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痺れる一行
2024年7月12日(金)朝の6:00になりました。
共同運営マガジン「万華鏡」、第3回の募集を本日18:00より開始します
どうも、高倉大希です。
つき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。
芥川龍之介の小説、『トロッコ』の一行です。
どうしても、トロッコに乗りたい。
そう願い続けた少年が、はじめてトロッコに乗ったときの描写です。
国語の教科書でこの一行を読んだときは、衝撃を受けました。
生きているうちに、こんな一行が書けたらいいな。
彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢いよく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。
ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。
中島敦の小説、『山月記』の一行です。
どうして、虎になってしまったんだろう。
そう悩んでいた男性が、人の心を忘れゆく過程を表した描写です。
国語の教科書でこの一行を読んだときは、衝撃を受けました。
生きているうちに、こんな一行が書けたらいいな。
今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。
痺れる一行。
挙げはじめたら、キリがありません。
何を食ったら、そんな言い回しが思いつくんだという感心と。
よくぞ、その一行を書いてくれたという感謝の念と。
たった一行、されど一行。
文字数と情報量が、比例するとは限りません。
情報社会と言うと、絶えず情報が新しくなっていく、変化の激しい社会をイメージする人が多いかもしれません。しかし、私の捉え方はまったく逆です。情報は動かないけれど、人間は変化する。
そしてきっと、このような痺れる一行というものは人によって違います。
紹介したふたつの文だって、どこがいいんだと思っている人もいるはずです。
はじめて読んだときはそうでもなかったのに、ひさしぶりに読んだら痺れた。
そんなことも、わりとよくある話です。
未来の痺れる一行候補が、この世には山のようにあるわけです。
こんなにも、幸せなことはありません。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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