【小説】黒い鳥

 踊らせてくれませんか。

 雨にずぶ濡れお稽古場の戸を叩いた女は、まずそんなことを言った。

「一曲でいいんです、一曲だけ、お稽古場を貸してほしいんです」

 言いながら女がぶるりと体を震わせる。先生は慌てて女の腕をつかんで教室の中へ引っ張りこんだ。外はあんまり寒かった。

 私たちは先生の後ろから女を観察する。まったく知らない顔だった。20代くらいの小柄な大人。黒いコートに黒いワンピース。黒いタイツに黒い髪。その髪からぽたぽた落ちる水滴が、彼女の足元に小さな水たまりを作り始めている。ちょうどレッスンが終わったところで手持ち無沙汰だった私たちは、顔を見合わせてそれぞれ自分のタオルを彼女に差し出した。今日はひどく冷えていたからあまり汗もかいていない。

「踊らせてください、私」

「いいからとにかく体拭きなさい。それからストーブの近くで話を聞かせて」

 女はタオルを受け取らない。先生はため息をついて、私の手からタオルを取った。女の髪をぽんぽんなでるみたいに拭いていく。私たちはレオタードを脱ぐのも忘れて、じっと女を見ていた。

「冷えた状態で急に踊ると怪我するでしょう。まず体を温めてからじゃないと」

 先生の言葉に、女はやっとタオルを受け取った。


 窓の外でざんざんと雨が降り続いている。教室の沈黙が、アスファルトや木の枝に当たる雨の音をいっそう引き立たせていた。

 女は何も話さない。電気ストーブの前で静かに体を伸ばしている。先生も何も聞かなかった。私たちはレオタードから洋服に着替えこそすれ、帰ることもできずにこそこそと更衣室から彼女を見ていた。

「ストレッチ、終わりました」

「体温まった?」

「大丈夫です」

 大丈夫と言った彼女の唇はまだ青い。けれど先生はそう、と言ってうなずいた。先生はかつて、左足の腱を切ってプロのダンサーを断念した人だ。だからウォームアップが不十分なときには絶対に踊らせてくれない。けれどその女には何を言っても無駄だった。彼女は踊らせてください、しか言わない。自分の名前も突然ここへ来た理由も、何も話さない。

「なにを踊る?」

「黒鳥を」

 更衣室の奥で誰かが、瀕死の白鳥のほうがぴったりなんじゃない、と言った。みんな返事はしなかったけれど同じことを考えていたと思う。血管のすけた白い肌も骨ばった首筋も、黒鳥と言うにはいささか不健康だった。瀕死の白鳥やジゼルの二幕のほうが似合っている。けれど先生はやはり何も言わなかった。

「無理はしないようにね。その格好で踊れる?」

 棚から白鳥の湖のCDを探しつつ、先生がたずねる。女はうなずいた。私は思わず更衣室を飛び出す。

「あの、バレエシューズ」

 後ろからびっくりした声が聞こえる。私もびっくりしていた。女の真っ黒な目が私をとらえる。怖気付きながらも私は手に持ったものを突き出した。

「タイツじゃ滑ると思います。私のバレエシューズ、貸すので。私足大きいし、あ、その、トウシューズもあるけど、スワンでよければ」

「ありがとう」

 わたわた更衣室に戻ろうとする私に、女が声を上げた。振り向くと女と目が合う。

「ありがとう。バレエシューズ、借りてもいいかな」

 自分から言ったのに、私はいよいよびっくりして痙攣したようにうなずいた。おそるおそる手に持った黒いバレエシューズを彼女に手渡す。「ちょっと濡れちゃうかもしれないけど」「いいんです、どうせいつも汗まみれになるし」首をぶんぶん振って答えた私に、彼女はほんのすこしだけ笑った気がした。苦しそうな顔だった。

 どうして飛び出したのかは分からない。私は12歳にしては足が大きかったから、彼女でも履けるかもしれないと思った。たまたま私のバレエシューズは黒かったから、黒鳥にはぴったりだと思った。たぶんそれだけだ。

 私のバレエシューズを履いた女が下手の端に立つ。先生がCDプレイヤーの再生ボタンを押す。黒鳥の曲は二種類あるのに、女は当然のように下手に立ち先生も知っていたようにそのヴァージョンの曲を流した。水を吸って重くなったスカートが揺れる。女はぎこちなく、よたよたと、下手くそな黒鳥を踊りだした。

 ピルエットのたびに体がぐらぐら揺れる。パのひとつひとつが危うい。足は90度も上がっていないし、音には遅れている。けれど私たちは食い入るように彼女を見つめていた。彼女は、何かに取りつかれたように踊っていた。

 突然、ぴたりと女が止まった。最後、ジュテ・アン・トゥールナンのマネージュに入る直前だった。音楽は止まらない。

「続けなさい」

 先生が言った。それは先生の口癖だった。

 女はゆるゆると首を振る。鏡に映るその顔を見て私はぎょっとした。彼女は泣いていた。大人なのに泣いていた。

「先生」

 女が言った。女は先生、と私たちの先生に呼びかけた。

「あたしもう踊れなくなってる」

 顔を両手で覆って、女がうずくまる。ごつりと重い音がフロアに響いた。それでも先生は音楽を止めない。先生は私たちがどんなひどいミスをしても絶対に音を止めなかった。「続けなさい」いつだってそう言う。

「踊れてたじゃない」

「駄目です。手も足も全然言うこと聞かないんです。こうじゃないんです、あたし、もっと自由に踊れたはずなのに」

 音楽が終わった。先生は次の曲が始まる前にプレイヤーの停止ボタンを押して、女の前に膝をついた。

「大丈夫よ、あんたはまだ踊れる」

 女は力なくかぶりを振る。だらりと手をおろして、顔を深く伏せた。震える声が小さく聞こえる。

「無理なんです、もうあたし駄目になってしまった。黒い鳥が。この頃ずっと黒い鳥が頭の端をかすめてくんです。道端に転がって死んでるの。そんなのいつ見たかも覚えてないのに。でもあれはあたしだ、あの鳥はあたしだったんです」

 女の声は震えていたけれど静かだった。ざんざん降り続く雨の音に紛れて、ぽつりぽつり、小雨みたいに言葉をこぼした。先生は「それはあんたじゃない」と言って女の肩を支えた。女は首を横に振った。涙がその頰を滑り落ちていくのが見えた。

「あたしなんです」

「あんたはまだ踊れるじゃない。私とは違うでしょ」

 先生がそっと女の背を抱き寄せた。

「いつでも踊りに来なさい。先生はここで待ってるから」



 昔この教室に通っていた生徒なのだと、女が帰った後で先生が教えてくれた。

「もう六年か七年前にやめてしまったけど。高校受験のときにね。……そうか、今はちょうど就活の時期か」

 みんな受験生になればバレエをやめてしまうのだと先生は言った。高校受験でなくても大学受験のときに。履き潰したトウシューズも色褪せたレオタードも、アルバムと一緒に箪笥の底へ。

 大人というものは踊らない、らしい。軽やかにグランジュテを跳んだ脚は大人になったらシャンジュマンのひとつも跳ばなくなる。シャッセもパドブレもエシャッペも、大人になれば忘れてしまう。

「でもあの子はダンスを続けるべきだった」

「上手だったんですか」

「ううん。ただ踊るのが好きな子だったの」

 先生は私を見た。

「あんたは踊るの、好き?」

 私はうなずく。踊っていると体の内側から指先に、大きななにかがほとばしっていくのを感じる。体と一緒に心が開いていく。踊っているときの私は自由だ。

「踊ると、生きてるって感じがします」

 先生は微笑んで、私の頭をなでた。

「じゃあ続けなさい。週に一回でも、月に一回でもいいから」

「はい」

「いつかね、踊りたくてたまらなくなるときが来る。体の内側でなにかが暴れたり、指先が冷たくなったり、わけもなく涙が溢れて止まらなくなったり。そういうときに思い切りグランジュテをするの」

 先生の言ったことは私にはよく分からなかった。けれどはらはら涙をこぼす彼女の顔を思い出すと、何故だか胸がしめつけられる気がした。彼女は踊りたかったのだ。生き生きと自由に踊る黒鳥になりたくて、それが叶わないことに気づいて泣いた。

 彼女の頭をいつもかすめていくという、黒い鳥の死体はどんなだろう。その鳥を先生も見たことがあるのだろうか。いつか、私の頭にも住み着くのかもしれない。もしも私が大人になったら。

 私はなんとなく、彼女に貸した黒いバレエシューズを抱きしめた。

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