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「わからない」の壁

 

【わかったつもり】


 学び合う教室では、「わからない」と言うことが大切にされ、「わからない」という言葉から授業が創られていく。

 一般的に授業では「わかること」が大切にされる。だから教師は授業の終わりに「わかった人?」と無意識に子どもに問いかけ、子どもは「は~い」ということで幕が引かれる。(ただ、子どもたちが本当に“わかったのかどうか”は実はわからないのだが。このことは、旬五郎先生さんのnoteの記事「『分かりました』は、『分っていない』です。ご注意を。」~2024年10月10日付~にも述べられているとおりである。)
 
 わかることは大事なことであり授業の目標になるが、わかることを求めれば求めるほど“わからない”子どもは置いてきぼりにされ、孤立を深めていく。これでは国も述べる「どの子も置き去りにしない」という理念からはかけ離れてしまう。
 
そこで発想(指導観)の転換が必要になる。わかることではなく“わからない”ことを授業の中心に据えるということだ。教師は、子どもたちから出てくる“わからないこと”は何かを捉えることに心を注ぎ、“わからない”ことを取り上げて授業を創っていくということなのだ。
 

【”わからない”が言えない】


 ただ、子どもたちには”壁”がある。なかなか“わからない”と自分からは言えないのだ。 
一般的な「一斉授業」では、わかった子どもが手を挙げ、授業が進む。そのため、多くの子どもたちは「わからない」ことは努力が足りない、恥ずかしいことだと考えるのである。そのため、本当にはわかっていなくても「わかりました!」と「わかったふり」をする子どももいる。「わからない」と言えば恥ずかしいし、場合によっては馬鹿にされたり叱られたりすることもないわけではないからだ。これでは真にわかったということになはならないし、理解できたという満足感や充実感も得ることができずにもやもやした気分で授業を終えなければならなくなる。
 

【わからないが出し合える教室】


 以前のnoteで紹介したTV番組「輝け28の瞳~学び合い支え合う教室~ NHK ETV特集 2012年放映」~の授業では、先生から課題が出されると「わからない」という声がたくさん子どもから出てくる様子が描かれている。この学級では子どもたちが「わからない」と言うことに抵抗を感じたり躊躇したりしている様子は全くない。
 

【”わからない”で繋がる子どもたち】


 この学級で積極的に「わからない」と言ってクラスをリードしているゆういち君も初めは「わかったふり」をしていた子どもだった。算数が苦手なゆういち君は、1学期、わからないということが恥ずかしかったし、わからないと言うと先生に叱られるかと思い込んで学校を休むようになった。がんばらなければという思いが、宿題でも大人から答えだけを聞いて写す子どもになっていったのだ。

 こうしたゆういち君を変えたのはクラスの学び合い(聴き合い)だった。番組では、子どもたちがグループで5203-4625の筆算、十の位が0のひき算で繰り下がりが必要な問題に取り組んでいる様子が描かれている。
 ゆういち君は、答えがわかった同じグループのすずさんに「繰り下がり」の説明を求めたが、実は聞かれたすずさんも説明ができなかった。本当にはわかっていなかった(わかったつもりになっていた)のだ。
 
 すずさんは他のグループにそのことを訊きに行ったが、なんと実は、教室の大半の子が説明ができないということがわかる。ゆういち君が発した「わからない」という言葉によって多くの子どもが実は自分もわかってはいなかったことに気付かされる。そしてゆういち君の「わからない」が、教室全体の深い学びに繋がっていったのである。
 
 「わからない」ことが授業の中心に据えられることが「どの子も置き去りにしない」授業であり、聴き合う授業だと考えている。

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