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それでもやっぱり引用したい


2024年12月29日(日)朝の6:00になりました。

出先だろうと、ちゃんと毎日走ります。

どうも、高倉大希です。




毎朝6:00の文章は、複数の書籍から引用しながら書いています。

理由はいろいろとあるのですが、いちばんは照れ隠しです。


自分にとっての文章作成は、創造ではなく編集だ。

ずっと、そう思っています。


我がもの顔で語ることもできるのですが、やっぱりどうにも恥ずかしい。

だから、編集で用いた素材をそっと置いておくのです。


ことばを使うということは、究極の編集行為のようだと感じています。つまり、ことばというのは、資格や聴覚や触覚など、あまたある外界の刺激のある部分をぎゅっと抜き出して表現します。

為末大、今井むつみ(2023)「ことば、身体、学び」扶桑社


クリエイターという呼び名は、苦手です。

どこまでいっても書き手である自分は、クリエイターではなくエディターです。


悪く言えば、いまの引用スタイルは責任逃れなのかもしれません。

自分で照れ隠しだと言ってしまうのも、ナンセンスなのかもしれません。


それでもやっぱり、引用したい。

自分が影響を受けたものたちを、どうにかこうにか繋ぎ止めておきたいのです。


編集は遊びから生まれる。編集は対話から生まれる。編集は不足から生まれる。編集は照合である。編集は連想である。編集は冒険である。

松岡正剛(2000)「知の編集術」講談社


読んだ本の内容なんて、どんどん忘れればいい。

必要なものは、勝手に残っていくだろう。


かつては、そう思っていました。

あながち、間違ってもいないような気はします。


でも、意図して残すこともできるのではないか。

そう考えて試行しているのが、この note の引用です。


書き手とは、大隊を率いて一度に1人しか通れないような狭いすき間を縦列進行させる司令官のようなものだ。一方、読み手は出口で軍隊を受け取り、その隊列を再び整えていかねばならない。

バーバラ・ミント(1999)「考える技術・書く技術」ダイヤモンド社


読んだ本はもちろんのこと、暮らしの中で起こるできごとも編集の素材です。

友人との対話だって、仕事で起こるあれこれだって、編集の素材です。


書くことさえ続けえいれば、すべてが素材になりえます。

良いことも悪いことも、すべてが素材になり得るのです。


だから、やっぱり引用したい。

だから、やっぱり書き続けたい。






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高倉大希
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