読書録 「ダロウェイ夫人」 ヴァージニア・ウルフ 土屋政雄訳
ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」に挑戦するのは、これで二度目。さいしょはみすず書房から出ているハードカバーのを買ったけれど、難しくって読み終えられなかった。子どもが生まれたあと、本棚の整理をしたときに、こんな本、二度と読む機会はあるまい、と悲観して売ってしまった。
新しい年のために、わたしがまず手始めに定めた課題図書が、「ダロウェイ夫人」「更級日記」そして英語でマクベスを読むことだった。2023年に読み終えた第一冊目となった、このダロウェイ夫人は、光文社古典新訳文庫から出ているものである。Amazonのレビューで、感動的に読みやすい、と書いてあったので。
ほんとうに読みやすい! ウルフはこれで四冊目。岩波文庫の「灯台へ」と「船出」と、平凡社ライブラリーの「自分ひとりの部屋」を読んだだけだが、このダロウェイ夫人は、小説としてのめり込み、楽しんで読むことができた。あの世界に入っているときは、なかなか現実に戻りがたい。そして本を閉じると、なんだかくるくるの毛糸だまのように、頭のなかを浮かんでいる。
移ろいゆく街の空気をことばに表したら、こういう小説になるのだろうか。たくさんのひとが集まる、都市の通りの空気。すがすがしい六月の朝。戦争の傷がまだ残るロンドンの街。
空気のように、ウルフの文章はたゆたい、織りなしていく。たくさんのひとたちの息遣いを、それぞれの生きる半世界を。オーケストラを統べる指揮者のように、紡いでいく。それは時に病的で、執拗で、ウルフの病をも思わせる。どうしてこんな言葉を書けるのだろう、と感嘆してしまう。
クラリッサについての、ピーターの回想のシーン。どこかキュビズムめいている。不自然でかくかくしたピカソの絵とは違って、ゆるやかに、そよ風のように、いろいろな人生が多角的に、多面的に展開されていく。だれもが長い息を吐いていて、それが織りなされていく。じぶんが思っている姿、通りがかりのひとの見た姿、それぞれの半世界を、それぞれは理解しない。
それぞれの半世界。ミスキルマンとナイト爵を貰った精神科医のそれは、あからさまな偽善。クラリッサがこう考えるシーンがある、ほんとうに大切なものは、あの窓の外にいる老婦人が、こちらとは関わりなしにしずかにその生を生きていることじゃないかしら、と。
わたしの生きている世界は半分で、誰かは違う半分の世界を生きている。わたしの傍にいるひとでも、目に見える表層の下に、歴史があって、先祖があって、過去があって、育ちかたがあって、そのひとの半世界を成している。わたしの世界とは違う。だから時として理解できない。けれどそこで自分の半世界を相手に押し付けてしまえば、この小説のなかのミス・キルマンやサー・ブラッドショー(ナイト爵を貰った精神科医)のようになってしまう。
「まなざしを絶やさないこと」と親友がわたしに言ったことがある。そういう言葉だったかしら、そうではなかったかもしれない。けれど彼女の言っていた言葉は、まわりにある半世界に、耳を傾けること、やさしい目を注ぐことではなかっただろうか。上手く言い表せない。けれど包み込もうとすれば自分のこころの皮膚が掻き乱されてしまいそうなひとに、札を貼ってそのままにしておかないために、まなざしを絶やさないために、お互いを愛しあうために、いまのわたしに必要なことをなんだか思わされている。