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パンドラの匣・人生・謎解き・懺悔

#小説

 「パンドラの匣」を「最後まで開けたい」と願っているわたしだけれど、「最後まで開けること」って、ほんとうは、とても難しいことのような気がする。

 底に残っている「希望」にまで、辿り着く前に、たくさんたくさん出て来てしまう「絶望的なこと」や「悲しいこと」を目の当たりにしたら、たいていの人は、怖気づいて、途中で、フタを閉めたくなってしまうはずだ。

「希望」は、「匣の底」で、最後まで、ただじっと、気がついてくれることを待っているだけで、自分から出て来てはくれないのだ。

「絶望的なこと」や「悲しいこと」は、世界じゅうを浮遊していて、人々を苦しめ続けているけれど、「希望」には、なかなか出逢えない。

 それは、「匣の底」の「希望」にまで、辿り着ける人が少ないから、なのかもしれない。

 怖いけれど、最後に、「希望」が見えて来るところまで、フタを開け続けているには、相当な「覚悟」が必要だ。

 「希望」が見えてくるまで、人々は、様々な苦しみにさらされ続け、それらを乗り越えなければならないのだ、ということを、「パンドラの匣」は、教えているのだろうか。。

 人生は、単純でも、簡単でも、無く、一筋縄ではいかないものだ。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 これまでの人生を振り返ると、退屈する暇もないくらいに、いろいろなことがあった。。

 けれど、一番辛かったのは、四十代だったな、と、六十代になった、今のわたしは思っている。

 古来、四十は「不惑」とか、言われているけれど、わたしには、全く、当てはまらなかったのだ。

 ほんとうに、普通ではない、いろんなことを、わたしは、あの時代に、経験したと思う。

 四十代が終わりにさしかかるころには、こころのなかに、厳重に「封印」していたはずの、「パンドラの匣」まで、開いてしまったし。。

 それは、ほんとうに、「つらい季節」だったけれども、もしかすると、ある意味、「人生の醍醐味」が、全て、ぎゅっと詰め込まれた「素晴らしい季節」でもあった、のかもしれない。。

  今、老年にさしかかったから、そんなことを思えるだけなのかもしれないけれども。。

 「パンドラの匣」が開いてしまったときは、「いのちを脅かす風」が、こころのなかを、吹き荒んだ。

 でも、わたしは、なんとか「最後」に、「希望」が見つかるところまで、「パンドラの匣」を開け続けていることが出来たのだ。

 或る「秘策」を駆使して。。

 だから、きっと、「死なず」に済んだのだ。

 わたしには、まだ、成すべきことが、あるのかも、しれない。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 一九九七年の四月、わたしは、四十才だった。

 子育ても、ようやく一段落して、一番大変な季節は、やっと、乗り越えた感があった。

 ーーやっと、春を楽しめるかな。。

 なんて、思っていた。

 でも、五月になると、その期待感は一変した。

 連休が明けた頃、娘たちは、二人とも、学校を拒否して、引きこもり出したからだ。

 誕生日を迎えたばかりの長女は九才、早生まれの次女は六才だった。二人は、まだ、三年生と一年生だったのだ。

 幼い子どもの「不登校」や「引きこもり」に対する、社会の理解も、受け入れ体制も、支援も、ほとんど無かったあの頃、わたしは、試行錯誤、七転八倒を繰り返しながら、孤立無援に闘う日々を過ごした。

 次女は三年半、長女はまるまる六年間、「引きこもり」を続けた。

 幼い女の子たちだけを、家に残して、外出することなどは出来ないので、わたしは、「誰にも会いたくないし、どこにも出かけたくない」と、主張する娘たちに、ただただ寄り添って、日々を過ごしていた。

 一般的な子育てをしているおかあさんなら、子どもが学校に出かけている時間に、働いたり、趣味に興じたり、ある程度の「自分の時間」を持つことが出来る時期に、わたしは、全く尋常ではない時間の過ごしかたをしていたわけだ。

 「自分たちの話題は、誰ともして欲しくない」と、懇願する子どもたちを受け入れて、わたしは、子育てを通じて知り合ったママ友たちとも、しだいに疎遠になっていったし、知り合いと電話したりすることも無くなっていった。

 祖母たちは、「とにかく甘やかしているからそうなった」と、わたしを非難してくるので、こちらから連絡を取ることは、だんだんと、出来なくなっていった。

 夫は、仕事が忙しく、朝に出かけると、帰りは終電、だったから、話をするゆとりなど無い。やっと休日になっても、終日寝て過ごして、疲れを取るのが精一杯だった。

 結局、わたしは、大人と会話をすることが、ほとんど無いままに、四十才から四十六才までの「六年間」という長い日々を、実質的に、社会から「引きこもって」過ごしたのだった。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 あの頃のわたしは、「将来のある娘たちのため」だけになら、頑張れたのだけれど、「自分の人生」については、もう、完全に、「あきらめて」いた。

 わたしは、すでに、「やりたいことは来世で」などと、言っていたのだ。

 子どもの頃から、「世の中のための何か」になりたいと思って、「男の子」なんかには負けないつもりで、勉強して来たけれど、上手く職場環境に適応出来ずに、体調を崩して、退職せざるを得なかったことは、もう、大分経った、四十代になった頃でも、まだ、わたしのこころのなかに、しっかりと、傷を残していた。

 「男女雇用機会均等法」なども、まだ無かった時代のことだけれど、大卒で雇用されたというのに、「大学出の生意気な女」という「烙印」を押されるばかりで、仕事は、なんにも教えてもらえなかった。

 今なら、考えられないことだろうけれど、コピー焼きと、会議室の設営と片付け、それに、昼のお弁当の手配とお茶くみと。。

 毎日そんなことばかり、させられていた。

 仕事は、簡単な雑務ばかりだったし、同期の男の子たちには、参加を許される会議でも、わたしだけは、常に、蚊帳の外だったのだ。

 そのうえ、「大卒の女は、給料が高いだけで、高卒の女より気が利かないな。」などと、これみよがしに揶揄する陰口ばかりが、聞こえてきた。

 大卒採用の女子は、わたししか、いなかったのだ。

 わたしは、すっかり病んでしまって、悔しくて仕方がなかったけれど、結局、退職を余儀なくされたのだった。

 それでも、頑張って、母親の反対を押し切って、好きになった人と、「結婚」だけは、した。

 仕事は上手くいかなくても、好きな人と結婚したら、しあわせになれるはずだ、と思ったから。。

 でも、やっと授かった娘たちが、順当に、育って行かなかったのだ。。

 実母は、

「ほら、ごらん。わたしの反対を押し切って、あんな男と結婚したから、バチが当たったんだよ。」

と、あからさまに、わたしを、口撃してきた。

 ーー悔しいけど、何ひとつ、上手くいかない。。

 これが、四十二、三才くらいの頃の、わたしの、「自分の人生へのおもい」だった。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 自分の人生をあきらめていた。。 

 まだ、四十才を過ぎたばっかりだったのに、人生をあきらめていたなんて、今から思うと、とても、不思議だ。

 でも、ほんとうに、あきらめていたのだ。

 ーーどんなに、勉強したって、報われなかったんだし、この先は、なんとなく年を重ねて、ぼんやりと、おばあさんになってゆくだけ。。

 わたしは、誰にも言わなかったけれど、こころのなかでは、そう、思っていた。

 そんな、わたしの、内心に隠した、投げやりで、受け身的な姿勢が、おそらくは、娘たちに、影響を与えていたのだろうなぁと、今なら、わかるのだけれど、あの頃は、ほんとうに、なんにも、わかっていなかった。

 わたしは、経済的には、100%夫に依存し、精神的な充実は、娘たちに依存して、自分自身の人生についてなんて、もう、考えるだけ無駄だ、くらいに思っていたのだ。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 おそらくは、一九九八年頃。

 娘たちに寄り添って、過ごしていたあるとき、わたしは、たまたま、見ていたテレビで、「音楽専門チャンネル」を選局した。

 そこでは、たくさんの、ミュージックビデオが、一日じゅう、流されていた。

 わたしは、幼い頃から、「小説」ばかり読んでいて、少し成長してからは、「演劇」に凝ってしまったので、それまで、「音楽」は、ほとんど聞いたことがなかった。

 同世代のみんなが大好きな、「ニューミュージック」や「歌声喫茶」を、わたしは好きになれなかったし、「ビートルズ」も、特に好きにはなれなくて、むしろ避けていたくらいだった。

 でも、「音楽専門チャンネル」で流れるインディーズ系の音楽や、洋楽は、「面白い」と思ったのだ。

 「NIRVANA」は、素敵だ、と思ったし、「グリーン・ディ」もいいな、と感じた。

 ーーこんな音楽があったなんて、知らなかった。

と、思った。

 みんなが十代でハマる「パンク」に、わたしは、信じられないけれど、四十二才くらいで、初めて触れて、そうして、ハマっていったのだ。

 行き場のない、納得が行かなかったもの、を、「パンク」は、拾い上げてくれる、と、わたしは、まるで十代みたいに、感じていた。

 それからは、音楽専門チャンネルは、一日じゅう、つけっぱなしになった。

 わたしと娘たちは、テレビゲームで遊びながら、そのとなりのテレビで、いろんなミュージックビデオを、観ていた。

 おそらくは、長女も、同じおもいを抱きながら、「音楽」を聴いていたのだと思う。

 だからこそ、長女は、しだいに、生の「音楽」に触れてみたくなって、「引きこもり」を解消したのだ。

 それはまた、わたしの、「生き直し」の、入り口でもあった。

 長女が、「引きこもり」を解消したタイミングで、わたしの人生は、大きく変化してゆくことになる。。

 実は、そこからが、わたしの、「失くした人生」を見つける「はじまり」だったのだ。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 二〇〇三年 三月

 わたしは、四十六才になっていた。

 長女は、六年間の「引きこもり」を解消して、ラジオで知ったバンドのライブを追いかけ始めていた。

 そうして五月、ラジオ局が企画したライブに応募して、チケットを取り、観に行くことを楽しみにしていた。

 ところが、当日、風邪もひいていないのに、長女は、突然、熱を出してしまったのだ。

 「おかあさん、わたしの代わりに、観てきて欲しいバンドがあるの。ギターが凄いバンドなんだ。」

 長女は、そう、言った。そして、

 「出演時間が遅くて、帰りが遅くなってもいいから、必ず観てきて欲しいの。」

 と、念を押した。

 わたしは、チケットを無駄にしないために、長女の代わりに、渋谷まで、ライブを観に行くことになったのだった。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 長女が予想したように、そのバンドは、長いイベントの、一番最後に、出演した。

 たしかに、長女が言っていたように、ギターが、とても個性的で、凝った良い音を鳴らしていた。

 ーーすごい音だったよ。って伝えなきゃ。

と、思ったことを憶えている。

 でも、わたしは、なぜか、ボーカルの「声」が、気になって仕方がなかったのだ。

 何を受け取ったのか、解らなかったのだけれど、確実に、「声」から、「何か」を受け取ってしまっていて、こころが、「ざわざわ」していた。

 「ここは、広いですね。僕たちは、普段は、下北沢の小さなライブハウスで演っています。良かったら、下北沢に来て下さい。」

と、ボーカルの「彼」に、壇上から、言われたときに、

「なぜ、下北沢なの? 困ったな。」

と、わたしは、思った。

 なぜなら、「下北沢」は、とっくに止めた「演劇」を思い出す街だから、わたしのなかでは、「行ってはいけない街」に、なっていたからだ。

 ーーもう一度聴いてみたい気がするけれど、

 ーー下北沢だなんて。。

と、わたしは、思ったのだ。

 「下北沢に来て下さい。」

と、いうボーカルの「彼」の「言葉かけ」は、大きなライブハウスの壇上から、不特定多数の観衆に向けて、何気なく投じられたものにすぎなかったのだけれど、それでも、その言葉は、わたしにとって、「人生」を「生き直す」ための、「キーワード」として、作用し始めることになる。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 渋谷の大きなライブハウスで聴いたボーカルの「声」に、「こころがざわついた」わたしは、それが、「どうしてなのか」、とても、知りたくなった。。

 だから、まるで「魔法にかけられた」かのように、「下北沢」に行ってしまったのだ、と、わたしは、ずうっと思っていた。

 ライブで聴く「彼」の「うたごえ」は、なぜか、わたしのこころのなかまで、容赦なく入り込んで来て、「何かを探ろうと」し、 最終的には、「演劇が好きで、表現したくてたまらない十九才のわたし」を見つけ出したのだ、と、わたしは、ずうっと思っていた。

 でも、実は、それは、「違っていたこと」に、わたしは、ごく最近、気がついた。。

 違っているばかりか、むしろ、真逆だったのだ。。

 ほんとうは、あの夜、渋谷のライブハウスで、「演劇が好きで、表現したくてたまらない十九才のわたし」は、ボーカルの「彼」の「うたごえ」を聴いた瞬間、即座に、「探されるまでもなく」、わたしのこころのなかで、「覚醒」したのだ。

 あの頃の「彼」が、持っていた「表現衝動」と、「十九才のわたし」と共に封印されていた「表現衝動」の、「在り様」が、よく似通った形をしていたために、偶然の「邂逅」によって、「呼応」してしまったのかも、しれなかった。

 「彼女」は、その昔、「現実のわたし」が、こころのなかの「パンドラの匣」の奥底に「封印」して、厳重に「鍵」をかけた「存在」だった。

 「下北沢に来て下さい。」

と、「彼」が言ったとき、「下北沢」という「言葉」に、「彼女」は、おそらく、過剰に、反応したはずだ。

 「下北沢」という「言葉」が、「鍵」となって、わたしのこころのなかの「パンドラの匣」のフタは、あの夜のうちに、おそらくは、「開いてしまった」のだ。。

 そうして、「彼女」は、あの夜のうちに、きっと、

 ーーわたしは「下北沢」に行く。

と、決心したのだと、思う。

 何故なら、「彼女」は、ずうっと、ずうっと、「誰か」が、「自分を見つけてくれること」を、「待っていた」からだ。

 あの夜、「彼女」は「覚醒」すると同時に、「彼」に、「自分」を「見つけて欲しい」と、願ったのではないだろうか。。

 だから、わたしのこころのなかの、「十九才のわたし」のほうから、「彼」の「声」に向かって、「見つけて欲しい」と「呼んでいた」というほうが、圧倒的に、正しい。

 そうして、「覚醒」した「十九才のわたし」は、「現実のわたし」を、もう、すでに、あの夜から、突き動かして、いたのだ。

 そんなことに、「現実のわたし」は、何も気づかぬまま、ざわざわとした、不可思議な気持ちを抱えつつ、「下北沢」に、降り立つことになった。。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 ボーカルの「彼」が表現するエモーショナルな「うたごえ」は、「現実のわたし」の「過去」を刺激して止まなかった。

 「彼」自身が、「失ったもの」について「歌って」いたので、わたしも、わたし自身の「失ったもの」について、考えざるを得なくなっていったからだった。

 そして、それは、「十九才のわたし」が、切実に、「願っていること」、でも、あったのだ。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

 フタが開いてしまった「パンドラの匣」からは、「過去」のわたしの、「ネガティブな考えかた」や、「辛かった思い出」などが、たくさんたくさん吹き出して来ていた。

 わたしの「パンドラの匣」のなかには、「失ったもの」や、「思い出したくないもの」や、「ほんとうは大切だったもの」などが、ごちゃ混ぜのまま、「封印」されていたからだ。

 だから、わたしは、ハマったバンドの「好きな音楽」を聴いているはずなのに、こころが、苦しくなっていって、悲しくなることが多くなっていった。

 「好きな音」や「好きな声」を聴きに行っているはずなのに、なぜか、時折、「絶望」さえも、もたげてくることに、わたしは、気づきはじめていた。

 それでも、「彼」の「声」が、こころのなかで、「何かを探ってくる」と思っているわたしは、彼らのライブに通い続けることを、止められないのだった。

 わたしのこころのなかは、まるで、「嵐」が渦巻いているようだった。。

 ほんとうは、つらくてつらくて、たまらなかったのだ。。

 そんななか、わたしの「パンドラの匣」の奥底に居る「十九才のわたし」は、上にある、邪魔なものたちが、早く外に出て行って、自分が、「見つけてもらえること」だけを、ひたすらに、待ち望んでいた。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「現実のわたし」が、「こころのなかの十九才のわたし」の「存在」に気づいたのは、「彼ら」を追いかけ始めてから、一年以上も経ってからだった。

 そのころ、ようやく、苦しく、ネガティブな古い「記憶たち」が、出尽くして、「捨ててはいけなかったものたち」が、「現実のわたし」にも、見えて来ていた。

 そうして、ついに、「十九才のわたし」が、一番奥底に封印されているのが、「現実のわたし」にも、見えて来たのだ。

 「彼女」は、やっと見つけてもらえたのだけれど、あまりにも閉じ込められ続けていたために、すっかり、「ひねくれて」いた。

 さらに、「彼女」は、タナトス=(死への衝動)をも、引き連れていたのだ。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「現実のわたし」は、「十九才のわたし」に、「殺されるのではないか」と、おびえていた。

 「彼女」の「タナトス」が、「現実のわたし」に、襲いかかろうと、手ぐすねを引いているかのように、感じたからだ。

 でも、実際は、そうではなかった。

 「十九才のわたし」は、ただ、「彼」に、「見つけて欲しがっていた」だけなのだ。

「現実のわたし」は、「パンドラの匣」から出て来てしまった、たくさんの、「過去」の「ネガティブな考えかた」や「辛かった思い出」にまみれ、さらには、「十九才だった自分」が、「失ってしまった時間」さえも、まのあたりにして、「絶望」のなかに、生きていた。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「十九才のわたし」が、抱えていた「タナトス」=「死への衝動」。。

 ほんとうは、「下北沢」に象徴される「演劇」の世界で、「自由三昧に、演じてみたかった十九才のわたし」は、「現実のわたし」の、こころの奥底に、閉じ込められた結果、強烈な「タナトス」を手にしてしまっていた。

 それは、長い間、こころの奥底に、閉じ込められていた「彼女」が、ありあまる「生への衝動」をもて余した末に捻出した、裏返しの「衝動」だったのだ。

 強烈な「生への衝動」は、強烈な、「死への衝動」と、実は、「裏表」で「存在」している。。

 強烈に「死にたいこと」は、強烈に「生きたかった」こころが、苦肉の策で、変換する「在りかた」なのである。

 でも、「彼女」は、救われた。

 「彼女」は、「タナトス」を「生への衝動」に置き換える「術」を、すでに、手にしていたから。。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 それは、、、

 「恋」である。

 「十九才のわたし」は、渋谷の大きなライブハウスで「彼」の「声」を聴いた瞬間に、すでに「恋」に落ちていたのだ。。

 「彼女の時間」は、「失われて」しまっていて、もう、すでに「存在してはいない」のだけれど、「彼女のおもい」は、あの頃の「下北沢」に、「現実のわたし」の姿を借りて、「存在」することが、出来ていた。

 「彼女」は、もしも、封印されることなく、「自由三昧」に、「下北沢」で「演じる時間」を持てていたとしたら、経験したであろう、バンドマンへの「片想い」を、勝手にやってのけることで、確実に、あの頃の「下北沢」に、「存在」しようと、していた。

 そうやって、「彼女」は、「時間」を超えて、あの頃の「下北沢」で、確実に、「生きて」いたのだ。

 「生きること」が出来た「十九才のわたし」は、「こころの充足」を得て、「ひねくれ」は解消され、やがて、「優しさ」を取り戻していった。。

  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 一方、「現実のわたし」は、「十九才のわたし」から「タナトス」を受け取り、「彼女」の「失われた時間」をまのあたりにして、「後悔」と「絶望」に、打ちのめされていた。

 「現実のわたし」は、自分が果たして「何才なのか」も、わからなくなってしまっていた。「時」のなかで、すっかり、「迷子」になっていたのだ。

 だから、もう、まもなく、「生きる術」を、失いつつあった。。

 「現実のわたし」は、「音楽」を聴くことだけで、ようやく、日々の「いのち」を繋いでいたのだ。

 大好きな「声」の「彼」は、さまざまに、「生きるための曲」を、聞かせてくれていたけれど、夜毎に、「死への衝動」は、「現実のわたし」を襲って来るのだった。

 けれども、それも、やがて、解決へと向かう。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 それは、、、。

 「和解」である。

 「恋を生きた」ことで、「優しさ」を取り戻した「十九才のわたし」は、すでに、「現実のわたし」を、赦していた。

 たくさんの「音楽」を夜毎に浴びて、「表現」にまみれた「生活」を送るうちに、「現実のわたし」もまた、変化して来ていた。

 「二つの存在」の距離は、お互いの変化によって、少しずつ、縮まっていたのだ。

 「現実のわたし」は、かつて、「要らないもの」として、こころの奥底に閉じ込めた「演劇が好きで、表現したくてたまらない十九才のわたし」に、「謝罪」したい気持ちになっていた。

 「要らないもの」として「葬ってしまった表現衝動」が、ほんとうは、自分にとって、かけがえの無いほどに「大切なもの」であったことに、気がついたからだ。

 ーーわたしは、なんて、傲慢だったのだろう。。

 「現実のわたし」は、こころのなかで、「十九才のわたし」に、「謝罪」を、した。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 赦し合うことが出来た「十九才のわたし」と「現実のわたし」は、やがて、自然に、一体化して行った。。

 わたしは、ようやく、「自分」の「全体性」を取り戻したのだ。

そうして、気がついた時には、「表現衝動」を「大切なもの」として受け入れ、こころから「表現」を愛する「新しいわたし」が、生まれていた。

 「わたし」は、「生き直す」ことが、出来たのだった。

 「人生」をあきらめていた「わたし」は、いつの間にか、どこかに「消えてしまって」いた。。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 二〇〇六年 七月

 わたしは四十九才になっていた。

 ーーあのとき、死ななくて、ほんとうに良かった。  

 「あのとき」とは、二〇〇四年の秋頃から、二〇〇五年の春頃までの苦しかった季節のことを、指している。

 そう、思いながら、わたしは、娘たちのユニットのライブを観ていた。

 娘たちは、下北沢の路上で歌っていたのだけれど、ライブハウスの店長さんに推薦して頂いて、「北沢音楽祭」に、出演させてもらっているところなのだ。

 始めて、路上ではなく、ホールで、二人は、歌っていた。

    ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 「死」を選んでしまいそうな時は、実は、「日常」をリセットしてしまいたいと思ってしまっている。

 だから、「日常を形作っている人々」、つまり、「家族」とか、「友達」などは、「リセットしたい日常」の「内側」に「存在」してしまっているので、あまり、引き留める力にはなれないように、あのとき、わたしは、感じた。

 自分が「死」を選んでしまったら、「家族」や「友達」は、悲しむだろうな、ということは、解っているのだ。

 でも、なんだか、「決断しそうなとき」は、「次元」が違ってしまっている。。

 「日常」のなかに、もはや、存在していない「自分」が、「日常」を「終わらせたい」と、願ってしまっている、という、「感覚」が、わたしには、あった。

 わたしが、「決断」しなかったのは、最終的には、大好きな「声」の「彼のうた」を、まだ、もう少し、「聴いていたい」という、「望み」が、「消えなかったこと」だった。

 「それだけのこと」が、「わたし」の「いのち」を、繋いだのだ。

 「生きるか」「死ぬか」ということは、重大なことなのに、そのくらいの、簡単なことで、左右されてしまうものだったり、する。

 「決断しそうなとき」に、こちら側に戻って来るためには、簡単な、「好きなもの」を、思い浮かべてみることが、意外と、役に立ったりするのかもしれない。

   ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※

 わたしの四十代は、改めて見返してみても、

「苦しかったなぁ。」

と、やっぱり、思う。

 娘たちの「引きこもり」にはじまり、わたし自身の「生き直し」のための、さまざまな出来事が、あった。

 ほんとうに、死んでしまいそうな「苦しい夜」が、たくさん、あった。

 「生きること」は、「愛すること」なのだ、ということを、学んだ季節でもあった。

 「タナトス」と「エロス」。。

 おそらくは、その二つのせめぎ合いが、「人生の醍醐味」を形造っているのだ、ということを、学んだ季節でも、あったのだ。

 「パンドラの匣」の奥底に貼りついていた「十九才のわたし」は、最初に現れたときは、「タナトス」に覆われていて、「彼女」がわたしにもたらしたものは、「死への誘惑」だった。

 けれども、「彼女」が、「恋」をして、「タナトス」を「エロス」に変換してくれたことで、「その存在」は、光り輝く「希望」へと、変身した。

 「パンドラの匣」の、底に、最後に現れた「希望」、、、。

 それは、わたしにとっては、「表現衝動」だったということに、なる。

 「演劇が好きで、表現したくてたまらない十九才のわたし」は、今だに、あのころの、「声」が好きな「彼」に、「恋」をしている。

 そして、それは、そのまま、今のわたしの、「表現衝動」へと、繋がっているのだ。

 「パンドラの匣」を、「最後」まで開け続けることが出来た秘策、、、。

 それも、やっぱり、

「恋」だった、のかも、しれない。。


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