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小説

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#小説

トゥーランドットははじめになんと言ったんだっけ。【小説】

 トゥーランドットははじめになんと言ったんだっけ。  薄暗い部屋の中で、あたしはあんたの首筋に頬を埋めて、あんたの背骨を指でなぞった。長い髪をかき分け、尾骶骨まで。つぶれた胸の奥で、あんたの心臓がどく、どく、言っていた。 「ねえ、くすぐったいよ」  あんたは歌うように笑った。ナイチンゲールみたいな声だった。あたしはそれが愛しくって、もっと啼いてほしくて、首筋の動脈を喰んだ。そこもどく、どく、言っていた。  そうだ。トゥーランドットは二言目にはこう言った。炎の如く燃え上

【小説】駈込み産声

 べつに怒ってない、怒ってないってば、ほんとに。はるこちゃん知ってるじゃん、あたしが全然怒んないの。  ちがうよ優しいわけじゃない。あたし、怒るのがへたくそなんだと思う。通りすがりのおじいさんに杖でぶたれても怒れなかった。きっとおじいさんも大変なんだなあって思うだけ。お姉ちゃんのカレシが浮気してても怒れなかった。男の人って多分そういうもんなんだろうなって思って。友だちが待ち合わせに一時間寝坊したときも、課長のミスであたしの一週間分の仕事のデータが消えたときも、べつに怒ろうな

【小説】彼女とKとどん兵衛と(幼馴染の推しが炎上した話)

 インターホンが鳴ったのは、夕食のどん兵衛にお湯を注いだときだった。僕はまずいな、と思った。どん兵衛の調理所要時間は5分だ。メーカーが5分と言っているのだから5分なのである。しかし来客によってはその規定時間をオーバーすることになるかもしれない。  来客、どうか宅配であれ。あるいはすぐに断れる宗教の勧誘とかでもいい。僕はそういうのを断るのをためらわないタチだ。NHKの集金人でもかまわない。なにせ僕の1Kにはテレビがないので、やりとりはたったの一往復で終わる。「テレビはございま

【小説】海の沈黙

 冷たい。  足首にゆらゆらと光がちらつく。光って、一瞬あとに消える。暗く染まりかけた世界に浮かんだり、沈んだり。足を振り上げると、ぱしゃりとしぶきが上がった。きらきら、儚い。  一歩、踏み出す。足裏で踏みしめる砂の感触はやわい。でも沈み込んで僕を飲み込んだりはしない。たしかに僕の体重を支えている。砂も波も、空も、そこにあるだけだ。  僕もまた、ここにいるだけ。  もう少し深いところまで行ってみようか。そうしたら何か変わるかもしれない。たとえば僕の感傷も、海に溶けてす

【小説】ダンサーズ・オン・ハイパーボラ

 練習室にあかりがついていて、それで私はああ、あんただと思った。スタジオの合鍵を持っているのは私かあんただ。先生はまだ幼い息子さんがいるから夜中にスタジオに来るなんてことはない。だから私より先にここへ来てあかりをつけるなんてことができるのは、あんたしかいないのだ。  ドアを開く。控えめな音量の音楽が私の鼓膜を揺らした。同時に、鏡の前で踊り続けるあんたの姿が視界に飛び込んでくる。  あんたは私が入ってきたのを横目で見て、けれど動きは止めなかった。ゆったりとした音楽に合わせて

【小説】プリマ・シンデレラ

「トウシューズが合ってないんだよ」  朝香ちゃんはあたしのポアントを見て言った。誰もいない、レッスン前のお稽古場。先生よりも早く来て自主練していたら、よりにもよって彼女に見つかるなんて。あたしはバーを掴んだままゆっくりかかとを落としてア・テールに戻る。朝香ちゃんは顔をあげてあたしの目を見た。 「佳奈美ちゃん、何履いてるの」 「シンデレラだよ」  あなたと同じトウシューズ。その言葉は飲み込んだ。朝香ちゃんは「もう一回ポアントで立ってみて」とあたしに言う。あたしは言われるが

【小説】沐浴

 失うものの多さに、ときどきめまいがする。  両の腕で大切に抱えていたと思っていたものは、気づけばするりと滑り落ちていた。何も残らない。ここにあった、確かに抱えていたという記憶さえいつか薄れて消えてしまう。かつてはひとつ失うごとに、ほろほろ涙をこぼしたけれど。今はもう失うことに慣れてしまって、ときどき痛みのようなめまいを覚えるだけだ。 「今日は何をなくしたの、ぼうや」  ぴしゃん、と水面をたたく音。僕は水に浮かんだ黒髪が艶めいて揺れる様を眺めながら、つぶやくように言った

【小説】そのコーヒーは恋の味などしなかった

 ぱたりぱたりと、思い出したように雨は窓を叩いた。ほの暗い部屋に水のにおいが漂っている。私は一度席から立ちあがって、壁際まで歩いていって電気のスイッチを二つ同時に押した。ぱっと、研究室が明るく照らされる。振り向くと、ちょっと驚いたような二つの目玉が私を見ていた。すぐにそれは笑みに変わる。 「ああ、ごめんなさい。暗かったよね、ありがとう」 「別に、私はいいんですけど。暗くて困るの先生じゃないですか」  答えて、けれど私は元の席には戻らなかった。なんとなく壁際に立ったまま、先

【小説】夏夢

「どこまで行かれるんです?」  夏風が吹き抜ける。じわりと汗のにじむ炎天下、電車の到着を告げるメロディーががらんどうのホームに鳴り響いた。 「どこまででも」  セーラー服の少女は、大きなスクールバッグを抱えなおして婦人の問いに答える。 「行けるところまで」  ざあっと滑り込んできた電車の音が、少女の声を騒がしくかき消した。  *  何か考えがあったわけじゃない。ただすべて嫌になった。  真っ白なノートの上、私はひたすら益にもならない通分を繰り返す。黒い筆跡がゆ

【小説】彼女の恋の話をしよう

 彼女の恋の話をしよう。  彼女の名前はなんでもいい。仮にウーティスとしてみようか。どこにもいない、どこにも行けない彼女にはきっと似合いの名前だと思う。「だれでもない」、一時の幻のようなひと。すべての男を惑わすファムファタル。  ファムファタルという言葉は好きではないけれど、正しく彼女のための言葉だと思う。運命の女。破滅へと導く女。たしかに彼女に恋した男たちは一人残らず地獄を見たし、彼女の恋した男たちも、たいていは同じ運命をたどった。  けれどファムファタルというのは、

【小説】黒い鳥

 踊らせてくれませんか。  雨にずぶ濡れお稽古場の戸を叩いた女は、まずそんなことを言った。 「一曲でいいんです、一曲だけ、お稽古場を貸してほしいんです」  言いながら女がぶるりと体を震わせる。先生は慌てて女の腕をつかんで教室の中へ引っ張りこんだ。外はあんまり寒かった。  私たちは先生の後ろから女を観察する。まったく知らない顔だった。20代くらいの小柄な大人。黒いコートに黒いワンピース。黒いタイツに黒い髪。その髪からぽたぽた落ちる水滴が、彼女の足元に小さな水たまりを作り

【小説】イミテーションパール

 耳を引きちぎるようにしてイヤリングをかなぐり捨てた。灰色のゴミ箱にイミテーションパールがふたつ、吸い込まれるように落ちていく。一度だけぴかりと光った。それきりだった。私の1994円、あんまりにあっけなくて気づけばぼろりと涙が溢れていた。やすっぽい。何もかも、私の涙さえ。  これが例えば二万円のパールだったら、何か変わっていた? 答えは決まっている。まさか。何円だって一緒だ。千円だって、十万円だって。武装に意味はなかった、初めから。はたちになったって私は出来損ないのまま、子ど