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痺れる一行


2024年7月12日(金)朝の6:00になりました。

共同運営マガジン「万華鏡」、第3回の募集を本日18:00より開始します

どうも、高倉大希です。




つき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。

芥川龍之介の小説、『トロッコ』の一行です。


どうしても、トロッコに乗りたい。

そう願い続けた少年が、はじめてトロッコに乗ったときの描写です。


国語の教科書でこの一行を読んだときは、衝撃を受けました。

生きているうちに、こんな一行が書けたらいいな。


彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢いよく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当る薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、――良平は殆ど有頂天になった。

芥川龍之介(1968)『トロッコ』新潮社


ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。

中島敦の小説、『山月記』の一行です。


どうして、虎になってしまったんだろう。

そう悩んでいた男性が、人の心を忘れゆく過程を表した描写です。


国語の教科書でこの一行を読んだときは、衝撃を受けました。

生きているうちに、こんな一行が書けたらいいな。


今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋れて消えて了うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋没するように。

中島敦(1969)『山月記』新潮社


痺れる一行。

挙げはじめたら、キリがありません。


何を食ったら、そんな言い回しが思いつくんだという感心と。

よくぞ、その一行を書いてくれたという感謝の念と。


たった一行、されど一行。

文字数と情報量が、比例するとは限りません。


情報社会と言うと、絶えず情報が新しくなっていく、変化の激しい社会をイメージする人が多いかもしれません。しかし、私の捉え方はまったく逆です。情報は動かないけれど、人間は変化する。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


そしてきっと、このような痺れる一行というものは人によって違います。

紹介したふたつの文だって、どこがいいんだと思っている人もいるはずです。


はじめて読んだときはそうでもなかったのに、ひさしぶりに読んだら痺れた。

そんなことも、わりとよくある話です。


未来の痺れる一行候補が、この世には山のようにあるわけです。

こんなにも、幸せなことはありません。






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高倉大希
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