聴き合い 学び合い

聴き合うことの大切さ、学び合うことのすばらしさについて、感じたことや学ばせていただいたことをつぶやいてみます。

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聴き合うことの大切さ、学び合うことのすばらしさについて、感じたことや学ばせていただいたことをつぶやいてみます。

最近の記事

「わからない」の壁

  【わかったつもり】  学び合う教室では、「わからない」と言うことが大切にされ、「わからない」という言葉から授業が創られていく。  一般的に授業では「わかること」が大切にされる。だから教師は授業の終わりに「わかった人?」と無意識に子どもに問いかけ、子どもは「は~い」ということで幕が引かれる。(ただ、子どもたちが本当に“わかったのかどうか”は実はわからないのだが。このことは、旬五郎先生さんのnoteの記事「『分かりました』は、『分っていない』です。ご注意を。」~2024年

    • 学力学習状況調査の限界

        以前、「全国学力学習状況調査の弊害」という話題をつぶやいた。最近、 岩波新書から「新自由主義と教育改革」(2024.8 髙田一宏)という本が出されたので、この本の内容から学んだことをもとにして考えたことを少し書いてみようと思う。    現在の国の教育政策は、学力偏重である。教育の価値を経済的な観点からとらえ、ペーパーテストで測定可能な学力を「学力」と規定し、容易には測定できない価値や子どもの個性をみようとしない傾向にある。例えば、学習時間に「子どもがコツコツとまじめに頑張

      • 数値の向上が目的になると

        【スーパーティーチャーの任務】  以前のnoteの記事でスーパーティーチャー制度の話をつぶやいた。教育委員会が学力向上の名のもとに、マチの議会の言うなりになり、教育委員会がめざす授業スタイルを押し付けるために各学校に教師を送り込むしくみのことだ。  スーパーティーチャーは、各学校から選ばれた教師で、教育委員会がめざす授業を積極的に推進・実践している教師である。彼らは、教師としての力量、とりわけ授業力がすばらしいとして、各学校の校長から推薦を受け意気に感じて活動している。

        • 「わからない」が大切にされる教室

          【”わからない”は、悪いこと?】  どの授業でも子どもが「わかること」がめざされる。“わかる”ことによって内容の理解を深め、満足感・充実感をもって1時間を終えることを、どの子も、また教師も望んでいる。  一方でこれは、「わからないこと=悪いこと」というとらえ方を生み出す危険性をはらんでいる。教室にはさっとわかってしまう子どももいれば、何度聞いても考えてもさっぱりわからないという子どももいる。教室の大半の子どもがわかる状態になった段階で、わからないという子どもは置いてきぼり

          「金太郎飴」授業

           わがマチでは、全国学力学習状況調査で数値を上げること自体を目的とした教育行政がはびこってしまっている。これは現場にいる教員にも少なからず影響を与えており、学校が主体となって進めるべき授業改善の方向が大きくゆがめられてきている。    数値の向上を目的とした教育行政は、あらゆる手段で学校の教育を不当に支配しようとする。例えば、スーパーティーチャー制度などはその最たるものだ。  スーパーティーチャー制度とは、”めざす授業”(教育委員会が推奨する授業スタイル)を、授業改善の名のも

          「金太郎飴」授業

          全国学力学習状況調査の弊害

            2007年から始まり、2013年に悉皆調査となった全国学力学習状況調査。今や報道機関が結果を堂々と報じるのが当たり前になった。(かつては、学力の序列化を生むという理由で数値の報道等については慎重に取り扱われていたはずである。)    報道を見聞きした世の中の人々は、「〇〇県(または地域)は全国平均を上回ったから学力が高い」や「全国平均を下回ったから学力が低い」と学力調査の数値を見て感じることだろう。    そもそもこの全国学力学習状況調査のねらいは、「授業改善」にあ

          全国学力学習状況調査の弊害

          正答を求める授業から生まれるもの 

          【答えは?】 「答えは何?」   学習活動をしていると、ことさらに「答えを知りたがる」(聞いてくる)子どもがいる。こういう子どもは、「なぜこうした答えになるのか」「どんな経過をたどってこういう答えに行きつくのか」にはあまり興味がなく、その子にとって重要でもない。   つまり、子どもは「答え」がわかりさえすればよいという思いをもっている。答えに行き着くまでの過程を辿ったり、理由を考えたりすることを楽しもうとする思いや姿勢が育ってはいないし、むしろ面倒なことという認識だ。  

          正答を求める授業から生まれるもの 

          教育の未来は 

          教育の未来への懸念  つい先日、わが県の2025年度公立学校教員採用試験の結果が報道された。受検倍率は2.3倍で2000年度以降で最低、特に校種別では小学校が1.3倍だったと発表された。     1.3倍というと、「受検したらほぼ受かる」状況だ。自分が受検した30数年前は、その年によって多少の差はあれど、平均して3倍以上の倍率はあった。10人受けて3人チョット合格するかどうかの世界だったから、大学のゼミ仲間と学習会を開き、採用に向けて必死に勉強した記憶がある。     こうし

          学びの“孤立”を生まないこと

          学びからの逃避  学習が嫌になる、学ぶことを厭うようになる・・・。きっと誰もが一度は体験することではないだろうか。学習が嫌になることには様々な理由があるとは思うが、その大きな理由の一つに学習していることが「わからない」という思いをもつことがあると考える。  子どもは誰しも「わかりたい」という思いをもっている。「わからない」という思いが募れば、学ぶことが苦しくなる。周りの子はわかっているのに、自分はわからないという状態が続くのであれば、焦りが生まれる。学習のゴールどころか

          学びの“孤立”を生まないこと

          「一人も取り残さない」授業

          「一人たりとも取り残さない」「どんな子どもも置き去りにしない」・・・私が教職を去るまでのこの数年間、国や自治体が教員に対して声高に浴びせ続けてきた言葉だ。  この理念はとても崇高だ。ただこの理念を、これまで行われてきたような一斉指導で実現することはなかなか難しかった。学校は、学習指導要領に示された事項を子どもが効率よく身に付けることができるようにカリキュラム(教育計画)を整え、指導方法を工夫し、「教える」ことを中心にして授業を考えてきたからだ。  教えること、つまり教える

          「一人も取り残さない」授業

          「聴き合う子どもたちとの出会い」

          【輝け28の瞳】  聴き合う子どもの姿との出会い。それは2012年の2月に放映されたTV番組「輝け28の瞳~学び合う教室~NHK ETV8」を偶然にも見たことだった。  それはこれまでに見たどんな授業にもない、教室のどの子も生き生きと学ぶ子どもの姿だった。取り上げられていたのは、山梨県身延町立大河内小学校3年生の古屋和久先生の教室での子どもたちの学びだ。  私はそれまで、「一斉指導」(教師主導)の授業以外に子どもが学ぶ姿を見たことがなかった。もちろん、勤務校や近隣の学校で見た

          「聴き合う子どもたちとの出会い」

          聴き合うことを大切に思う

           「聴き合い」は”話し合い”ではない。自分の言いたいことを”語り合う”でもない。相手が何を言いたいのか、なかなか伝わらない言葉の裏で相手が何を言おうとしているのか、そもそも相手が困っていることは何かを相手に寄り添って全身全霊で聴こうとすることから始まるのが「聴き合い」である。  教師は、授業で子どもが”活発に話し合う”ことに憧れ、そうした授業を見た後に”話し合いがすごく盛り上がっていましたね””考えが深まっていましたね”などと感想を述べる人もいる。  だが、そうした”活発な意

          聴き合うことを大切に思う

          聴き合い 学び合い

          聴き合うことの大切さや学び合うことのすばらしさについて、感じたことや学ばせていただいたことについて呟いてみます。

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