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「生きてればいつか」はいつですか?

生きるのが楽しい人は
世界にどれくらいいるだろう?

もちろん、多くいると思う。

今ある幸せを噛みしめながら、咲いたそれに如雨露(じょうろ)でさらなる愛情を注いで日々を過ごしていたり。自分なりの楽しみを見つけていたり。夢を追いかけていたり。叶えて絶頂を迎えていたり。あるいは、特にそういった事もないけど「不幸せじゃないからOKだ」と思っていたり。

一方で、楽しくない人も多くいると思う。もっと言えば、

死にたい人

も。この手の話題になると「なら消えればいい」と伝家の宝刀のように斬られたりもするけど、総じて的外れだと私は思っている。なぜなら、消える事が簡単ではないからだ。

一瞬でぱっと微粒子にでもなって消えられるならとっくにそうするけど、実際は

痛みや怖さ

を伴ったりして決して楽には死ねないシステム。だから「消えればいい」は真理でもなんでもなく、ただただ寄り添いのないトドメの一撃にしか

私には

聞こえないし、とても傷つくし、悲しくなってしまう。

ああそうだちなみに。

いま私にはを強調したのは「なあ?そうだろみんな!」と呼びかけているわけでも、これが正解だと思わせたいわけでもないからだ。

本文中、しつこいように

・個人的には
・私は
・あくまでも私は
・違う人もいるだろうけど

のように回りくどく言ってしまうかもしれないけど、これが

エトナシサラという人物
特有の文章スタイル

なので、事前に理解していてくれると非常に嬉しい。詳しくは

なぜ私がここまで異常に
丁寧な言葉選びをしているか?
そしてそれはどういう選び方なのか?

について語った別の記事があるから、先に読んでくれるとなお嬉しい。

あらためて言うが、これは私の場所の私の価値観であって、誰かと議論するつもりは一切ない。丁々発止とやりたいわけじゃないし、ここを人生の修行の場とも考えていない。

自分の思いを「ただ吐き出したい」それだけ。ゆえに、本当に申し訳ないけどアドバイスなども要らない。

そこを理解し尊重してくれた人だけ続きを読んでみてほしい――と、やはり相変わらず回りくどいな。すみません。

いつかまで生きる気力がある前提

消えたいほどしんどい時は、たしかにあって。

前から言っているけど

「逃げればいい」が通じない環境
「離れればいい」が不可能な人間関係
「辞めればいい」ができない状況

といった人もいる。

全部が自分のせいとは限らない。本当に人のせいの場合もある。誰かや何かで人生を崩されるケースは、山ほどある。選べない世界が、現実にある。

これまで「それができりゃ苦労せんのよ」と、何億回思っただろう。その気持ちを換金できるなら、恐らく既にビリオネアだ。

そのような死ぬほど苦しい最中に、私が経験した個人的な一例だけど。八方塞がりの毎日だと知られた途端に、いろいろな人が口を揃えて

「生きてればいい事あるって」
「生きてればいつか笑えるよ」

と言ってきた。

その時、心の中の全私(ぜんわたし)が

『は?』

と言って、ブチ切れそうになった血管の盛り上がる音が聞こえたとか聞こえなかったとか。

あらかじめ言っておくけど、それで救われる人もいるかもしれないし、悪気があって口にしているのではないかもしれないから、そこを否定もしない。ただシンプルに

誰にでも言っていい言葉じゃない

というだけ。

私は余計死にたくなった。

なぜなら、なんの根拠もないから。

「希望を持って」との意味かもしれないけど、持てないほど苦しい真っ只中に、具体的な解決策も日付も提示しないで、でも人生そういうものだと悟った風に言われても、ぴくりとも心が動かない。違う人もいるかもしれないけど、私はそうだ。

それどころか、

見捨てられた感

すら覚えてしまう。自分から近づいてきて「希望はあるよ」と言いながら、その実体は根拠のない言葉だけだし。そもそも、

「いつか」っていつ?

という話だ。勝手に

そこまで生きる気力がある前提

で話をされても、何も見えてこないのだ。気力がないから生きたくないのに。気力があるならとっくに自分で奮起している。とっくに現実を変えている。

他の場面でもそうだけど、なぜ

それをする気力がある前提

で話をする人が多いんだろう?「しばらく我慢すれば」とか「いつか幸せになる」とか。なぜか

やたら断言した言い方

が多くて、それも私の心が受け付けない理由のひとつだ。

果たして、気力があるとどこで決めているんだろう。疑問に思わない人もいるかもしれないけど、私はいつも不思議だし、いつも不愉快になる。

まあそれは別の話として。

「頑張れ」を言い換えただけ

先ほど、見捨てられた感を覚えると書いたけど、そう思う理由は他にもあって。

「生きてれば」と口を揃えて言ってきた人は、言葉をくれるだけで実際には何をしてくれるわけでもなかった。

つまるところ「生きてればいつか」とは

私は助けられないから
自分でなんとかするんだよ

とも捉えられるし、それは

「頑張れ」を言い換えただけ

に他ならない。

そういうつもりじゃないかもしれないし、聞こえ方が違う人もいるかもしれないけど、私にはそうとしか感じられなかった。だから、見捨てられたように思ったのだ。

無責任だな

と思ったのだ。

余裕がない時に相手の真意を思いやる――なんてウルトラCは、なかなかできない。だから、悪意があるかないかじゃなく、自分にとって不快か不快でないかでしか判断できなかったりすると思う。

その基準で私は不快だった。

自分だけで頑張ってどうにかなるものじゃないから苦しいのだし。どう考えても解決しそうにないから消えたいのだし。その切羽詰まった状態で「助けないけど生きててね」だけを置かれても、希望の香りなどしない。

これは、私の心についている鼻がひねくれているから、香らないだけだろうか?他の人は、不快に思わないでいるのだろうか?

尋ねて回った記憶がなくて分からないが、同じように不快に思ったと相談を受けた事なら何度もある。

もちろん、その方々と私が完全に同じ状態や価値観とは限らないから、ここでは私という人間の気持ちしか語れないけど。その上で吐き出すなら

「『いつ』を提示できないなら
根拠のない言葉は正直ほしくない」

これに尽きる。

私は全然賢いほうではないけど、相手が善意であろうと分かる。でも「よく使われる言葉だし善意だから受け取れ」は違う。よく使われる善意の言葉だろうと偉人の名言だろうとなんだろうと、最初のほうに触れたけど誰にでも言っていいものじゃない。

そう私は思う。

まとめ

吐き出したいだけだったから、まとめもへったくれもないけど。「じゃあ私はどう接してもらいたいのか?」と問われたら、基本的には難しい事は何も求めていない。

「うんうん」と。
「そうなんだね」と。

抱える辛さを認めてくれて、否定しないでくれて、持論の解決策が記された巻物を変に広げないでくれて、強い弱いでさらっと斬り捨てないでくれて、渋面を作らないでくれて、笑わないでくれたら、それが個人的には一番穏やかでいられる。

実際には、具体的な助けが必要な時もあるかもしれない。だから、その時は「具体的に必要だ」と声をあげると思う。人徳も人脈も人気もないから、助けてもらえるかは別として。

ただ、基本的にはそう。相手がプロフェッショナルじゃない場合、具体的な助けを期待しているわけでもないし。目から鱗の言葉を求めているわけでもない。

否定して生きる方向に
ぐいぐい引っ張ろうとしないでほしい

それだけ。しつこく言うが、あくまで私の場合は。

ただ一点、これだけは特筆させてほしい。

私は、消えたい気持ちに同意してほしいとは思わない。「同意してしまった……」と、あとあと重荷を背負わせたいわけじゃないから。だから、消えたい気持ちに否定もしないが肯定もしないでいてくれたらいい。

「そう思うほどに辛いんだね」

と、辛い事実にピントを合わせて認めて寄り添ってもらえるだけで十分。ただでさえ沈んだ気持ちを逆撫でしないで、そっと撫でてくれるだけで――。

全てが私個人の意見だと理解して、尊重して、最後まで読んでくれてありがとう。その優しさに応えられるような、そんな自分になりたいな。


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エトナシ サラ
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