2024年7月の記事一覧
加藤のファミリーヒストリー6
尚文は1948年慶應大学を卒業すると横浜にあった鉱工品貿易公団に入職しました。
ぼうえき‐こうだん【貿易公団】
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第二次世界大戦後の貿易再開に際し、国の定める輸出入計画に従い、
加藤のファミリーヒストリー 5
昭和20年東京は3月10日の大空襲を経て終戦
尚文は特攻隊出陣を目前に終戦を迎えます。
そのほかの子供達も東京へ戻り、皆学校に戻り進学します。
母の進学した小松川高校には作曲家の石桁真礼生や伊藤栄一(のちに伊藤京子さんと結婚される)と言った音楽家の先生が教鞭をとっていました。
今でも石桁氏作曲の小松川高校校歌は歌うのが難しいと聞いたことがありますが、当時の優秀な先生による作曲だったのですね。
君枝
加藤のファミリーヒストリー4 二金の疎開
東京にいるのは危ない。疎開はしないとならない。では日本で一番安全なところはどこなのか?
地図を見て清は考えます。
日本の真ん中。どの都市からも遠い場所は長野県か?
長野県の知り合いを探した清。そこに偶然にも尚文の高校時代の友人の姉が長野県伊那市の大原薬局というところに嫁いでいることがわかりました。
早速連絡してもらい長野県伊那郡山吹のりんご農家への疎開が決まります。
二金(にきん)という屋号の地元
加藤のファミリーヒストリー3 戦争の波へ
清はたとえ子供であっても常に「尊重する」姿勢でした。
綺麗好きな清は毎朝自ら掃除を欠かさない人でしたが、ある時君枝が本を読んでいるときに、掃除を手伝おうとすると
「いいからあなたは本を読みなさい。青い鳥、お父さんも大好きなお話だ」
と言ったそうです。
誰かが何かをしているときにはそれをやめさせたりしない。たとえ自分が父親でも
子供を対等に考える人でした。
清は東芝をやめると、尚栄電気株式会社を立
加藤のファミリーヒストリー2
昭和初期、祖父の会社は現在の新橋天國本店の裏手にあり、よく天國の天丼を食べていた話を聞いたことがあります。会社がうまくいっている時は、服部時計店の社長さんらとの交友関係もあり、母もよく銀座に食事に連れて行ってもらったそうです。そんな話を聞いて育った私は今でも銀座に行くと懐かしい気持ちになります
清の長男尚文は妹の登美子が生まれるまで10年あったので、一人っ子のように育っており、清の仕事につて行く
加藤のファミリーヒストリー1
この写真集では、私の伯父兄弟である加藤尚文と尚武共著による「トポスとしての家」加藤家で取り交わした書簡、昭和43年に発行された加藤の兄弟新聞 そして私の高校時代の日記とブログから文章を引用していますが、実際の写真集に載せきれなかったことを私の目線から加筆しております
私の祖父、加藤清は1892年10月13日に加藤嘉造の一人息子として生まれます。
嘉造はもともと、三重県四日市市にある加藤翠松堂製
加藤のファミリーヒストリー 写真集より
数年前、母の家族の物語を集大成した写真集を作りました。
きっかけは母の弟である叔父が
「墓じまいするから加藤家の写真集作って」という一言。
この際、私の記憶にあるこの家族のことをまとめた物にして伝えられる世代に渡そうと取り掛かりました。私の祖父母の物語から今日までの加藤家の歴史をまとめる。そのために、普段あまり連絡しない従兄弟たちにも声をかけて資料集めました。その量が膨大!
何が膨大なのかと言えば