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私の小径。

小さな道。いつもは通らない道。近道。だけど実は遠回りだった。
そんなところに人生の興がある。
3月の桜。6月の雨。9月の風。12月の灯り。
各季節は四季と言われ、その季節を特徴付ける美がある。
桜は毎年同じようで、咲く花は毎年変わる。
雨も同じように降るが1日として同じ雨は降らない。
風、灯りだって全てはちょっと変わっている。
道にも同じようなものがある。

街の小径。
誰知れず咲く一輪の花。草木。
ひっそり佇む雑貨屋さん。カフェ。
普段の喧騒の中では1つの風景もかけがえないものに見えてくる。
この不思議な感覚には名前はあるのだろうか。
無いのなら、小径の風情。みたいなダサい名前を付けてみたい。

道は幾通りにもつながり、どんな道も1つの道に繋がっている。
こう言った母の言葉。
それは、単に小学校からの帰り道を表したにすぎない言葉であった。
しかし、今この歳になると別の意味に聞こえてくる。
それは、少し考えすぎか。

人生。人生にもたくさんの道がある。
その人にしか作れない轍があり、その人しか通ることのできない道がある。
まるで、人生は敷かれたレールに乗ることを重んじるような社会の常識と言わんばかりの厚い顔がある。
この常識という言葉を無知の道という名前にしてみると世界は変わるだろうか。

人生には必ず終わりがある。
それは、有の大切さを教えてくれる。
時に人生は、マラソンのように。
時に人生は、詩のように。
時に人生は、旅路のように。
様々な例えがある。
ただ、思うのは平坦でまっすぐな道よりも砂利道、曲がり角の多い道、分岐の多い道。
そういうものの方が楽しかったりする。
たくさん足を挫くかも知れないが、その分得られる楽しさがある。
時には、少し逸れて小径に入ってみるのも趣深し。
誰も気づかないような花に気づくかもしれない。
人知れず営業するカフェで素敵な店主に出会うかもしれない。
そういう少しずつの小さなきっかけが後の人生で意外にも思い出にあったり。

無駄なことに人は意外にも楽しさを発見できる生物なのかもしれない。
生産性という言葉が先行した現代。
あえて、無駄を取り入れてみると無色のキャンパスに色付くことがある。
なので、無駄を楽しめる遊び心は大切なんだ。
無駄を本気で遊ぶ。
それは、仕事でも学業でも私生活でも。

なんとなくこういう人生にしてみたい。
この記事だって最高の無駄だ。
誰にも響かないし、人生論を語りたいわけでもない。
そんな記事だが、僕は楽しい。
無駄だけど。遊びだから。

少し気が詰まった時。
いつも通らない道を通ってみる。
少し不安な気持ちになる。何このお店!?みたいな発見がある。
少し歩いていると知っている道に出る。
ちょっと安心する。
そんな小さな思いがその日をちょっと幸せにするかもしれない。
皆さんも実は意外と家の周りを知らないこと。結構ある。

私のこれまでの生き方は振り返れば遠回りばかり。
普通や当たり前みたいな道を選んでこなかった。
それは別に尖っていた。とかそんなものじゃなく。
自分の声に耳を傾けてみただけ。
楽しそうな小径に入ってみただけ。
今ではたくさんの思い出がある。
辛いこと・苦しいことも多かったが今となっては良い思い出。
みなさんもちょっと小径に逸れてみませんか。

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