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わたし・認識の回廊と記憶の迷宮

ーー道に、迷ってしまったのかな。。

 気がつくと、わたしは、どこかも分からないところに、たったひとりで、ぽつんと、立っていた。

 道に迷っただけではない、のかもしれなかった。

 わたしには、自分が、《誰》で、そうして、《どこから来たのか》といったようなことがらが、何ひとつ、思い出せなくなってしまっていたから、だ。

 ーーわたしは、わたし。  

 という、《感覚》だけは、たしかに、はっきりと、《在る》のだけれども、その、肝心な、《わたし》が、いったい《誰》なのか、が、さっぱり、わからない。

 どうにも、仕方がないので、わたしは、途方に暮れたような顔をして、知らない道の真ん中に突っ立ったまま、ただ、ぼんやりと、まわりを、窺っていた。

 ーーどうしたら、いいかな。

 すると、そんなわたしの目の前を、漆黒のタキシードに身を包み、四角くて黒い縁どりの、かなり度が強そうな眼鏡をかけた、初老のうさぎ(♂)が、突然に、横切って行ったのだ。

 ーーえ? うさぎ?

 不意を突かれたわたしは、身を乗り出して、思わず、二度見した。

 けれども、くだんのうさぎ(♂)は、すぐそばに立っていたわたしには、まるっきり、目もくれずに、あっという間に、通り過ぎて行った。

 それは、もう、そもそもが、わたしの存在になど、気づいてさえいなかったかもしれない、くらいの勢いだった。

 《彼》は、漆黒のタキシードの首元に、ビロード布で作られた、年代物風の、赤色の蝶ネクタイを、きっちりと締めていて、その差し色は、彼を、《魅力的なうさぎ》に見せることに、感心するほど、成功していたのだけれど、当の彼は、そんなおはなしに取り合っている時間的余裕など、僕は、いっさい、持ち合わせてはいないよ、とでも言わんばかりの、とりつく島もないほどに、厳めしい表情で、早歩きを、していた。

 赤色の蝶ネクタイの効果で、不思議に魅力的に見える、そのうさぎ(♂)は、華奢な体つきの身には、到底似つかわしくないほどの、やたらに大きな、「砂が落ちたままの砂時計」を、両手で、大事そうに、抱えていて、その砂時計は、残念なことに、彼の姿を、とても奇妙な存在に見せることに、成功しているのだった。

 「難しい。難しい。砂の落ちた砂時計を、そのままにしておくことは、実に難しい。もう、すぐにでも、ひっくり返したくなってしまうんだ。この習慣を、みずから抑え込むことは、実に実に、難しい。。」

 《彼》は、そんなような独り言を、自分にだけ、言い聞かせるように、言い言いしながら、あっという間に、わたしの視界から、消えていった。

 ーー今のうさぎって、ふしぎの国のアリスのうさぎと、なんだか、ちょっと、似ていたようにも、見えたけど。。でも、アリスのうさぎって、もう少し若者だったような、気もする。。

 ーーそれに、アリスのうさぎが持っていたのって、あんな、大きな砂時計だったっけ?

 ーーちがう、ちがう。ポケットから出せるくらいの懐中時計だったはず。。

 ーー耳が長かったから、うさぎだと思ったけれども、うさぎにしては、ひょろりとして、キリンみたいに、背が高かったし。。変だな。なんだか、少しずつ、何かが、おかしいよ。。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 初老のうさぎ(♂)が歩いて行ったと思われる道は、かなりまっすぐに、ずうっと、先まで、続いていた。

 なんとはなしに窺うと、ずいぶんと先のほうに、丸い螺旋階段のようなものが、在るようにも、見えるのだけれど、まるで、まだ隠されているゲーム画面のように、そこら辺には、薄く霧がかかっていて、はっきりと、見ることが、出来ないのだった。

 ーーあのうさぎ(♂)は、いったい、どこに向かって行ったんだろうか。。 

 あわてて、追いかけてみたのだけれど、どこに行ってしまったのか、うさぎ(♂)の姿は、すでに、消え失せていて、いくら見回してみても、影も形も、無かった。

 やがて、てっきり、道だと思っていたその場所は、どうやら、大きな建物の、広い中庭を、囲むように造られている、廊下のようなものらしい、ということが、だんだんと、分かって来た。

 ーーここは、「回廊」みたいになっているんだ。。

 ーーとてつもなく大きそうな建物だけれど、住んでいるひとは、居るのかしら。

 じぃっと、耳を澄ましてみたけれども、だいぶん経っても、あたりは、しーんとしたままで、ひとの気配は、まったく、感じられなかった。

 ーー「アリスの世界のようなところ」に、迷い込んじゃったってことかな。。

 ーーでも、「アリスの世界」って、ルイス・キャロルが創った「ものがたりの世界」だから、ほんとうには、何処にもないはず。。だったら、ここは、いったい、何処なの?

 そんなことを、ぶつぶつと、呟きながら歩いていると、片側には、等間隔に、きちんきちんと、同じデザインのドアが、いくつも、並んでいることに、気がついた。

 ーーまぁ。これじゃ、すっかり、アリスの「うさぎ穴の底の世界」みたいじゃない? ドアには、きっと、全部、鍵がかかっているんだろうな。。

 そんなことを思いながらも、わたしは、すぐ目の前の部屋に近づいて、ドアノブに手にかけ、少し回しながら、おそるおそる、ドアを、押してみたのだった。

 すると、意外なことに、押したドアは、難なく、開いた。

 ーーえ?

 開いてしまったドアを、茫然と見つめたまま、少しのあいだ、わたしは、固まっていた。

 怖気づいてしまったのだ。

 開くと思っていなかったドアの向こう側に、いったい、何が、待ち構えているのか、まったく、予測も付かなかったからである。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 少し経っても、恐ろしげなことは、特に、何も、起こらなかった。

 そこで、わたしは、開いたドアから、片方の目を半分だけ出して、さりげない風をよそおいながら、そうっと、向こう側を、探ってみることにした。

 すると、

 ーーここは、いったい。。

 わたしの、半分の眼のなかに、飛び込んで来たのは、予想を超えた、まるっきり意外な景色、だった。

 目の前に展開していたのは、限りなく青い空の下に広がっている、《広々とした大きな草原》だったのだ。

 その草原は、ずうっと遠く、地平線の先までも、続いているように、見えた。

 青々とした、その草の上には、どうにも、不釣り合いな按配に、大きな黒板と重厚な造りの教壇とが、ワンセットになって、十組ほど、点々と、置かれていた。

 そうして、それぞれの黒板の前には、さまざまな年齢の男女が、十人くらいずつ、おもいおもいの服装をして、少し歪な円陣を描きながら、座っているのだった。

 目を凝らして、よく見ると、そのひとたちは、ひとりひとり、それぞれ、手に、小さなノートと鉛筆とを、持っているのだけれど、実際に、何かを書いているひとは、ひとりもいなくて、ただただ、小首をかしげている。。

 なんだか、困惑しきっているようにも、見えるのだった。

 ーー奇妙な違和感を、感じるなぁ。。

 面倒なことに、巻き込まれそうな予感がして来て、わたしは、はっきりと、

 ーーこれは、関わりたくない。

と、思った。

 ーー引き上げたほうが良さそうだ。。

 もう一度、ドアノブに手をかけて、ドアを閉めようとした、そのとき、わたしの背後から、

 「さて、お嬢さん。まことに、申し訳ないのですが、もし、よろしかったら、ほんの少しだけ、横に、お移り頂いて、このわたくしを、通して戴けないでしょうか?」

という、無意味なほどに鄭重な声かけが、聞こえて来たのだ。

 あまりにも突然に、「声というもの」を、聞かされたわたしは、びっくりして、竦み上がった。

 思わず振り返ると、そこには、とっくに消えたはずの、あの、厳めしい顔付きのうさぎ(♂)が、立っていたのだ。

 両手には、まだ、あの、「砂が落ちたままの砂時計」を抱えたまま、うさぎにしては、不思議なほどに背の高い、そのうさぎ(♂)は、少しだけ困ったような顔つきをして、小柄なわたしを、上から、見おろしていた。

 その、細めの白い顔立ちには、どう見ても、少し大きすぎる、度の強そうな、分厚い黒縁のメガネを、一瞬、砂時計から離した、片手の指で、ぐいっと、持ち上げながら、

 ーーあの、もし、よろしかったら、お嬢さんも、わたくしの《おはなし》を、聞いて行って下さったり、しますかな?

 見おろしているくせに、あまり自信のなさそうな言いようで、うさぎは、わたしに向かって、そう、尋ねたのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「あなたは、これから、ここで、何か、《おはなし》をなさるんですか?」

 わたしが、尋ね返すと、

 「ええ。そうなんです。皆さん、もう、だいぶんお待ちかねなので、そろそろ、はじめなければなりません。」

 今度は、少し勿体ぶって、うさぎ(♂)は、そう、答えた。

 「どんな《おはなし》をなさるんですか?」

 うさぎ(♂)は、どう見ても急いでいて、早く通り抜けたがっていたけれども、わたしは、聞かずにおれなかった。

 なぜなら、ほんとうは、関わりたくなかったので、上手に断わるための、口実を、手に入れたかったからだ。

 けれども、そんな、わたしの、無責任な、誠意の無い、問いかけに対して、急いでいるはずのうさぎ(♂)は、しばし考え込んだあげく、口を萎ませて、

 「うーむ。なんとも。。ひと言では、説明出来ない《おはなし》とでも、いいましょうか。」

と、申し訳なさそうに、誠意しか感じられない、しごく真面目な答えを、返してくれたのだった。

 わたしは、逆に、申し訳ないような気持ちになってしまって、こころが、ちょっぴり、動いた。

 そうして、うさぎ(♂)の《おはなし》とやらを、聞いてみようかしらんという心持ちになったのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 特に、これといって、することもないし、行く当ても無いわたしは、たとえ、ここで、面倒なことに巻き込まれたとしても、意外と、困らないのではないか、と、思い始めたので、

 「わかりました。おはなしを聞かせて下さい。」

 と、答えてみた。そうして、

 ほんの少し、からだを横にずらして、うさぎ(♂)が、通れるようにしてあげた。実際、うさぎ(♂)は、とても細身だったので、わたしが、一歩ずれるだけで、必要充分過ぎるほどだったのだ。

 「ありがとうございます。聞いて戴けるのでしたら、どうぞ、わたくしと一緒に、こちらに、入っていらして下さい。」

 招かれるままに、わたしは、うさぎ(♂)のあとから、おそるおそる、草原に、足を踏み入れた。

 入ってみると、広々とした草原には、心地よい柔らかな風が吹いていて、深呼吸をすると、気持ちが晴れ晴れとして来るようだったので、わたしは、

 ーーなんだ、ちっとも、怖くないや。

と、安心した。

 さわさわという草の音を聞きながら、わたしは、うさぎ(♂)のあとに付いて、そよぐ草たちを、そうっと踏みながら歩き、一番近くの、ひとびとの輪のところまで、辿り着いた。

 そうして、座っていたひとたちに、促されて、輪のなかで、少しだけ、広めに、あいだの空いていた場所に、ハンカチを敷いて、腰を降ろした。

 さり気なく見廻すと、円陣のひとたちは、やっぱり、それぞれに、弱りきった顔つきをして、考え込んでいるように、見えた。

 「さて、みなさん、宿題は、出来ましたかな?」

 黒板の前に立ったうさぎ(♂)は、円陣を囲んだひとびとを見廻しながら、そう、語りかけた。

 「みなさんに出しておいた宿題は、」

 そう言いながら、うさぎ(♂)は、板書をし始めた。

 「存在出来ないものごと〜つまりは、出来ない相談。」

 黒板に、そう書き出して、

 「この問題について、思いを巡らしてみてほしい、ということでした。」

 「どうですか? 何か、考えつきましたかな?」

 そう言いながら、うさぎ(♂)は、円陣のひとびとの、ひとりひとりに、アイコンタクトを、取って行った。

 目を合わされたひとびとは、みな、一様に、もじもじして、考えは、まだ、まとまっていないように、見えた。  

 ーー出来ない相談かぁ。

 でも、黒板の問題の答えを出すことは、わたしには、案外、簡単だったのだ。何故なら、矛盾好きなわたしは、そのことについて、日頃から、良く考えていたから、である。

 わたしは、もじもじしているひとびとを、つい、助けてあげたくなってしまって、うさぎ(♂)に向かって、まっすぐに、手を挙げた。

 「おや、あなたは、何か、分かりましたか? どうぞ、黒板に、書いてみて下さい。」

 うさぎ(♂)に促されたわたしは、黒板に、思い付くままに、書いてみた。

  1. 何も考えずに居ようと決意したことを、考えはじめること。

  2. 同時に浮かんでしまう、異なった、或いは矛盾した、相容れない感情を、同時に言語化し、同時に表現すること。

  3. かつては在って、今はもう絶対的に存在していないものを、確実に欲しがること。

 わたしは、普段、いつも、考えていることを、そのまま、簡単に、書いたのだった。

 「なるほど。良い考えですね。」

 板書を見たうさぎ(♂)が、わたしに向かって、にこやかに、微笑んでくれたので、なんだか、正解出来たようにも思えて、わたしは、嬉しくなった。

 「みなさんも、どうか、引き続き、考えてみて下さいね。これは、頭の体操なんです。」

 「ものごとは、前向きにばかり考えていても、解決しないことが、あるのです。そんなときは、《出来ない相談》に、思いを巡らしてみると、意外と、答えが見つかったりするのですよ。」

 うさぎ(♂)は、円陣のひとびとに向かって、得意気に、話しかけていた。

 ーーふうん。そんなこと、あるのかしらん。

 なんだか、あんまり、納得がいかなかったけれども、うさぎ(♂)が、せっかく《おはなし》をしているので、わたしは、

 ーーま、いいか。

と、思った。

 それからは、うさぎ(♂)に促されるままに、まるで、うさぎ(♂)のお弟子にでもなったかのように、わたしは、残る九箇所の黒板にも、わたしが考えた《出来ない相談》を、板書して廻った。

 広い草原を歩き廻ったので、そのうちに喉が渇いて来て、水分の多い木の実を採ってもらって、ご馳走になったり、円陣のひとたちとおはなししたり、わたしは、その不思議な空間で、意外にも、楽しい時間を過ごすことが、出来たのだった。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「さぁ。ここは、もう、大丈夫。次の場所を訪ねるとしましょうかな。」

 一段落した、というような表情を見せて、うさぎ(♂)は、そう、独りごちた。

 「まだ、行くところが、あるんですか?」

 怪訝そうに、わたしが尋ねると、

 「あなたも、どうぞ、ご一緒に。きっと、ここよりも、もっと、あなたに向いていると思われる場所ですから、ね。」

 共に過ごすうちに、ちょっとは、打ち解けて、少しは、柔らかな表情を見せてくれるようになっていたうさぎ(♂)は、意味深な表情をして、そう答え、わたしに向かって、にんまりと、笑ってみせた。

 ーーそんなことを言われたら、もう、気になって、付いて行かないわけにいかないじゃないの。。

 嵌められたかのようで、ずいぶんと、悔しかったけれども、わたしが、うさぎ(♂)と行動を共にすることは、その瞬間に、決まってしまったのだった。

 「さて、とりあえずは、この草原から、抜け出しましょう。」  

 そう言いながら、うさぎ(♂)は、草原の真ん中に置いてあった、例の、その身に対して不釣り合いなほどに大きな「砂が落ちたままの砂時計」を、両手で、ぐいっと、持ち上げた。

 かさ張る「砂時計」は、実は、そんなに、重くはないのかもしれなくて、大きなものを、抱えているわりには、うさぎ(♂)は、早足だった。だから、わたしも、置いて行かれないように、早足で、そのあとに従って、草原を、出ることにした。

 出口として、一列に、いくつも並んでいる、同じデザインの扉は、どこから出ても、もと居た、あの回廊に通じているのだ、と、うさぎ(♂)は、歩きながら、教えてくれた。

 ということは、回廊に並んでいた扉の、どのドアノブを回しても、行き着く先は、すべて、この草原でしかない、ということになる。

 ーーとんだ種明かしだわ。扉は、ほんとうは、たったひとつで充分だった、ってこと、なんだもの。。

 そんなふうに、わざとややこしくしてあるのは、然るべき意味が、あってのことなのだと、あとで、うさぎ(♂)から、ちゃんと、教わるのだけれど、そのときのわたしには、あのたくさんの扉は、徒に、ナンセンスな、アリスの世界の真似事、としか、思えなかったのだ。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 元の回廊に戻ったうさぎ(♂)は、わたしの知らないどこか、に向かって、恐ろしいほどのマイペースで、どんどんと、まっすぐに、進んで行った。わたしも、遅れまいと、ひたすら一生懸命、《彼》のあとを、付いて行った。わたしたちは、ひと言の言葉もかわすこと無く、ただただ、歩き続けたのだった。

 うさぎ(♂)が、一歩一歩進むごとに、前方に、微かに見えている、まだ行けないゲーム画面のように、霧で覆われている箇所が、少しずつ、少しずつ、晴れてゆくのが、わたしにも、はっきりと、見てとれた。

 回廊の端っこに着く頃には、もう、そこら一帯は、すっかり、クリアになっていた。わたしたちの目の前には、想像していた通りの、丸い螺旋階段が、くっきりと、出現していたのだ。

「さぁ。次は、この階段を、昇ってもらいますよ。螺旋階段は、危ないですから、どうぞ、足元に、気をつけて、わたしのあとに、付いて来て下さいね。」

 目的地に着いて、ようやく、口を開いたうさぎ(♂)は、そう言いながら、自分が先に立って、階段を一歩ずつ、昇りはじめた。

 ーー大きな砂時計を抱えているあなたのほうが、わたしよりも、ずうっと、危なそうだけどな。。

 わたしは、心底、そう、思ったけれども、せっかくわたしのことを、気遣って、言葉をかけてくれたうさぎ(♂)の気分を、損ねてしまってはいけないので、そんな気持ちは、おくびにも出さないように、気をつけながら、ただ、にっこりと、頷いてみせた。そうして、大人しく、うさぎ(♂)のあとに付いて、わたしも、その階段に、足をかけたのだった。

 わたしたちは、結構長い螺旋階段を、くるくると廻りながら昇り、途中に設けてある踊り場まで、辿り着いた。

 「ちょこっと、一回、休憩を、しましょうか。」

 うさぎ(♂)は、そう言って、おおきな砂時計を、一旦、その踊り場に置くと、持っていた手を休ませ、大きな伸びを、した。

 そうして、

 「砂時計の砂を、落としたままにしておくことは、ほんとうに疲れます。ひとおもいに、逆さまにしたくなってしまうのですよ。」

と、何を思ったのか、唐突に、わたしに向かって、弱音を吐いたのだ。

 その変わりようが、なんだか、とても、面白くて、わたしは、思わず、くすり、と笑った。すると、うさぎ(♂)もまた、わたしにつられて、くすり、と、笑ったのだった。

 そんな他愛もないやりとりで、わたしたちは、ちょっぴり、仲よくなれたような気が、した。

 そこからは、ふたりして、残りの階段を、また、くるくると、今度は、足どりも軽く昇り、難なく二階に、着くことが出来たのだった。

 うさぎ(♂)から、ここは二階ですよ、と教わったのだけれど、わたしには、なぜか、それよりも、もっと、ずっと、高いところに居るように、感じられて、仕方がなかった。

 直感的に、《高い塔》に、登って来たような感覚が、したのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 実際に、室内を進んでみると、その場所は、うさぎ(♂)が言った通り,同じ建物の《二階》なのだということが、わたしにも、しだいに、分かって来た。

 何故なら、片側には、やっぱり、等間隔に列ぶ、同じデザインのたくさんの扉があって、一階とそっくり同じ間取り、だったからである。

 それに、よくよく考えてみれば、なんといっても、あの一階の、たくさんの扉の向こう側には、《空》があったではないか。だから、あそこが、普通の高さの一階なんかであるはずがない、と、さすがに、わたしも、気がついたのだった。

 一階では、真横に繋がっていた中庭は、当たり前のように、かなり下方に、見えていた。

 ーー中庭も、まだ、半分しか、見えていない。。

 二階の回廊の反対側も、霧で煙っていて、ちゃんと見えてはいなかった。そのことが、回廊や中庭の広さを、よくよく物語っているのだった。

 「さぁ、着きましたよ。」

 同じデザインの、たくさんの扉の前に立って、うさぎ(♂)は、そう言いながら、わたしを見た。そうして、

 「さて、お嬢さん、あなたは、どの扉のお部屋に、入りたいですか?」

と、聞いて来たのだ。

 どの扉から入ったとしても、行き着くところは、やっぱり、きっと、同じ場所なのだろう、と、もう、わたしには、とっくに、察しがついていたのに。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「あの、これって、もしかしたら、どの扉を選んでも、結局は、同じところに、通じていたりするのではないですか?」

 絶対、そうに違いないと、確信していたのだけれど、おとなしやかに、へりくだった風に、わたしは、一応、そう、聞いてみた。

 すると、うさぎ(♂)は、

 「さぁ。どうでしょうか。。」

と、言葉を濁したのだ。

 不安になって来たわたしは、今度は、おそるおそる、尋ねた。

 「え? そうしたら、選んだ扉によっては、違う場所に、行ってしまうのですか?」

 すると、うさぎ(♂)は、わたしは、特別に大切なことを言っています、と言わんばかりに、一語一語、区切りながら、ゆっくりと、丁寧に、語り出した。

 「お嬢さん、《世界》というものは、見るひとが、見たように見えるもの、なのですよ。」

 「ですから、どの扉から入るか、というところから、もう、すでに、あなたの、見る世界が、はじまる、のです。」

 「たとえ、同じ場所に着いた、としても、どの扉から、どんなふうに、どんなタイミングで、あなたがその場所に入ったかによって、あなたから見える、その世界は、少しずつ、微妙に、違って来るのですから。」

 うさぎ(♂)は、さらに、語り続けた。

 「いいですか、お嬢さん。」

 「わたしたちも、この世界も、すべての存在は、時々刻々と、移り変わって、変化し続けているのです。わたしたちのからだだって、細胞レベルで、常に、生まれ変わり続けているのですから。。」

 「わたしたちは、どんな場合でも、存在している限り、一瞬たりとも、同じものであり続けることは、出来ない。。それは、どんな存在であっても、たとえ、物質であったとしても、同じ、なんですよ。」

 うさぎ(♂)の《難しいおはなし》を聴かされたわたしは、分かったような、分からないような、狐につままれたような、如何ともし難い、不思議な感覚に囚われてしまって、困惑しただけ、だった。。

 それでも、とりあえず、どこかの扉を選べば、許してもらえそうな気がしたので、

 「分かりました。それでは、この扉にしてみます。」

 と答えて、ちっとも分かってなんかいなかったのだけれど、確実に、十個以上は、在りそうな、同じデザインの扉の、右側から三番めの扉の前に、なんとなく、立ってみたのだった。 

 「この扉ですね。よし、入ってみましょう。どうぞ、あなたが、先に立って、ドアノブを、廻してみて下さい。」

 わたしは、あまり、入りたくなかった。不安だったし、見たいものなんて、特に無いな、とも、思っていたからだ。それでも、後ろから付いて来るうさぎ(♂)の、かなり強めな視線に耐えかねて、わたしは、思い切って、ドアノブを廻し、ドアを開けた。

 そうして、こわごわ、入った瞬間、わたしのからだは、驚きのあまりに、硬直してしまったのだった。

 ーーウソでしょ?

 思わず、そう、呟いていた。

 なぜなら、そこは、何ひとつ見えない、真っ暗闇の世界、だったからだ。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

  「お嬢さん、大丈夫ですか?」

 後ろから、うさぎ(♂)が、心配そうに、わたしの様子を窺っていた。

 わたしは、どうにも、事態が飲み込めなくて、立ち尽くしていた。あまりにも暗くて、それ以上、進むことは、一歩たりとも、出来なかったのだ。

 「どうしましょう。ここは、真っ暗闇で、なんにも見えません。」

 そう言いながら、うさぎ(♂)を、振り返ってみると、まだ、かろうじて、少しだけ開いていた扉からの、微かなヒカリのおかげで、漆黒のタキシードを着ているうさぎ(♂)の、真っ白な顔だけが、暗闇のなかで、浮かび上がって、見えた。

 ーーこれじゃ、まるで、チェシャ猫だわ。

 そう、思ったけれど、さすがに、そんなことは、口には、出せなかった。

 「あなたは、記憶を失なっている、のですね。。」

 顔しか見えないうさぎ(♂)は、落ち着いた様子で、慰めるように、優しく、わたしに、語りかけて来た。

 「ほんとうは、この部屋には、世界のすべてが在る、のです。でも、あなたには、なんにも、見えない。。《記憶が、失われているから》なのです。あなたには、記憶を失ってしまいたくなるくらい、なにか、悲しいことが、在ったのかも、しれませんね。。」

 うさぎ(♂)は、また、ゆっくりと、静かに、語り出した。

 「いいですか、お嬢さん。時々刻々と変わり続けている世界のなかで、仮に、《瞬間》を、捉えることが出来たとして、《その瞬間》は、捉えた、と感じた瞬間に、もう、すでに、《過去》になってしまっているのです。」

 「ですから、わたしたちは、どうしたって、《過去》しか、捉えることが、出来ません。《現在》を捉えることは、誰にも、出来ないのですよ。」

 「わたしたちは、自らも変わり続ける世界のなかで、瞬間瞬間に、何かを切り取り、何かを捉えて、生き続けています。すべてのひとびとが、それぞれに、です。その、切り取って捉えた《過去のものごと》が、わたしたちの《意識を形作る》のです。《捉えられたものごとだけ》が、《意識》となり、《記憶に成ってゆく》のですよ。」

 「つまり、《意識されたものだけ》が、わたしたちに、《記憶》を与えてくれるのです。ですから、《記憶は、過去の意識の連なり》なのですよ。大変に、主観的で、かつ、個人的なものです。そうして、それらの《連なる記憶》が、わたしたちにとっての《時間》なのです。そうなると、結果、《時間》もまた、主観的で、個人的なものだ、ということに、なりますね。」

 「世界は、ひとりひとりに、それぞれに《在って》、全部、少しずつ、違っています。すべてが、そのひとだけのために、自分の意識で、捉えられたものたちで、造られている。それが、そのひとが、感じることが出来る《世界のすべて》なのですよ。」

「わたしたちが、《社会》と思っているものは、それぞれの、違っている世界を、仮に、《共有した》と設定した上で、成り立っているのです。どうです? わかりますか?」

 ーー全然、わからないです(汗)。。

 とは、言えなかったけれど、わたしは、《記憶》を無くしているから、世界が真っ暗なのだ、ということだけは、なんだか、実感として、分かるような、気がした。

 と、そのとき、かなり遠くのほうに、赤いヒカリが、ちらちらと、微かに、揺れて、見えていることに、わたしは、気がついた。

 「赤いヒカリが、見えて来ました。なんだろう、あれは。。」

 見えるものが、ひとつでも、在ってくれたことが、嬉しくて、わたしは、思わず、叫んでいた。

 「何かが見えたのなら、そこに、行ってみましょう。」

 顔しか見えないうさぎ(♂)は、おそらくは、ポケットから、首尾よく、小さな燭台を取り出して、手慣れた様子で、火を灯し、

「どうぞ、これを、お使いなさいな。」

と、わたしに、渡してくれた。

 燭台の灯りで、ようやく、うさぎ(♂)のからだも、うっすらとではあったけれども、少しは見えて来て、わたしは、内心、ほっと、した。 

 灯りを頼りに、わたしは、ゆっくりと、その、赤いヒカリの方向に、近づいて行った。うさぎ(♂)も、寄り添うように、付いて来てくれた。

 だんだんと、近づいてゆくと、十歳から十三歳くらいに見える少年が、独りで、焚き火をしているのが、見えて来た。遠目に見えた赤いヒカリは、焚き火だったのだ。

 けれども、その少年は、ただ、焚き火を見つめているだけで、わたしたちには、気づきもしない。わたしたちのことは、見えてさえいない、ようだった。

 「あ。」

 今度は、うさぎ(♂)が、声をあげた。 

 「子どもが、独りで焚き火をしているのは、危ないですよね。おとうさんやおかあさんは、そばに、居ないのかしら?」

 わたしが、心配して、そう言うと、うさぎ(♂)が、

 「あれは、わたしです。だから、大丈夫。気にしないで下さい。」

と、答えたのだった。

 「?。。。」

 もう、ちっとも、意味が分からなかったけれど、わたしは、この真っ暗闇のなかでも、うさぎ(♂)だけは、見えるんだな、と思った。

 「あなたは、記憶を無くしているけれど、わたしと一緒にいるから、わたしだけは、見えるんですね。」

 うさぎ(♂)は、妙に、納得しているようだったけれど、わたしは、この先も、真っ暗闇の世界が続いていくなんてことには、我慢がならないわ、と思いはじめていた。

 「あなたから、わたしが、どう見えているのか、わたしには、分かりませんが、あなたの世界に、わたしが存在しているのは、確かなことのようですね。」

 うさぎ(♂)は、浮かび上がった白い顔で、チェシャ猫のように、頷いていたけれど、少し、満足気に、見えた。

 わたしは、

 ーーほかのひとから、あなたが、どう見えるのかなんて、想像もつかないけれど、わたしからは、あなたが、きりんのように、背の高い、漆黒のタキシードで決めた、初老のうさぎ(♂)に見えている、なんてことは、口が裂けても、言えやしない。。

と、決まり悪く、思ったまで、だった。。

 焚き火を見つめ続けたまま、何ごとかを、一心に、考え込んでいる少年に、無駄に話しかけるようなことは、敢えてしないで、わたしは、その子のそばを、そうっと離れ、燭台の灯りを頼りにして、真っ暗闇の部屋の入り口まで、戻って来た。

 そこで、わたしは、また、たくさん並んでいる扉から、好きな扉を選ぶように、うさぎ(♂)から促され、適当に選んだひとつの扉から、元来た回廊に、出て来たのだった。

 すると、うさぎ(♂)は、

 「さぁ。それでは、お待ちかねの、三階に、昇ることにしましょうか。」

と、嬉しそうに、提案して来たのである。

 「まだ、上に、昇るんですか?」

 と、驚いて聞くわたしに向かって、

 「もちろんですよ。起きた事態は、収拾しないといけませんからね。」

 意味ありげなセリフを、半ば決めつけるように言って、うさぎ(♂)は、わたしを見つめ、そうして、やんわりと、笑ってみせたのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 またまた二階の端っこまで、わたしたちは、無言で、進んだ。うさぎ(♂)は、相変わらずの早足で、マイペースに、わたしの前を、どんどんと歩いて行ったので、わたしも、置いていかれないように、必死に、ついて行ったからだ。

 ふたりして昇る螺旋階段は、もう、お手のものだった。

 くるくると廻りながら、今度は、途中で、休憩することもせず、わたしたちは、難なく、三階まで、昇り詰めることが、出来たのだ。

 ところが、調子よく昇れた、その三階の入り口で、わたしは、絶句して、しまった。

 なぜなら、そこには、全体に、真っ白過ぎるほど、真っ白に、濃い霧が立ちこめていて、自分たちが立っている床さえ、ほとんど、見ることが出来なかったから、である。

 「今度は、真っ白で、なんにも、見えません。。」

 そう言いながら、振り返って、うさぎ(♂)を見ようとしたら、真っ白の霧は、うさぎ(♂)の白い顔さえも、隠していて、ほんとうに、何ひとつ、見ることが、出来なくなっていたのだった。。

 ーー真っ白な霧は、暗闇よりも、最強かもしれない。だって、うさぎ(♂)の顔さえも、見えなくしてしまうのだから。

 こんなに高い、知らないところで、たった、ひとりぼっちになってしまったことに、わたしは、心底、ぞっとした。

 「どうしたら、いいですか?」

 心細さが、加速して、どんどん不安になり、わたしは、うさぎ(♂)の声を求めて、叫んでいた。

 すると、そうっと、伸びて来た手が、わたしの右手を、握ってくれたのだ。温かい手だった。そうして、

 「大丈夫ですよ。わたしは、ちゃんと、ここに、居ますからね。」 

という、うさぎ(♂)の、優しげな声が、すぐ近くから、聞こえて来たのだった。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「お嬢さん、怖がらないで。この霧は、わたしが、歩き出せば、晴れてゆきますから。どうぞ、安心して下さい。」

 うさぎ(♂)は、わたしの右手を、握ってくれたまま、そう言って、ゆっくりと、一歩ずつ、前に進み出した。だから、わたしも、少しのあいだ、うさぎ(♂)と一緒に、どこかわからないところを、目指して、歩くことになったのだった。

 うさぎ(♂)の言ったとおり、一歩一歩、歩くごとに、真っ白な、濃い霧は、少しずつ、少しずつ、晴れていった。

 ずいぶんと歩いたところで、うさぎ(♂)は、

 「さて、もう、限界だ。」

と、呟いた。

 見ると、うさぎ(♂)は、その左手で、わたしの右手を握ってくれているために、あの、大きな砂時計を、ずうっと、右手だけで、抱えていたのだった。

 「まぁ。ごめんなさい。」

 わたしは、思わず、謝った。

 うさぎ(♂)は、わたしの、その謝罪の言葉には答えずに、抱えていた大きな砂時計を、床の上に、とん、と置いた。

 そうして、

 「さぁ、お嬢さん。ついに、この、砂時計を、逆さまに、するときが、やって来たのですよ。」

と、さも、嬉しそうに、言ってのけたのだ。

 うさぎ(♂)は、その、うさぎらしからぬ、長いからだを、少しだけ、折り曲げて、大きな砂時計を、ゆっくりと、一度、床に寝かすと、今度は、えいや、とばかりに、逆さまに、立ち上げた。

 そうやって、逆さまにされた砂時計は、まるで、眠りから、目醒めて、息を吹き返したかのように、細やかな砂を、ゆっくり、ゆっくりと、落としはじめたのだった。

 わたしたちは、並んで、その、儀式のようなもの、に、立ち会っていた。

 ーーやっぱり、砂時計は、砂が落ち続けているほうが、自然だな。。

 わたしは、そんなことを、感じながら、落ちる砂を、ただ、ただ、見つめていた。

 けれども、そのうちに、なんとも、まどろっこしいことに、気がついた。

 砂時計には、落ちるべき砂が、とても、たっぷりと、入っているのに、その砂は、ほんの、ほんの、少しずつ、しか、落ちていかないのだ。

 ーーこの調子で行ったら、すべての砂が落ちるまでに、いったい、どのくらいの時間がかかるのかしら。。。

 そんなことを思いながら、砂時計の砂を、見つめていると、うさぎ(♂)が、

 「ふぅ。これで、やっと、ほっと出来る。二十年は、安泰ですからね。」

と、言ったのだ。

 「二十年ですって? この砂時計は、砂が落ち切るまでに、二十年も、かかるんですか?」

 わたしは、驚いて、尋ねた。すると、うさぎ(♂)は、

 「そうなんですよ。前に、ひっくり返したときのわたしは、まだ、とても、若かったのです。」

と、言って、照れくさそうに、笑った。

 ーー二十年ごとにひっくり返す砂時計だなんて、なんだか、気が遠くなりそうな、おはなしだわ。。

 ーーとても、ついて行けやしない。。

 わたしは、うさぎ(♂)には、何も言わずに、こころのなかだけで、そう、思ったのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 砂時計が動き出すと、霧が晴れてゆく速度が、俄然、加速しはじめた。そうして、わたしとうさぎ(♂)が立っている場所の全貌が、よりはっきりと、浮かび上がって来たのだ。

 そこは、いままで、見たこともないくらいに、だだっ広い空間で、白色に塗られた、木造りの床以外は、天井も四方の壁も、すべてが、ガラス張り、で、出来上がっている、ひとつの《お部屋》だった。

 さらに言えば、その《お部屋》には、家具のひとつも置かれていないために、大変に、がらーんとしていて、外の景色が、どこまでも、見渡せるのだった。

 ーーこの景色、前にも、どこかで、見たことがあるような気がする。。

 わたしは、直感的に、そう、感じたのだけれど、やっぱり、何も、思い出すことは、出来なかった。 

 《お部屋》からは、遠くの山々の連なりまでが、かなり、はっきりと、見えていた。そうして、その山の端に、今、まさに、大きな、大きな、オレンジ色のお日さまが、沈もうとしているところ、なのだった。

 ーー今日一日は、きっと、素晴らしく、良いお天気だったのに、違いないわ。

 そうとしか思えないほど、あたり一面が、たくさんのヒカリで、溢れかえっていた。

 夕焼けの、オレンジ色のヒカリは、部屋全体に、差し込んで来ていて、大きなガラスに反射し、外の景色も、部屋のなかも、それはそれは、明るく、眩しく、輝いていた。

 「さぁ、もうすぐ、一日が、終わろうと、しています。わたしたちは、出かけなければいけません。」

 うさぎ(♂)は、そう言って、また、わたしの、右手を取って、歩き出した。

 もう、砂時計を抱えなくても良くなって、儀式の責任を、果たし終えたうさぎ(♂)は、余裕さえあって、これまでの、厳しい表情は、すでに、跡形もなく、消え失せていた。きっと、本来は、そうだったのだろうなと、思わせる、優しい表情に、すっかり、戻っていたのだ。

 うさぎ(♂)は、砂が落ち切るのに、二十年も費やす砂時計を、なんの因果か、見つめ続けることを任されて、再び《時を動かす》このときを、砂時計を抱えながら、ずうっと、窺っていたのだろうから、わたしは、うさぎ(♂)のことは、なんにも知らないけれど、その表情の変わりようを、まのあたりして、きっと、いろいろと、大変だったのだろうな、と想像した。

 ーーご苦労さまなことです。。

 やっぱり、口には、出さなかったけれど、わたしは、こころから、そう、思った。

 わたしたちは、しばらく歩いて、ようやく、ガラス張りの部屋の、端っこまで、辿り着いた。

 そこからは、夕暮れどきの、外の景色が、パノラマのように、すっかりと、見渡すことが出来たのである。 

 けれども、その、臨んだ景色に、わたしは、すっかり、驚かされてしまった。

  ーーそんなことが。。

 この建て物全体は、なんと、大きな「塔」のような作りになっていて、さらに驚くことに、この「塔」自体が、大きな大きな湖の真ん中の、小さな小さな島の上に、乗っかるように、建てられて在る、ということが、パノラマのような景色から、見て取れたから、である。

 小さな島のほとんどの面積を、この「塔」が占めている、と言っても、過言では、無かった。

 遠くに見える山の端の手前は、すべて湖水で、岸さえも、遠くに霞んで見えるほどに、それはそれは、大きな湖が、眼下には、広がっていた。。

 そうして、その湖水もまた、夕暮れどきのオレンジ色のヒカリを受けて、キラキラと、無心に、輝いていたのだった。

 そんなだから、全面ガラス張りの窓から見渡せる景色は、まさに、絶景だった。

 「なんて、きれいな景色なんでしょう。」

 思わず、口に出して、わたしは、呟いていた。

 「あなたは、今夜、この島から《記憶を取り戻すための旅》に出るのですよ。」

 横に並んで、一緒に、夕焼けを見ていたうさぎ(♂)は、ようやく、口を開き、わたしに向かって優しく、そう、告げて、来たのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「今夜、わたしは、この島から、《旅》に、出る?」

 うさぎの言葉の意味が、分かりかねて、わたしは、その言葉を、そのまま、うさぎ(♂)に向かって、くり返してしまっていた。

 「そうですよ。《過去》をすっかり、忘れてしまったあなたは、《あなたの世界を、新しく認識しなおすための旅》に、今夜、ここから、出発するのです。」

 「??。。」

 「わたしが、二十年の《とき》を、見つめ続けたあと、再び、砂時計の砂を、逆さまにするタイミングに、あなたが、この場所に迷い込んだことには、今は、まだ、分からないけれども、きっと、《何がしかの意味》が、あるのでしょう。わたしの人生と、あなたの人生とが、ここで、いっとき、クロスして、そうして、また、離れてゆく。。一期一会なのです。」

 「それでも、わたしも、あなたも、お互いを、きっと、忘れない。」

 「あなたの《記憶》のなかに、わたしは残るし、わたしの《記憶》のなかにも、あなたは、残る。お互いに、お互いの世界の、構成員として、それぞれの世界のなかに、残る、のです。」

 うさぎ(♂)は、また、もっともらしく、そんなことを、わたしに、話して聞かせたのだった。

 ーー《記憶》は、新しく創り出せるのだろうか。。

 漠然とした不安とともに、うさぎ(♂)が語りかけて来た言葉を、わたしは、こころのなかで、もう一度、噛みしめていた。

 夕日は、いつの間にか、すっかり落ちて、昇りはじめたお月さまが、あたり一帯を、少しずつ、照らしはじめていた。

 「今夜は、明るい月夜です。湖の上に、小船を漕ぎ出すには、丁度良い。支度をしに、一緒に、下まで、降りましょう。」

 そう言うと、うさぎ(♂)は、ポケットから、また、例の燭台を取り出して、手早く、火を灯した。

 わたしたちは、高い高い「塔」の、最上階の《お部屋》から、外側に在る、別の螺旋階段を使って、燭台の灯りに助けられながら、階下まで、ゆっくり、ゆっくりと、降りて行った。

 屋外の暗さは、さっきよりも、増していたけれど、月明かりが、より明るくなって来ていたので、階段を降りることは、そんなにも、危なっかしくはなかった。

 それでも、うさぎ(♂)は、わたしを気遣って、ときどき、声をかけてくれたので、わたしは、地上まで、安心して、降りることが、出来たのだった。

 すっかり下まで、降りてみると、すぐ目の前に、小さな船着き場に続く、木の桟橋があるのが、見えた。

 「少しだけ、待っていて下さい。あそこに見える小屋から、わたしが、ここまで、小船を曳き出して来ますからね。」

 そう言うと、うさぎ(♂)は、少し離れたところにある、可愛らしい、赤い屋根のボート小屋のほうに、向かおうとした。

 「お月さまが、とっても明るいから、ちっとも、怖くありません。わたしは、大丈夫です。」

 そう、答えると、うさぎ(♂)は、少し、振り返り気味にわたしを見て、

 「それなら、良かった。」

と、言って、にっこりと、頷いた。

     ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ほどなく、小船に乗ったうさぎ(♂)が、わたしが立っている船着き場の前に、戻って来た。

 「さぁ、お嬢さん。この船に、乗り込んで下さい。足元に、気をつけて。」

と、言いながら、手を差し伸べてくれたので、わたしは、その手を頼りに、小船に、乗り込んだ。

 ーーここから、わたしの、新しい《記憶の旅》が、はじまるのだ。わたしは、わたしを、もう一度、《認識》出来るだろうか。。

 そんなことを、思いながら、ふと、小船を漕ぐうさぎ(♂)を見て、わたしは、ちょっぴり、驚いた。

 漆黒のタキシードで決めていたはずのうさぎ(♂)が、着替えていることに、今さらながらに、気づいたからだ。

 木造りの、頑丈そうなオールを、漕いでいるうさぎ(♂)は、赤色が多めの、ギンガムチェックのブラウスに、ブルージーンズという、とてもカジュアルな格好に、いつの間にか、変身していたのだった。

 ーー色白のうさぎには、やっぱり、赤い色が、良く似合っている。

 わたしは、タキシードで決めていたときのうさぎ(♂)の、首元に締められていた、赤色のビロードの蝶ネクタイのことを、思い出していた。

 夜半になり、お月さまは、もう、ずいぶんと、高くなっていた。

 大きな大きな湖の、ちょうど真上で、お月さまは、まんまるに、わたしたちを、見守るかのように、輝いているのだった。

 旅立つ心細さも手伝って、わたしは、なんとなく、もの寂しい気持ちになっていた。

 すると、まるで、そのことを察したかのように、小船を漕いでいるうさぎ(♂)が、唐突に、うたを、歌いはじめたのだ。

 ーー船頭唄を、歌ってくれてるんだな。

 そんなふうに、思いながら、そのうたを、聴いているうちに、わたしは、急に、あることを、《思い出した》。。

 うさぎ(♂)が、歌っていたのは、こんなうた、だった。


 唄を忘れた金絲雀(かなりや)は 
 後(うしろ)の山に棄てましょか。
 いぇ いぇ それはなりませぬ。

 唄を忘れた金絲雀は 背戸(せど)の
 小藪(こやぶ)に埋(い)けましょか。
 いぇ いぇ それはなりませぬ。

 唄を忘れた金絲雀は 柳の鞭で
 ぶちましょか。
 いぇ いぇ それはかはいさぅ

 唄を忘れた金絲雀は
 象牙の船に 銀の櫂(かひ)
 月夜の海に浮かべれば
 忘れた唄をおもひだす。
 
 (西條八十童謡全集 大正十三年 五月二十五日刊 新潮社版 「かなりや」より抜粋)

 ーーなんて、懐かしいのだろう。これは、まだ、わたしが幼かったころに、よく、母親が、歌っていた「かなりや」のうただ。。

 わたしは、ある情景を、はっきりと、《思い出して》いた。

 わたしは、このうたが、嫌いだったのだ。

 なぜなら、このうたは、とても、怖かったから。。

 うたを唄えなくなっただけで、棄てられたり、埋められたり、鞭でぶたれたりしてしてしまいそうになる「かなりや」が、かわいそう過ぎて、母親が、このうたを歌うたびに、わたしは、だんだん怖くなって、そうして、おしまいには、泣いてしまうのだった。

 だから、歌う母親に向かって、わたしは、いつも、必ず、こう頼んだ。

 「おかあさん、うたを忘れたかなりやは、とてもとても、かわいそう。だから、このお歌は、四番だけにして、歌って。」

と。。

 それでも、このうたが、大好きな母親は、絶対に、最初から、歌うことを、譲らないのだった。

「このうたはね、一番と二番と三番があるから、四番が、とても良くなるのよ。だから、四番だけを歌うなんて、出来ないの。」

 母親は、いつも、わたしに、そのように、説明するのだった。

 たしかに、そうなのかもしれない。

 それでも、うたを忘れたかなりやに、下されそうになる仕打ちは、酷すぎる、と、子どものわたしは、思うのだった。

 ーー《過去》を忘れてしまったわたしが、はじめて思い出せたのが、母親が、歌っていた、怖い「かなりやのうた」だなんて。。

 ーーわたしは、怖くて、嫌いだったけれど、母親は、このうたが、ほんとうに、好きだったなぁ。。

 忘れていた母親の顔が、まんまるなお月さまのなかに、浮かんだ。

 もしかしたら、うさぎ(♂)も、このうたが好きなのか、どんなわけで、うたうのか、わたしには、ちっとも、わからないのだけれど、どうしてか、何回も、何回も、繰り返して、うさぎ(♂)は、「かなりや」を歌うのだった。

 それでも、嫌いなうたのはずなのに、うさぎ(♂)が歌うと、しっとりと、こころに、沁みてきて、自然と、優しい気持ちになれそうな、不思議な感覚が、して来るのだった。

 ーー夜が明けて、小船が、岸に着いたら、うさぎ(♂)とも、もう、お別れだ。。わたしは、ひとりで、《自分のための旅》に出ないといけないのだもの。

 ーーこんなに上手なうさぎのうたを、わたしは、また、聴くときが、あるのだろうか。

 少し、悲しいな、と、思った。

 ーー 一期一会なんだもの。。

 それでも、うさぎ(♂)と過ごした《時間》は、わたしの《意識》に《記憶》されて、うさぎ(♂)は、わたしの《世界》の構成員として、確実に《残る》のだから、悲しくなんかないのだ、とも、思った。

 ーーわたしは、わたし。

 ーーわたしの《記憶》は、わたしだけのもの。。

 ーーわたしの《世界》も、わたしにしか、《認識》出来ないもの。。

 今日一日のうちに、うさぎ(♂)から教わったことを、決して忘れないようにしようと、わたしは、こころに誓った。

 そうして、歌い続けるうさぎ(♂)のうたを、聴きながら、わたしは、やっぱり、

 ーーかなりやのうたは、四番だけで、いい。

と、思うのだった。

 月明かりの下で、わたしとうさぎ(♂)を乗せた小船は、少しずつ、確実に、岸に近づいてゆく。

 不可思議な、割りきれないおもいを抱いたまま、大きな大きな湖の上で、やがて明ける空を待ちながら、わたしは、ただただ、漂っていた。。

 ♪ 唄を忘れた金絲雀は
   象牙の船に 銀の櫂
   月夜の海に浮かべれば
   忘れた唄をおもひだす。
 

(西條八十童謡全集 大正十三年 五月二十五日刊 新潮社版 「かなりや」より抜粋)


〈参考文献〉
※「記憶と生」アンリ・ベルグソン著 ジル・・ドゥルーズ編 前田英樹訳 未知谷 1999年8月10日発行

※「精神のエネルギー」ベルグソン 宇波彰訳 第三文明社 レグルス文庫199 2012年7月15日初版第6刷発行

※「ベルグソン=時間と空間の哲学」中村昇 講談社選書メチエ2018年12月19日第三刷発行

※「意識に与えられたものについての試論」ー時間と自由 アンリ・ベルグソン
合田正人 平井靖史訳 ちくま学芸文庫2020年10月25日第八刷発行

※「物質と記憶」アンリ・ベルグソン 
杉山直樹訳 講談社学術文庫 Kindle版

※名著複刻 日本児童文学館19  1971年 ほるぷ出版 (西條八十童謡全集 大正十三年 五月二十五日刊 新潮社版)





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