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余裕のある人


2024年7月2日(火)朝の6:00になりました。

僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。

どうも、高倉大希です。




ときどき、余裕のある人と出会います。

焦らず、慌てず、翻弄されず。


いつも、なんだか澄ました顔をしています。

どうしてあの人はあんなにも、余裕があるのだろう。


そう思ってからというもの、余裕のある人をよくよく観察するようになりました。

すると、どうやらもう少し細かく分類できそうだということに気がつきました。


登壇者のなかに、事前に用意してきた話題しか話さない人がいるのです。ぼくが司会として合いの手を挟んだり、観客から質問をもらったりしても、自分が想定した質問でないとごまかしたり答えなかったりする。それではわざわざ来てもらった意味がないのですが、すごく「見えない攻撃」を恐れている。その警戒を解くのには苦労します。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


余裕のある人の中には、計算どおりだったことにしたがる人が含まれています。

あれにもこれにも意図があって、すべては掌の上だと言いたがる人たちです。


すべてが思いどおりなら、余裕があって当然です。

想定内のことしか起こらなければ、驚くこともありません。


たしかに余裕はあるのかもしれませんが、どうにもカッコよくはありません。

計算可能な範囲で威張っているだけだろうと、ついつい思ってしまうからです。


風はろうそくの火を消すが、炎を燃え上がらせる。それは、ランダム性、不確実性、無秩序も同じだ。それらから隠れるのではなく、利用しなければいけない。炎になって、風が吹くことを期待するのだ。このたとえは、ランダム性や不確実性に対する私の前向きな考え方をずばり言い表している。不確実性を生き抜くだけじゃいけないを乗り切るだけでもいけない。

ナシーム・ニコラス・タレブ(2017)「反脆弱性 上」ダイヤモンド社


余裕のある人の中には、諦めたことにしたがる人が含まれています。

あれにもこれにも意図はなくて、すべては決まっていると言いたがる人たちです。


すべてが筋書きどおりなら、余裕があって当然です。

想定外のこともはじめから定められていたと考えれば、驚くこともありません。


たしかに余裕はあるのかもしれませんが、どうにもカッコよくはありません。

考えることを放棄しているだけだろうと、ついつい思ってしまうからです。


今日も元気だ、虫がいた。それが生きているということで、それ以上なにが必要だというのか。世界をわかろうとする努力は大切である。でもわかってしまってはいけないのである。そこの土俵際が難しい。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


計算どおりだったことにしたがる人と、諦めたことにしたがる人。

カッコよくないと言いましたが、おそらく両者ともあながち間違ってはいません。


計算どおりにしたいのだけれど、計算どおりにしたくない。

諦めたことにしたいのだけれど、諦めたことにしたくない。


ここの塩梅が、非常に難しいところです。

カッコいい余裕のある人は、そんな土俵際でなんだかいつも楽しそうです。






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高倉大希
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