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【翻訳】中野剛志・博士論文第4章「我らの科学を人間的に」(2/3)

第4章第1節はこちら。

以下、訳文について。

  • 原注は【】によって文中に示し、当該パラグラフの下部にその内容を載せた。

  • []は訳注、あるいは訳者による補足、しばしば原文。

  • イタリック体は基本的に太字で表したが、頻繁に出現して文面が見苦しくなる場合などは避けた。

  • 全ての文字が大文字で強調された一部の単語も太字で表した。


第4章 我らの科学を人間的に

2. 解釈的社会科学

ヒュームは最初の『研究』[人間知性研究]の1行目において、社会科学の2つの方法について議論するつもりだと述べている。

道徳哲学、すなわち人間本性の科学は、2つの異なる方法で取り扱うことができる。それぞれ特有の利点があり、人類の娯楽・教育・感化に寄与する。(EHU 5)

第一の方法は、「一般の生活の中から最も際立った観察や事例を選び出す」ことを目的としている(EHU 5)。このアプローチは「人間が主として行動するために生まれたと考える」(EHU 5)ものであり、「行動」とはシンボリック相互作用を意味する[前節では、ヒュームの道徳論がシンボリック相互作用論に基づいていることを明らかにした]。このアプローチの主な作業は、一般の生活における[行動の]形態を観察し、解釈することである。「そうすることで一般の生活により深く入り込む」(EHU 5)。

第二の方法は、社会的な現象における抽象的かつ一般的な原理を発見することを目的としている。

他の種類の哲学者たちは、人間を活動的な存在というよりはむしろ理性的な存在という視点で捉え、その品性を洗練することよりも知性を形成することを重視する。彼らは人間の本性を思弁の対象とみなしており、細かい点検によってそれを吟味する。その目的は我々の知性を規定し、我々の感情を引き起こし、特定の対象や行為や行動を是認したり非難したりする原理を突き止めるためである。[ここでは、他者とのかかわりでつくられる人間の社会的・倫理的な側面(manners)と人間の知的な側面(understanding)とが対比されている](EHU 6)

このアプローチは一般化された説明を提供するために抽象的な定式化を目指している。「彼らは特定の事例から一般的な原理に進むが、より一般的な原理に向けてなお探究を推し進め、あらゆる科学において、全ての好奇心が尽きるに違いない根源的な原理に到達するまで満足することはない」(EHU 6)。これら二つのアプローチを比較することで、ヒュームはそれらの総合として新しい方法を構築しようと試みている。「最も理想的な特徴は、両極の間に存在するだろう」(EHU 8)【4】

【4】後者のアプローチは今日「形式主義」と呼ばれ、例えば合理的選択理論や公共選択論に代表される。形式主義者は、どのような時代や地域でも社会現象を理解できるようにするためには、目標志向の合理性を最大化する[maximising goal-oriented rationality]単純で一般的なモデルが必要だと考える。これに対して、反形式主義者は社会現象を理解するためには文化固有の規範[norms]に関する情報が必要だと主張する。形式主義と反形式主義の論争は、例えばオーストリアの限界効用学派とドイツの歴史学派の間で長い歴史があり(Riha 1985; Hodgson 2001: Part II)[いわゆる「方法論争」である]、現在でも社会科学の哲学において主要な争点の一つとなっている(例として、American Journal of Sociology (1998)のシンポジウムを参照)。近年、ダニエル・リトルはこの論争を再検討し、形式主義の擁護を試みた。彼は、合理的選択アプローチなしには一般化された説明は不可能だと考えている(Little 1991: chapter 7)。しかし、アルフレッド・シュッツが指摘するように、社会科学の目的である「モデルの構築の合理性」は「合理的行動のモデルの構築」とは異なる。例えば、心理学は非合理的な行動の合理的かつ一般的な理論を構築することができる(Schutz 1962a: 44)。形式主義者としてのリトルは、この二つを混同する傾向がみられる。

概して言えば、明らかにヒュームは後者よりも前者を好む。なぜなら後者は彼が「抽象哲学」と呼ぶものであり、これは常識[common sense]から切り離された空想的な推測の危険を伴うからである。「この深遠かつ抽象的な哲学における曖昧さは苦痛と疲労をもたらすばかりか、不確かさと誤りの必然的な源泉であると異議申し立てを受ける」(EHU 11)。ヒュームが最も懸念しているのは、推測が熱狂や迷信に堕落することである[半澤孝麿によれば、熱狂(enthusiasm)は17世紀の宗教内乱を思い出させるものとして、ヒュームやバークの生きた18世紀には「最も嫌われた言葉」であった]。彼は抽象的な一般化を追求する「形式主義的」アプローチよりもむしろ、今日において実践の「厚い記述」['thick descriptions']と呼ばれるものが人間の本性を理解するのに欠かせないと考えていた[例えば、小指を立てて見せる行動のみを説明した「薄い記述」では、それがどのような状況で何を意味するのかが別の文化圏には理解できない。文化人類学などの領域では、人間行動の社会的な文脈を含めた「厚い記述」が求められる]。

とはいえ、ヒュームは社会科学が特定の現象の単なる記述であるとも考えず、哲学と社会科学の使命は自然科学のように一般化であると信じていた。

しかし、いかに複雑に見えようと、一般原理が正当で適切なものであれば、特定の場合には失敗しようとも、事物の一般的な趨勢においては常に優勢でなければならない。このことは確かである。そして、事物の一般的な趨勢を考察することは哲学者の最大の仕事である。[and it is the chief business of philosophers to regard the general courses of things.](EHU 94)

同じ意味で、ヒュームは『商業について』の冒頭で、自分に一般化を行う傾向があることを表明している。彼は浅薄な考えと深遠な思想、あるいは特定の熟慮と一般的な推論を峻別している。一般人[A common man]は特定の事柄について浅薄な考えを扱い、一方で、哲学者や科学者は一般的なテーマについて難解な推論を扱う(OC 94)が、経済学の著作において彼は後者の立場に立っている。重要なのは、彼が経済学の著作の中で深遠な思想と呼んでいるものが、一般の生活[common life]における哲学と思弁的な哲学とに分けられるところで、彼は前者を採用しているということである。しかし、科学的な説明には一般化やある種の抽象化が必要であり、それには文化的・歴史的差異を超えた共通の人間本性[a common human nature]を前提とする必要がある。

ヒュームは、人間には普遍的な性質があり、哲学や社会科学の目的は人間性の一般原理を発見することだと考えている。しばしば――しかし誤って――ヒュームの形式主義を裏付けるものとして引用される一節で、彼はこう述べている。

あらゆる国や時代において、人間の行動には高い均一性があり、人間の本性はその原理と営みにおいて今なお変わらない。このことは誰もが認めるところである。(EHU 83)

社会科学の目標は一般化であり、その目標を達成することは人間本性の均一性[uniformity]を仮定することなしには不可能であると、ヒュームは考える。

しかし、もし人間の行動に均一性がなく、さらに、もしこの種の経験[experiment]がすべて不規則で異例のものであったとしたら、人類に関する一般的な見解を得ることは不可能であっただろう。(EHU 85)

ヒュームがこの仮定を受け入れたことで、多くの人が次のような解釈をすることになった。すなわち、ヒュームは強欲や自己愛を均一な人間本性とみなしており、主流派経済学と同様にあらゆる社会現象をこれ[均一な人間本性]に還元しているというものだ。しかしながら、ヒュームは利己的な道具的合理性を人間の本性に共通する特徴とは考えていない。その代わりに、彼が普遍的なものとして想定しているのは動機と自発的行動との関係である。この関係の普遍性こそが、社会科学において因果関係を説明するための根本的な前提なのである。

このように、動機と自発的な行為との間の連接[conjunction]は、自然のどの部分においても原因と結果との間の連接と同様に規則的で均一であるだけでなく、この[動機と自発的な行為との間の]規則的な連接もまた人類の間で普遍的に認められており、哲学においても日常生活においても論争の対象になったことはない。(EHU 88)

したがって、必然性の教義と、動機から自発的な行動へ、また、性格から行動へのこの推論を認めずして、科学やあらゆる種類の行動に取り組むことはほとんど不可能であるように思われる。(EHU 90)

確かに人間の行動は文化や時代によって多様である。しかし、動機と行動の結びつきは、すべての人間の行動において普遍的である。行動は動機によって引き起こされて習慣や象徴の影響を受けるが、[習慣や象徴]それ自体は文化によって異なるのである(EPM202)。したがって、動機と行動の間に普遍的な因果関係があるという仮定は文化の多様性と両立する(Haakonssen 1981: 32)。しかし、「動機から自発的行動への推論」はどのようにして可能になるのだろうか。ヒュームの答えは解釈[interpretation]である【5】。

【5】ヒュームの解釈的アプローチについては、Capaldi (1978)とFarr (1978)を参照。

それゆえ、長い人生と様々な仕事や付き合い[company]で身につけた経験は、我々に人間本性の原理を教え、我々の未来の行動と推測を規定するのに役立つ。この手引きによって、我々は人の行動、表情、身振りから気持ちや動機を知ることができ、また気持ちや動機を知ることで人の行動を解釈することになる。経験の積み重ねによって蓄えられた一般的な見解は人間の本性を知る手がかりとなり、その複雑さをすべて解きほぐす方法を教えてくれる。[強調著者](EHU 84-5)

ヒュームは主張する。哲学者や社会科学者の[思弁ではなく]経験が人間行動の解釈を可能にする。そのため、社会科学者は[人間行動を]解釈するために一般の生活[common life]の経験が求められる。実践的な知恵と知識は一般人が日々の生活を営むためだけではなく、哲学者や社会科学者が人間本性の一般原理を探究するためにも必要なのである。この意味で、哲学者や社会科学者の仕事は職人や農民の仕事に似通っている(EHU 85)。

前節で見たように、ヒュームは社会的に共有された相互的な行動期待のパターンとしての慣習が、社会的な交流を通じて人間の心の中に「観察者」の客観的な視点をつくり出すと主張している(EPM 224, 254)。観察者の視点は他者の行動を予測可能にし、社会科学者が人間の行動の意味を解釈するために必要である。

人間の相互依存はあらゆる社会において非常に大きいので、人間の行動がそれ自体で完結していることはほとんどなく、また、行為者の意図に十分に応えるのに必要不可欠な他者の行為への参照なしに人間が行動することもほとんどない...…これらすべての帰結において、人間は過去の経験をもとに対応するが、それは外的な対象に関する推論と同じ方法をとる(EHU 89)。

科学的な観察と解釈についてもアルフレッド・シュッツが同様の議論を展開している。シュッツは社会的世界の現象学的分析において、社会的世界の中で行為者[actor]でもパートナーでもない観察者という特殊なケースに光を当てている。行為者やパートナーとは異なり、観察者の動機は「相互に連関した目的動機と理由動機[in-order-to and because motives]」の構築には関与しない。しかし、一般の生活における「公平な」['disinterested']観察者は、観察された行動の典型的で制度化されたパターンを参照することによって、行為者の行為の主観的な意味を把握できる。このような社会的世界における公平な観察者の態度は社会科学者のそれと似ており、社会科学者は社会的世界における実際の相互作用から自らを切り離し、行為者の動機・目的・態度・性格の典型的なパターンや理想型を構築することによって、行為の主観的な意味を把握することができる。このように行為の主観的意味を科学的に把握する「意味の主観的解釈」は、行為者が他者を理解する方法と似ている。[実際に]一般の生活において社会的相互作用が制度化されていればいるほど、行為者は最も容易に目的を達成することができる。同じ意味で、「これらの連動した行動パターンが標準化・制度化されればされるほど、つまり、法律・フォークウェイズ・モーレス・習慣によってその典型性が社会的に承認されればされるほど、人間行動を解釈するスキームとして常識や科学的思考における[行動パターンの]有用性は高まる」(Schutz 1962b: 62)。相互作用を理解するこの方法は、Verstehen(解釈)と呼ばれる。

ヒュームのアプローチも同様に解釈的[interpretive]であり、シュッツとよく似た社会的世界の理解に基づいている。しかし、ヒュームは一般化を追求するあまり、完全には社会科学の専門的な言語を素人の自然な言語に変換していない。これまで見てきたように、ヒュームは浅薄な考えと深遠な思想、あるいは特定の熟慮と一般的な推論を峻別している。確かに社会科学者は社会的世界を解釈し、一般の生活において公平な観察者の視点から分析的な概念を構築しているが、それでもなおその概念は一般人の考えより専門的かつ抽象的である。「恐らく、そこでは何らかの原理が立ち現れるだろうが、それらは常識離れしており、こうした平凡な題材にはあまりにも微妙で洗練されすぎているように見えるだろう。もしそれが誤りであれば否定されるべきだ。しかし、一般の道筋から外れているからといって、何人もそれに対して偏見を抱くべきではない」(OC 94)。ヒュームは一般化のためにあらかじめ解釈された世界の再解釈、アンソニー・ギデンズの言葉を借りれば「二重の解釈学」['double hermeneutic']を提案している(Giddens 1976: 152)。社会科学者は理論化のために一般の生活を再解釈するが、この一般の生活の中に自らを留めておかなければならないのだ。[二重の解釈学とは、行為者同士で行う主観的な意味づけと社会学者の行う意味づけとの間に相互作用を想定する社会学のアプローチである。社会学の研究は、行為者による先行した解釈がなされている世界を研究対象としてそれを再解釈する営みを含むが、例えば結婚観の変化や地域別の大学進学率の格差をテーマにした研究者の営み(解釈)もまた、行為者と行為者同士の間主観的な解釈に影響を及ぼしてしまう。このように、自然科学とは違って、社会学においては研究者が研究対象から完全に独立する(干渉しない)ことは不可能であり、ギデンズはこうした研究者と研究対象の間で相互に影響する仕組みを社会学の根本的性格として理解しなければならないとした]

哲学に傾倒する人はそれでも研究を続けるだろう。なぜなら、そのような活動に付随する直接的な楽しみに加えて、哲学的な判断が方法化・修正された一般の生活の反省[the reflections of common life]だと考えるからである。しかし、自分が用いている能力の不完全さ、理解の及ぶ範囲の狭さ、作業の不正確さを考慮する限り、彼らは決して一般の生活の領域を超えようという誘いに乗ることはないだろう。(EHU 162)

一般の生活は、解釈のための認識論的条件だけでなく、社会科学者にふさわしい心理的態度も提供する。純粋に思弁的な思考は活動的な動物としての人間の本性に反し、「迷信の真の源泉」(SE 46)である憂鬱を引き起こし、この思考を歪めてしまう。

彼女は言う。科学に情熱を燃やせ。ただし、その科学は人間的で、行動や社会に直結するようなものでなければならない。晦渋な思想や深遠な研究は、私が禁止し、また厳しく罰することとする。それらは思案に明け暮れる憂鬱をもたらし、尽きることのない疑念に没入させ、そしてその見せかけの発見が伝えられた際にも冷淡に受け止められるからだ。哲学者であれ。ただし、その哲学の中にあってもなお一人の人間であれ。[Indulge your passion for science, says she, but let your science be human, and such as may have a direct reference to action and society. Abstruse thought and profound researches I prohibit, and will severely punish, by the pensive melancholy which they introduce, by the endless uncertainty in which they involve you, and by the cold reception which your pretended discoveries shall meet with, when communicated. Be a philosopher; but, amidst all your philosophy, be still a man.](EHU 9)

ヒュームは人間科学が人間的であるべきだと推奨し、人間を社会的な動物であると同時に活動的な動物であると捉えている(EHU 8-9)。熟慮するためには、人は活動的でなければならない。哲学者や社会科学者は、一般の生活の中に組み込まれていなければならない。これが人間科学の実験的方法の要点である。「我らの科学を人間的なものとせよ」['let your science be human']。

[以上、第4章第2節の翻訳。第3節に続く]

引用文献

  • Capaldi, Nicholas. (1978) 'Hume as Social Scientist The Review of Metaphysics, 32: 99-123.

  • Farr, James. (1978) 'Hume, Hermeneutics, and History: a "Sympathetic" Account', History and Theory 17, 3: 285-310.

  • Giddens, Anthony. (1976) New Rules of Sociological Method: a Positive Critique of Interpretative Sociologies, London: Hutchinson.

  • Haakonssen, Knud. (1981) The Science of a legislator; The Natural Jurisprudence of David Hume and Adam Smith, Cambridge: Cambridge University Press.

  • Hodgson, Geoffrey M. (2001) How Economics Forgot History: The Problem of Historical Specificity in Social Science , London: Routledge.

  • Hume, David. [この博士論文におけるヒュームの引用文献は全て第3章の最初の原注【1】に載せたため省略]

  • Little, Daniel. (1991) Varieties of Social Explanation: an Introduction of the Philosophy of Social Science, Boulder: Westview Press.

  • Riha, Tomas. (1985) 'German Political Economy: the History of an Alternative Economics' , International Journal of Social Economics , 12, 3/4/5.

  • Schutz, Alfred. (1962a) 'Common-Sense and Scientific Interpretation of Human Action ', in his Studies in Social Theory: Collected Papers , Vol.1. The Hague: Martinus Nijhoff. Schutz, Alfred.

  • Schutz, Alfred. (1962b) 'Concept and Theory Formation in the Social Sciences ', in his Studies in Social Theory: Collected Papers , vol.1. The Hague: Martinus Nijhoff.

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