒人奴隷は白人の所有物とされていました。
そのためハックは、奴隷・ジムの逃亡に手を貸すことは当時の社会通念上は重大な罪として”理性的に”判断できたのです。(今では「理性」とはとても言えない状況ですが、それが当時の常識でした)
そのため彼のことを通報して捕まえさせるのが理性的に正しいことでした。
一方でハックは、彼と逃亡生活を続けるうちに友情に芽生えました。理性的に正しいのは「通報」だ。だけどそのことが「道徳的に正しい」のか彼は純粋に疑問に思います。
この「理性道徳」と「感情道徳」のせめぎあいの中で、ハックは彼を匿うことを選択したのです。
人権意識に照らし合わすと、彼は「正しい判断」をしたと認められます。
つまり、
道徳の「感情」要素を排除しなかったことで、「正しい」判断を彼は採ることができたのです。
翻って、JKを拾うライトノベルはどうでしょうか。
こちらも「理性」と「感情」の葛藤なのです。
未成年を匿う主人公たちは、単純な性欲や下心によってそうしているわけではありません。
児童相談所や警察に報告すべきという「理性」
と
そんな手段では彼女を真に救うことはできないという「感情」
の強烈な葛藤にあるのです。
つまりラノベの主人公も、ハックと同じように理性道徳と感情道徳のせめぎあいの中で、より「道徳的に正しい」と言える選択はどちからを常に悩んでいるのです。
彼らだってJKを匿うことが誘拐にあたり、児童相談所に通報すべきだとは知っています。
思考停止してその手段を選ぶことだってできた。
そうしなかったのは、真に相手を思うこころと「善く生きる」ことを実践しようとした彼らの高潔なこころがあるからではないでしょうか。
であるならば、
「気持ち悪い」という単純な感情や「犯罪を助長する」という法律当てはめごっこでライトノベルを批判することはできないはずです。
しかも女子高生らは問題を抱えて切迫した状況にあります。
悠長に道徳を吟味することなどできない。
だからこそ道徳の根拠としての感情の働きを認めることは正当なのです。
結論3️⃣
このことから、「ラノベは近代英文学に比肩しうる」という主張は(多少誇張がありましたが)、一定の理解を得られると思います。
何より、ライトノベルの醍醐味とは、そういった犯罪と道徳、正と死などの極限状態で主体的に選択する彼らの葛藤こそがミソなのですから。
総括
ここまで倫理学を用いて、JKを拾うというライトノベルのテーマについて道徳的に思考してきました。
その結果、
「気持ち悪い」は道徳的批判として不適当だ
「犯罪を助長」という主張はラノベに妥当しない
ラノベのテーマ性は道徳的思考を迫るものとして、強度ある文学だ
以上のことがわかりました。
道徳的に考えることは、他の実生活にも役立つはずです。
たとえば、
・沖縄県民による座り込み抗議の妥当性
・性別変更要件の是非
・重大犯罪における判断
そういった実生活にも役立つクリティカル・シンキングを養うことができるでしょう。
また、生成AIによる偽情報の氾濫や、民主主義が分断される世界情勢のなかで主体的に生きることにもつながるはずです。
そうした際に、理性による判断は必ず限界が来ます。
その時には「道徳的に考える」ことを実践してみてはいかがでしょうか。
女子高生を拾うラノベは、
現代の『ハックルベリー・フィンの冒険』である。
『ハックルベリー・フィン』はアメリカ文学の金字塔として名高い作品です。日本の訳書もゆうに10種類以上あることからも、その評価を知ることができるでしょう。
そのような傑作とラノベを重ね合わせるのは、ともすると失礼だとお叱りを受けるかもしれません。
しかし、あえて言いたいのです。
「ライトノベルは近代英文学に比肩する」