『かわいそうなぞう』と『ぞうれっしゃがやってきた』の間にあるもの
ちょうど10歳離れた飲み仲間の男の子が、小学生の時に学芸会で「ぞうれっしゃ」の劇をやった話をしてくれた。
「あれ、それって戦争のやつ?飼育員さんが毒入りの餌あげて、食べてくれなくて泣いたりするやつ?」「そうそう!」
悲しい話だったけど、すごく好きだったはず。懐かしくて、久しぶりに読み返したくなって、家に帰ってから調べてみた。
ん…?どうやら私が知ってたのって、ぞうれっしゃの話じゃないかも。あの頃に国語の教科書で読んでいたのは、『かわいそうなぞう』だった。
かつて、動物園は先進国の象徴だった
猛獣を扱ったり、他の国から取り寄せたり、飼育管理をすることは、当時の日本にとって経済的な豊かさをアピールするための社会的な役割を持っていたらしい。
つまり、大きかったり危険だったりする動物たちを、コントロールできるくらいの「余裕」を示すという意味がそこにあった。
それが、戦争によって一変してしまった。
人間たちが飢えていく中で、何倍も身体が大きくて食べる量が多いゾウたちへ充分な食糧を用意することはできなくなった。
そして、爆撃を受ける可能性が高まる中で、もし檻が壊れて動物たちが逃げ出してしまったら、人間たちに危害が及ぶかもしれない。
そんな勝手な理由から、猛獣と呼ばれる生き物たちはすべて殺処分される命令が下されていたのだ。
可愛がっていたゾウたちの命を自分の手で奪わなければならない。そんな飼育員の葛藤を描いた史実的な絵本が『かわいそうなぞう』である。
命運を分けたのも人の力
じゃあ、『ぞうれっしゃがやってきた』はどんなお話だったんだろうと調べてみた。
「ぜんぜん違うこと話してたんじゃん!」と思いきや、案外そうでもなかったことに驚く。
どちらも太平洋戦争中の物語で、ゾウと動物園が出てくる。たくさんの動物たちが殺処分されてしまう。ただし、「ぞうれっしゃ」のゾウは殺されない。
この会話で合っていたのだ。実際に多くの動物たちが亡くなっていくけど、こっちのゾウたちは生き延びた。繰り返される殺処分に心を痛めた当時の園長が、圧力に屈することをやめて最後まで守り抜いたということらしい。
自分の意思を持って選択すること
『かわいそうなぞう』は東京の上野動物園が、『ぞうれっしゃがやってきた』は名古屋の東山動物園がそれぞれのお話のモデルになっている。
これも調べてみてわかったことだけど、もう『かわいそうなぞう』は教科書には掲載されていないらしい。
私たちの世代では「戦争のせいでゾウたちが亡くなったのは可哀想だよね」という教育をされていたはず。だけど、もっと本質を捉えれば、戦争を起こしたのも人間で、殺処分を決めたのも人間で、ゾウは人間のせいで殺されたからだ。
だから、歳の離れた彼は『ぞうれっしゃ〜』の方を知っていたのだと思う。
大好きな『鋼の錬金術師』という漫画に出てきた、人生のお守り代わりにしている台詞を思い出した。(これも国とか軍とかが関わってくるお話)
もう大人だから、自分の一存ではどうにもならないことばかりなのは、わかりすぎるほどわかっている。
だけど、権力を持つならだれかを守るために使いたい。大人って、そのためになるんだと思う。