聴き合うことを大切に思う

 「聴き合い」は”話し合い”ではない。自分の言いたいことを”語り合う”でもない。相手が何を言いたいのか、なかなか伝わらない言葉の裏で相手が何を言おうとしているのか、そもそも相手が困っていることは何かを相手に寄り添って全身全霊で聴こうとすることから始まるのが「聴き合い」である。
 教師は、授業で子どもが”活発に話し合う”ことに憧れ、そうした授業を見た後に”話し合いがすごく盛り上がっていましたね””考えが深まっていましたね”などと感想を述べる人もいる。
 だが、そうした”活発な意見交流”が行われる授業の中には、発言者が偏っていたり、一方で静かにおとなしく周りの子どもの意見を聞いているように見えても、実は何も考えていない子どもがいるという授業も少なくはない。
 「聴き合い」が行われている教室では、子どもの声がうるさい、騒々しいと感じることはない。グループの中で誰か一人が話しているなら、その他のメンバーは、話し手の言わんとすることを汲み取ろうとして必死で聴いているか、その子の思いをわかろうとして聴いているから、ひそひそとした声が聞こえていることはあっても隣のグループの声が騒がしくて、自分のグループの子どもの声が聞こえないほど教室全体が騒々しいなどということはない。
 現役の教師時代、私は、こうした「聴き合い」が教室の中で育まれ、展開されることが実は授業づくりにおいてきわめて重要であることにまなざしを向け、大切にしてきた。もちろん初めから「聴き合うこと」の大切さに気付いていたわけではない。若い年代の頃には、それこそ子どもが侃々諤々自分の考えを”言い合う”活発な授業が子どもの思考を深める素晴らしい授業だと考えて取り組んでいた。
 「聴き合い」は授業づくりだけではなく、教室の子ども同士のかかわりづくりにも大きな影響を及ぼす。そういう意味でも、「聴き合い」が教室で学ぶ子どもたちにとって極めて大切であるということを感じてきた。

 この春、長い教員生活を終え、学校という環境から離れた今、改めて自分が教員として考えてきたり、同僚の教師と語り合ってきたこと、とりわけ「聴き合い」「学び合い」の大切さや必要性について振り返り、見つめ直してみたいと考えるようになった。

 「主体的・対話的で深い学び」が教育の中核となる理念として現場で実践されている今、「聴くこと」「聴き合うこと」とは何かや「聴き合う」子どもたちをどのように育てていくべきか等について、興味関心をお持ちの皆さんと語り合えたらと感じている。

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