「怒り」のもとを見つめる暇がほしい。
#20230714-166
2023年7月14日(金)
「マスクして。マスクしてください」
熱も下がり、登校はしだしたものの、ノコ(娘小4)の咳は取れない。
風邪の諸症状――咳やくしゃみ、鼻水などはスッキリ消えるものではなく、結構長引き、忘れた頃に「あれ、最近しなくなったね」という類のものだと思っている。気にしている間は、なかなか抜けない。
ただ人にうつす可能性は高いので、マスクの着用は促している。
……ゲホッ、ガホガホゴホッ。
夕飯の支度をはじめた私の背後でノコの咳が聞こえた。
「ノコさん、ママ、さっきから何度もいってるよ。マスクしてください」
「ヤです」
振り返ると、ノコが私を睨んでいる。
「暑いからエアコンつけてるでしょ。空気が閉じこもった部屋でノコさんが咳したら、ママにもうつっちゃよ。だから、マスクしてください」
「イヤです。しません!」
実は、昨夕から喉の奥が少し痛い。鼻もグズついている。
5日間もノコと家にとじこもっていたのだから、うつって当然かもしれない。今更、ノコがマスクをしようが関係ないかもしれない。
ギラギラとしたノコの双眸が私を射抜く。
あぁ、でもこの腹立たしさは何だろう。
玉ねぎを持つ手が微かだが、震えている。人が怒りで震えるというのは本当なのだな、と思う。そこは妙に冷静だ。わなわなと効果音をつけたくなる。
玉ねぎをまな板の上に置き、ノコに向き合う。
「理由も伝えたよね。咳をしているのだから、マスクをしてください」
「絶対しません!」
ゆっくり呼吸をする。思わず怒鳴りそうになるのを堪える。かといって、怒鳴り慣れていない私は怒声が出せるのかも怪しい。
「……そうですか」
そう返し、夫婦の寝室へ向かった。
ベッドの上に身を投げ出し、「あぁ、バカバカしい、あぁ、バカバカしい」と吐き出す。
マスクをする/しないという些細なことにこんなに立腹している自分も不思議だった。
なぜこんなに嫌気がさすのだろう。
ノコが私の指示に従わないから?
どこまで現実的にノコが想像できているかわからないが、近しい人に風邪がうつっても構わないという気持ちが透けて見えるから?
つまり、気遣いがないから?
勝手に心配しているといえばそうだが、夏休みも近い。家族の誰かが体調不良になれば、今予定しているイベントができないかもしれない。ノコに頼まれてもいない先々のことを考え、気をもんで、やきもきする。あぁ、いらぬお節介なのか。
マスクが感染予防にどの程度効果があるかはわからない。
私が憤っているのは、ノコの「マスクをする」という形で表される「やさしさ」が見えないからなのだと思う。
大切にされていないという虚しさ、淋しさ。ないがしろにされている情けなさ。
ノコにかけている気遣いが届いていないような残念さ。
これが幼児ならまだ諦めもある。マスクは確かに暑苦しい。
だが、ノコは小学4年生だ。マスクをしてほしい理由も説明したのに、それでも頑なに拒んだ。
幸いなこと――といえるのか、ノコが我が家に来るまで私は怒りとは無縁だった。
自分自身の不出来さに腹を立てることはあっても、第三者に対して怒りを覚えることはなかった。生きてきて、理不尽なことをまったくされなかったわけではないが、その場合、速やかにその人と距離を置けばよかった。私に怒りや不機嫌をぶつけてくる人を避けることができる環境にあった。
私自身が二次感情である「怒り」に達する前の一次感情と向き合う時間があった。一次感情を見つめるうちに、気持ちが落ち着くので、二次感情である「怒り」にならなかった。
なぜノコに対しては怒りを覚えるのかといえば、距離を置くのが難しい関係だからというのが大きい。
またノコが容赦なく、自身の怒りを私にぶつけてくるのもある。意味をどこまで理解しているのかわからないが、気持ちを逆なでるいいまわしや態度を知っている。
至近距離で「怒り」をぶつけられ、ざぁらりざらりと気持ちを波立たされれば、一次感情を見ている暇なんてない。
あぁ、5時になってしまった。
さすがに夕飯を作らねば間に合わない。寝室にこもっていたのは10分そこら。
静かに居間に戻ってきた私をマスクをしたノコがちらりと見る。
今更しても遅いんだよ。