【公式】臨済宗大本山 円覚寺
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第1413回「坐ることが楽しくなる」
イス坐禅の会も、毎回楽しみになってきました。 開催する側の私も、次に何をしようかとワクワクしながら考え工夫します。 おそらくご参加の皆様も楽しみにして来てくれているのだろうと察します。 もう第十八回となります。 今回は、足踏み、つま先立ちから始めました。 これだけでも体が温まり、姿勢も調ってくるものです。 そのあとは、末端からで、指をゆるめることをしました。 これは、数日前に藤田一照さんから教わって、とても効果的だと感じましたので、そのままやってみました。 終わった後の感想にも、手をほぐすことだけで全身が温かかくなってきて不思議だと言ってくださっていました。 そうして最近思いついた体操を行いました。 これは腰のまわりをほぐすのが目的であります。 骨盤を両手で掴んで、左右に動かしたり、前後に動かしたり、そして回したりします。 簡単な動きです。 私の場合、どんな体操でも、誰でも簡単にできるということを大事にしています。 これで股関節周りがほぐれてゆくのですが、欲を出して、一緒に首も体操するようにしました。 腰の反対の方向に首を傾けるだけです。 これだけで首の体操にもなります。 それに、手を持ち上げたらどうだろうかと、思ってやっています。 手を持ち上げて、手と首を同じ方向に動かします。 腰と反対の方向に、首と手を上げるだけです。 これで海の底に生えた昆布やわかめが、波にゆらゆら揺れている感じになるのです。 これは腰回りも首も肩甲骨もほぐれていくので、我ながらよい体操だと思っています。 それから、足を調えるようにしました。 今回ビー玉を足の指で掴むことをやってみました。 これで足の指の感覚がはっきりするようになります。 単に指をぐるぐる回すのもいいのですが、やはり主体的になにかをしようとする時の方が、はっきりと意識がされるものです。 指で小さなビー玉をつかまえようとすることで、末端の指先までがしっかりしてきます。 そして足の裏の三点を押して刺激をしました。 こちらはテニスボールを使ったり、タオルを結んでそれを踏んでみたりして行ってみました。 それから腰をゆるめ、お腹もゆるめるワークを行い、目をゆるめるようにして腰を立ててみました。 仙骨や座骨をしっかり確かめるだけで腰が立ってきます。 一回目の坐禅まで小一時間掛けて体をほぐして調えてゆきましたので、坐禅は実に心地よく坐ることができます。 皆さんがとてもよく坐れていることがこちらにも伝わってきます。 毎回楽しみにしている、森の中にいる感覚が生まれます。 都会の会議室で自然もなにもないのですが、みんな一人一人が一本の木になったようで、森林の中で坐っているように感じるのです。 そのあとで少し話をしました。 楽しみ、其の中に在りという話であります。 以前にも紹介した廣瀬順子さんとの出会いであります。 廣瀬さんが楽しむということを大事に柔道をしているという話を伺って、楽しみ其の中に在りという論語の言葉を紹介しました。 そこから仏道修行も楽しむ事は大事だと思って、「楽道」道を楽しむという話をしました。 しかし、楽をしようというのではなく、少々たいへんなことでもなんとか工夫していると楽しみを見いだせるものです。 楽しんでやっていると楽になってくるのです。 楽になってくるとまた楽しくなってきます。 よい循環ができてきます。 毎回ホトカミの吉田亮さんも参加してくださっています。 吉田さんが初めて参加してくださったのは昨年の十一月ですので、もう丸一年となります。 今回も参加した感想を、なんとその日のうちに、noteに投稿してくれていました。 https://note.com/samurairyo/n/ncf287de3f083 そのなかに、 「初参加が昨年23年の11月15日で、ちょうど参加し始めて1年が経ちました。 いまふと、なぜ参加し続けているのか、振り返ってみたのですが、自分の身体や感覚の変化を感じるのが楽しいからです。 いや、もっと素直に言うと、「疲れにくくなった」「回復しやすくなった」という現実のメリットも大きいです。 パソコンでの仕事が多いので、座っている時間が長いですが、イス坐禅を始めてから、坐っている苦痛がなくなりました。」 と書いてくれています。 最後に質問の時間を設けると、あるご婦人の方が質問してくれました。 それは足が床に着かない場合どうしたらいいかという質問です。 その方はイスでは足が床につかないらしく、その日は、なにか足がつくようなものを床の上に置いて参加されていました。 これは申し訳ないことをしたと反省しました。 てっきり足が床に着くことを前提に足で踏むということを行っていました。 足が着かない場合は、もちろん足の下になにかを入れて踏むように出来ればいいですし、足が着かないなら、足の付け根がイスの座面についていて、そこから腰を立てるようにします。 いろんな方がいらっしゃることに配慮が足らなかったと反省しました。 また逆にイスが低い場合、足を交差して坐ることもできますと説明しました。 このことについては吉田さんが書いてくれています。 吉田さんが、三井記念美術館の「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」の特別展に行かれたそうです。 残念ながら、この特別展はもう終わっています。 そこで脚を交差して坐っている弥勒さまを見つけられたというのです。 インド出身2体、中国出身1体と合計3体もあったと書かれています。 この脚を交差して坐るのもいいものです。 両方の足で床をおして腰を立てる感覚が得やすいのです。 ともあれ、どんなイスでもどんな状況でもなんとか工夫して腰を立てて坐ろういう気持ちが大事なのです。 この意欲が腰を立たせてくれるのです。 また毎回イス坐禅をすると、疲れがとれる、夜がぐっすり眠れるというお声をよくいただきます。 今回いただいた感想の中には「睡眠時間が普段よりだいぶ少なかったのにすっきり起床でき、通勤途上の足取りが軽く、歩く速度もはやく…具体な体感が続いた」というお声もありました。 このイス坐禅を日常にできるようになると、ほんとに体が調い、心も調って元気になることができます。 まさに坐ることが楽しくなってくるものです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1412回「姿勢は姿と勢い」
赤ん坊がハイハイして進むときには、何か目に触れたものに興味をもって向かってゆくという必然性があります。 腰を立てるにしても、ただどっこいしょで腰を立てるのではなく、何か大切なものをいただくのだと思って、手を差し伸べながら腰を立てるのです。 そんなことを佐々木奘堂さんから教わっていました。 姿勢というのは、何かに立ち向かおうという姿であり、そこに勢いがあるのです。 藤田一照さんは、宮城教育大学の学長であった林竹二先生の話をなされていました。 この話は、一照さんのご著書『現代只管打坐講義』に書かれています。 一部を引用します。 かつて宮城教育大学の学長であった林竹二先生が神戸の長田区にある定時制の湊川高校で行った授業の様子であります。 『現代只管打坐講義』にある「一九七七年二月に行われた「人間について」という最初の授業の時のはなしです。 それは「一番前の席でほおづえをついて上半身を机にあずけて「こいつ何をする気やねん?」という顔つきで林先生をぼんやり見あげているのでした。 これではとても良い姿勢になりません。 その少年は、「いつも授業中は不断のおしゃべりと不規則な行動(五分から十五分間隔で授業から抜け出す)で教師たちを翻弄しているという」のだそうです。 それが五月の「開国」の授業の時には、かれの背筋はしゃんと伸びて腰が立ち、「先生と二時間まともに向き合っていた」と記されています。 実際に一照さんからその写真を見せてもらったことを思い出しました。 同じ人間の対照的な姿勢、態度なのです。 一照さんは 「わたしが問題にしたいのは、この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だったということだ。」 と書かれています。 姿勢が悪いからといって、強制的に姿勢をよくしろと言っても、その時だけは、なんとか取り繕うかもしれませんが、すぐにもとに戻ってしまいます。 一照さんも「こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。 先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう。」と書かれているのです。 林先生は 「まるごと変わるーそれはふかいところで何かが解きはなたれて、一つの持続する自己運動がはじまることで、外から加わる力で変わってゆくのではない。 自分の中から次々と新しい自分を生み出して変わっていくのだ」というのであります。」 と書かれているのです。 この話はとても示唆に富んでいます。 この話を聞こうという気持ちが、姿を変えてゆくのです。 そこには必然性からなる勢いがあります。 全身がそちらに向いてゆくのです。 坐った姿勢から大事な何かをいただくのだと手を伸ばして腰を持ち上げようとするところに腰が立ってゆくのです。 たんなる反復練習をしてできるものとは質の違うものがあります。 奘堂さんは、中村天風先生と合気道の藤平光一先生の話をされました。 天風先生は、インドでヨガを習得して、クンバハカという技法を教えておられました。 それは 肛門を締める 肩をおとす 腹に力を入れる という三つからなるものです。 これを普段から意識しておくと、どんな困難な状況でも動揺しなくなる、不動の心と身体が得られるというのです。 奘堂さんは、土田國保さんの話をなされました。 土田さんは、警視総監や防衛大学校長を勤められた方です。 警視庁警務部長時代の1971年(昭和46年)12月に、お歳暮の贈答品に擬装された爆弾が自宅に郵送されました。 この爆発により土田さんの奥様はお亡くなりになったのでした。 ご子息も重傷を負われました。 そんな怒りや悲しみの中でも、土田さんは、お尻の穴を締めて、肩の力を抜いて、へその下に力を込めて対処されていたという話です。 そんなことを防衛大学校の校長の折りに、学生さん達に訓示していたそうです。 その教えを受けたのが、宮城県知事となった村井さんだという話でした。 そのように天風先生の教えが生きているといえるのですが、藤平先生は、その方法は間違っていると指摘されたというのです。 藤平光一先生の『中村天風と植芝盛平 氣の確立』という本にある話です。 私もずいぶん以前に読んだことのある本であります。 たしかに、そこには、藤平先生が「私はある時天風先生に、クンバハカのような、あんな呼吸法はダメですよと言ったことがある」と書かれています。 天風先生は、インドでヨガを習ってご自身では不動の心と身体を体得されていたのだと思いますが、言葉にして教えようとすると、十分には伝わらないということかと、私は受け止めていました。 自分が体得したことを言葉で表現して人に伝えようとしても無理があるのです。 その言葉を聞いて稽古してみようとしても天風先生のようにはなかなかなれないのです。 この辺がとても難しい問題です。 気を丹田に充たしめると言葉にして伝えようとすると、伝える側は、丹田に気が満ちた状態になっていても、言葉を聞いてならっている方は、無理に力んで腹筋に力をいれているだけであったりします。 このあたりが伝えることの難しさです。 そこに必然性が感じられないのに、ただ方法論だけでは伝わらないのです。 よし、やるぞという気迫、立ち向かうという気力が原動力なのであります。 姿勢はまさに姿と勢いなのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1411回「人間は姿勢が悪くなる生き物か」
先日の藤田一照さんとの坐禅会で、さまざまな質問をいただいていたのですが、こんな質問がありました。 普段から熱心に姿勢や呼吸に気をつけていらっしゃる方であります。 姿勢と呼吸が調うと、疲れにくく充実した日を送れるというのです。 しかし、いつも学んで気をつけているつもりでも、忙しい日が続いたりすると、坐禅の時間が減り、姿勢が崩れて呼吸が浅くなり、疲れてしまうというのであります。 そこでなぜ人は意識しないと良い姿勢を保てないのでしょうかというのです。 そもそもお釈迦様の頃から坐禅があることを考えると、人間は本来的に、姿勢が悪くなる生き物のように思うというのです。 そのようになる原因がわかれば、気をつけることができるので教えてほしいという質問でした。 これには一照さんも丁寧にお答えくださっていました。 姿勢が崩れていても、どのように立ち直ってゆくのか具体例を示して説いてくださいました。 私はあくまでも自分自身の想像ですが、なぜ姿勢が崩れるのかをお答えしました。 それはおそらく環境の変化だと思うのです。 たとえば、今成人病が増えていると言われます。 しかし、もともと人間は成人病になるように出来ているわけではありません。 おいしいもの、栄養価の高い食べ物など、昔はそうめったに食べることはできませんでした。 砂糖などは貴重だったのです。 それが今おいしいもの、甘いもの、栄養価の高いものが、手軽にいただくことが出来るようになりました。 そこでついついおいしく感じるので、たくさん食べ過ぎてしまうようになり、成人病を引き起こす原因のひとつになることもあるのだと想像します。 昔は貴重だったからこそ、おいしく感じたのだと察します。 姿勢についても原始時代などは、いろんな動き方をしていました。 でこぼこの道を歩き、ぬかるみも歩き、かなりの距離も走り、木に登ったりもしていました。 そして人間は弱い動物ですので、常に他から襲われる危険がありました。 油断していたら、襲われたり、食べられたりしてしまいます。 だらっとした楽な姿勢でいたら、襲われ食べられてしまったのです。 そこでいつでも動ける姿勢でいなければいけませんでした。 たまに腰を落として楽な姿勢というのは、休む姿勢です。 長時間休んでいては生きていけなかったのだと想像します。 そこで、短時間は楽にして休んでもすぐに動ける姿勢にもどっていたのだと思います。 ところが、現代は襲われたり、食べられたりする危険がかなり減ってしまいました。 電車の中で安心して居眠りしていられるようになったのです。 腰を引いた楽な姿勢でいても安全になってしまったのだと思うのです。 人間の体が姿勢の悪くなるものではなく、昔のままの体で現代が便利で快適になったから、楽な姿勢でいてもだいじょうぶとなったのだというのが私の考えです。 これはあくまでも私見であって、検証したわけではありません。 想像でしかありません。 腰が立っていないと、急な時に応対できなかったのであります。 良い姿勢というのは、そのような必然性があったと思うのであります。 そこで今の時代に生きるには、おいしいものは少しにする、楽な姿勢は短い時間に限るというように習慣づけるしかないというのが私の結論であります。 また最近佐々木奘堂さんにお越しいただいて坐禅の講座をしてもらいました。 そんな話を奘堂さんにしたところ、人間に生まれた時から姿勢が悪くなると言われました。 そう言われてしまうと救いようがないのですが、奘堂さんは胎児の姿勢や、赤ん坊がハイハイしてそこからお坐りする姿勢が、実に正身端坐になっていると仰います。 誰しも生まれながらに正しい姿勢で坐れていたというのは、これは大きな救いとなります。 しかし、それを失ってしまっているのです。 奘堂さんは、今回白隠禅師の臘八示衆にある、「脊梁を竪起し、気を丹田に充たしめ、正身端坐する」ということを強調してくださいました。 たしかにこの三つは白隠禅師の説かれた坐禅の極意であります。 0歳児がハイハイして自然とお坐りできるようになる動画をいくつか見せてもらいました。 たしかに見事な正身端坐なのです。 しかしお坐り練習をすると悪くなってしまうのです。 赤ちゃんがお坐りをするのが、だいたい六ヶ月くらいから九ヶ月くらいなのだそうです。 そういう知識を得ると、六ヶ月頃からお坐りの練習をさせたりすることがあるというのです。 親が一所懸命にお坐りの練習をさせる動画も見せてもらいました。 親は一所懸命ですが、子供は嫌がっているようにみえました。 赤ん坊はハイハイをしたり、寝返りを打ったり、自然の成長の過程でお坐りできるようになるのですが、無理にさせるとうまくゆかないのです。 無理に坐らせると、人間は苦痛でありますから、すぐにだらけてしまうことになります。 そこでハイハイからお坐りする過程、坐った姿勢から立ち上がる動きを何度もならいました。 座骨で坐るということはよく言われますが、奘堂さんは足で立つのだと仰います。 そこで膝立ちの姿勢を何度も繰り返しました。 たしかに膝立ちでは腰が自然と立ちます。 膝で立つかわりに、坐る場合は、足の付け根で立つのだというのであります。 立ってすべてを投げ放つのです。 楽をしたら失われてしまうというのですから、難しいところです。 また繰り返し練習すればいいというものでもないのです。 毎回毎回新たに立ち上がるのです。 足で立つ、これを何度も繰り返していると、だんだん感じがつかめたようにも思います。 しかし、そのような思いを抱くのも、また遠ざかってしまうのです。 常に新たに立つ、この連続しかないのだと思います。 いつもながら奘堂さんの講座を受けると、よい刺激をいただきますし、新たな気持ちになって学ぼうと意欲が湧いてきます。 立ち上がる気力が湧くのです。 人は楽をしていると悪い姿勢になってしまいます。 しかし本来正しく坐れていたのはお互いの事実です。 ここに希望があります。 常に新たに立つ、これは大事なところです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1410回「布薩は坐禅」
第二日曜日の午後は一般の方と布薩を行うようにしています。 今年の一月から始めてもう十一回目となりました。 毎回満席と、とても人気があるようなのです。 ただ予約をとるのが大変だとよく言われます。 方丈で礼拝を行うのに、六十名くらいがちょうどいいので、このところ六十名を定員にして募集しますが、すぐに満席になるようなのです。 六十名のうち、初めての方が九名のみで、あとの五十名はリピーターであります。 五回以上参加されている方が、全体の四割に近いほどなのです。 それほど繰り返して参加してくださるのはとても有り難いことであります。 これは毎回初めての方がいらっしゃいますので、同じような説明を毎回行っています。 そのそも布薩とはという話から始めています。 先日は、少し肌寒い日だったので、体操から始めました。 つま先立ちを繰り返してもらいました。 つま先立ちは体にいいものです。 ふくらはぎにもよい刺激が与えられます。 自然と背筋が伸びてきます。 手を後ろに組んでもらいましたので、肩や胸郭も開くようにしました。 つま先立ちになっては踵を下ろし、それを繰り返してもらって、その間に話をしました。 それから足踏みを行いました。 これも簡単ですが、体を調えるのにいいものです。 足を上げて足踏みしますが、足をあげたときに、もう一方の足は床をしっかり踏んでいます。 床を踏んでいる足に注意を向けて足踏みをしてもらいました。 足で踏むということを繰り返していると、自然と腰も立ってきます。 それから礼拝を繰り返しますので、腰も回してみました。 股関節のあたりを動かしながらゆるめてゆきます。 それから坐って足首まわし、そして足の指を一本一本回してゆきました。 布薩では二十七回の礼拝を繰り返します 足で立つことを繰り返します。 足で立つ、その一番の土台を支えるのが足の裏です。 足の指も大事なのです。 足の指も一本一本丁寧に回してゆきます。 それから両手の親指で、足の裏を押してゆきます。 足の指の付け根から土踏まずにかけて、そして土踏まずから踵にかけて押してゆきます。 いつも体をささえてくれる足の裏に感謝しながら押してゆきます。 それから、これからも頑張ってもらおうと、手で拳を作って足の裏ををトントン叩いてゆきました。 そんな準備体操をしてから布薩を始めました。 布薩は岩波書店の『仏教辞典』には、 「ウポーサタに相当する音写」だと書かれています、 もともとは「火もしくは神に近住する意」です。 「婆羅門教の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたもの」ということです。 「発展段階に応じて内容や表現に相違が見られるに至った」のですが、 「半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、波羅提木叉を誦して自省する集会。」なのです。 更に「のち、月に6回、六斎日(ろくさいにち)に在家信者が寺院に集まって八斎戒を守り、説法を聞き、僧を供養する法会が盛んになり、これも<布薩>と称するようになった」と書かれています。 「月ごとの十五日、三十日に寺々に布薩をおこなふ。鑑真和尚の伝へ給へるなり」という用例が示されています。 波羅提木叉とは戒の条文のことです。 もともとは新月と満月の前日に行われていました。 六斎日というのは毎月の8・14・15・23・29・30日を言います。 その日に八斎戒を在家の方も守ったのでした。 八斎戒は、不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒の五戒に「装身具をつけず歌舞を見ないこと」、「高くて広いベッドに寝ないこと」、「昼をすぎて食事をしないこと」の三つを加えたものです。 在家の方も布薩の日にはお寺の参ってこの八斎戒を守ったのでした。 一般の方の布薩で行っているのは、まずみんなで般若心経を唱和します。 それから、 南無釈迦牟尼仏と唱えながら三回礼拝します。 南無観世音菩薩と唱えながら三回礼拝します。 南無三世三千諸仏と唱えながら三回礼拝します。 これで九回の礼拝となります。 そして懺悔文を一回唱えて礼拝し、三回繰り返します。 そして三帰依を三回繰り返します。九回の礼拝になります。 そして 三聚浄戒を唱えて、十善戒を唱えます。 十善戒は 第一不殺生 すべてのものを慈しみ、はぐくみ育て 第二不偸盗 人のものを奪わず、壊さず 第三不邪婬 すべての尊さを侵さず、男女の道を乱すことなく 第四不妄語 偽りを語らず、才知や徳を騙(たばか)ることなく 第五不綺語 誠無く言葉を飾り立てて、人に諂(へつら)い迷わさず 第六不悪口 人を見下し、驕(おご)りて悪口や陰口を言うことなく 第七不両舌 筋の通らぬことを言って親しき仲を乱さず 第八不慳貪 仏のみこころを忘れ、貪りの心にふけらず 第九不瞋恚 不都合なるをよく耐え忍び怒りを露わにせず 第十不邪見 すべては変化する理を知り心を正しく調えん というものです。 そして「誓いの言葉」を唱えて三拝し、最後に四弘誓願を三回繰り返して三拝して終わります。、 終わると、今まで読んだ戒にもとる行いがなかったか反省し、これから戒にもとる行いがないように心に誓って三分黙想します。 それで終わるのです。 準備体操をしてから礼拝の仕方を教えました。 呼吸に合わせてゆっくり丁寧に礼拝します。 まず立って合掌し、息を吐きながら股関節から九十度曲げます。 そして息を吸いながら体を起こします。 それから息を吐きながら両膝を床に着きます。 この時に膝を痛めないように座布団の上に膝をつくようにします。 膝に不安のある方はまず手をついてから膝をつくようにします。 膝をついて、つま先を立てたままで、一息息を吸い込みます。 そして吐きながら両方の肘と額を床につけます。 そこで手のひらを上に向けて、息を吸いながら手のひらを耳の高さまで持ち上げます。 そのてのひらにお釈迦様のおみ足をいただくのです。 それから息を吐きながら、手のひらを床に伏せて、更に息を吐き尽くします。 吐き尽くしたら、吸いながら体を起こして、吐きながら立ち上がります。 これを繰り返すのです。 足で床を踏みしめて立つときに腰も自然と立ちます。 垂直方向の運動がなされます。 それから体を床につけて、水平方向にもなります。 水平方向と垂直方向と交互に繰り返しながら体が調ってゆきます。 それに呼吸を合わせて、両手を持ち上げる時には尊いお釈迦様のおみ足を恭しくていただく気持ちです。 毎回呼吸を言葉で伝えながら、ゆっくり丁寧に礼拝を繰り返します。 そうしますと自然と体が調ってくるのです。 修行道場で長年暮らしていて、とても違和感を持っていたのが礼拝を粗雑にすることでした。 修行道場では何でも早くすることをよしとしますので礼拝もバタバタと行うのです。 これでは尊いお釈迦様のおみ足をいただく敬虔な気持ちにはなれません。 これはなんとかならないかと思い続けていました。 師家として指導するようになってまず改めたのが、礼拝を丁寧にすることでした。 毎朝の朝課でも皆と一緒に丁寧に行うようにしています。 そうして礼拝を繰り返してとても体が調うのを感じました。 その前日のイス坐禅では二時間かけてあの手この手を使って体をほぐして調えたのですが、礼拝はただ単調な動きを繰り返すだけで同じように調ってゆくのです。 やはり古来の行法は素晴らしいものです。 そうして布薩をおこなってしみじみ感じたのは、布薩の礼拝で体が調い、呼吸に合わせて行いますので、呼吸も調い、お釈迦様のおみ足をいただく敬虔な気持ちになり、更に戒の条文も読んで心も調うです。 坐禅はこの体と呼吸と心を調えるものですから、布薩は実に坐禅になっているのです。 そんなことをしみじみ感じたのでした。 それからみんなで行うと一層深まります。 これがみなさん繰り返しお越しくださる理由なのだと感じました。 毎月の布薩もこれで定着してきたように思っています。 ご参加くださる方には感謝しています。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1409回「古稀と還暦」
先日は円覚寺で古稀と還暦の坐禅会というのを開催しました。 藤田一照さんが古稀で、私が還暦ということから、二人の坐禅会を行ったのでした。 一日がかりの坐禅会でありました。 午前九時半から始まりました。 午前中は私が今取り組んでいるイス坐禅を二時間行いました。 二時間の坐禅ときくと、二時間じっと我慢してたいへんだと思うかもしれませんが、全くそんなことはありません。 今回もはじめにつまらない話をして皆さんを笑わせておいて、気持ちをほぐし、それから一時間ほどかけて体をゆっくりとほぐしてゆきました。 股関節の周り、肩や首などをほぐしてゆきます。 ゆったりした動きの中でゆるめてゆきます。 それに合わせて呼吸筋も使ってゆきます。 肺を上下、左右、前後に広がるように運動を工夫します。 息を吸うと、肺が大きく膨らむ感覚を味わってもらいます。 それから大事なのは足の裏であります。 足で床を踏むということを何度も繰り返しました。 この頃はタオルで結び目を作って、それを踏むことをしています。 これがほどよい柔らかさなので、押しつぶす感覚を得やすいのです。 まずは立つ姿勢を作ることから始めました。 重心が定まって、まっすぐに立てると、実に心地よいものです。 床を踏んで立ち上がる気持ちで立つのです。 頭頂をタオルでおさえておいて、少し膝を曲げて頭を押し上げるようにすると腰が立ってまっすぐになります。 そうして肩や上半身の力を抜くと楽になります。 立つ姿勢から今度は坐る姿勢へと移ります。 坐ると途端に姿勢が崩れてしまいがちです。 体のどこで坐るかが大事です。 まず仙骨と座骨の位置を確認してもらいます。 仙骨をさすりながら、仙骨がここに立っていると意識します。 座骨を確かめて、座骨で座面をしっかり押しつけるようにして坐ります。 それから立ち上がる姿勢を何度か繰り返しました。 イスから立ち上がるのをゆっくり行うのです。 少しずつ体が前傾してゆき、足に重心がかかって、お尻が浮き上がりそうになります。 まさに浮き上がって、お尻とイスの間に紙一枚が入りそうになる時に腰の角度をしっかり覚えてもらいます。 これでイスに坐るのです。 楽に坐れます。 皆さんがとても良い姿勢になっているのが感じられました。 みんなが良い姿勢になると、まるで皆さんが一本一本の木になったように見えます。 森の中にいるような気持ちで坐れるのであります。 ちょうどイスの坐禅している最中は、修行道場の鐘がなっていました。 ほどよい遠さから心地よい鐘の音が響いてきてなんともいえない心地よい時間でありました。 それから少し休憩をはさんで、更に少し坐ったのでした。 二時間はいつも都内のイス坐禅の会で行っているのと同じ時間ですが、アッという間の二時間でした。 それからお昼のお弁当を各自で召し上がっていただきました。 そして十二時半からは、一照さんの坐禅指導であります。 こちらは本格的に座布団の上に坐る坐禅であります。 一照さんの坐禅も丁寧に体をほぐすことから始まりました。 アメリカで長く坐禅指導されていた一照さんは、座布団に坐る習慣のない外国の方に、いきなり坐を組ますのは無理だとわかり、丁寧に体をほぐすことを研究されてきたのです。 私などと違ってはるかに多くの方から学ばれ、研究を重ねられてきた方法は実に洗練されていてお見事であります。 はじめに手の指から始まりました。 この指をほぐしてゆくだけで体が緩んでゆくのが感じられます。 そして体の芯からあたたまってくるように感じるのです。 それから合掌行気法というのを行って頭や喉、胸や腎臓に自分の手をあてる自己手当法を習いました。 更に二人ペアになって肩に触れるというのを行いました。 そして足首まわし、膝まわし、股関節まわしにテニスボールを使って骨盤底をほぐすというのを行いました。 骨盤底をテニスボールでほぐすのが新鮮でした。 そうするとどっしりと坐れます。 こちらは二時間がアッという間というか、二時間ではまだ足りないくらいに感じました。 そのあと一般の皆さんからいただいた質問に答えてゆきました。 たくさんの熱心な質問をいただきました。 皆さんがとても真摯に坐禅に取り組んでおられることがよく伝わってきました。 はじめに「笑い」について質問がありました。 「笑い」は身体や心によいと言われますが、一照さんと私の二人に笑いについての考えを聞きたいというものでした。 一照さんは、もともととても厳しい修行に耐え抜いて来られた方であります。 はじめて円覚寺で坐禅なされた時にも笑ってはいけないと指導されたと仰っていました。 それが日本にティク・ナット・ハン師が来日されてその通訳を務められた時、ティク・ナット・ハン師から「イッショウ、スマイル」と言われたのでした。 そして「修行は楽しいものでなくてはなりませんよ」と言てくださったというのです。 それに続けて 「ブッダもそうだったんですから。 気難しくしかめっ面をしている人の周りには、人は集まりません。 ブッダが愉快で幸せそうに歩いているから、その周りに人が集まったんですよ。 ブッダの生き方を見習おうとしている私たちもそうでなければならないし、そういうあり方ができるような修行をしているんですよ」と微笑みながら諭してくださったという体験を話してくださいました。 高校の先生から、ご自身は今ここを追求する坐禅の価値を知って、それを若い方々、生徒たちにも伝えたいと仰いました。 生徒達に今ここを探求する価値を教える良い方法がないでしょうかという質問でした。 一照さんはそれには、「自分が見本になることだ」と答えられていました。 教えるということよりも自分が学ぶことが楽しい、それが周りに伝わってゆくのだというのです。 一照さんがお若い頃に指導を受けた野口三千三先生のことを話してくださいました。 野口先生はご自身で楽しんでおられたというのです。 楽しんで学び続ける後姿に人は引きつけられてゆくというのです。 これは私も全くの同感なのです。 ほかにもいろんな質問をいただきました。 一照さんには丁寧にお答えいただきました。 共に学ぶ喜びに満たされた思いであります。 二十代の青年から八十代の方まで、そして関東近辺はもとより、京都や遠く九州からもお越しくださった方がいらっしゃいました。 みなさんと一日充実して学ぶことができました。 最高のお祝いをいただいた思いでありました。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1408回「寺の存続」
先日は神奈川県の南足柄市にあるお寺で、開創六百年という記念行事が行われて、その法要の導師と法話を務めてきました。 十一月になってようやく涼しくなり、その日は朝方少し冷えていました。 開創六百年の法要は、和尚様方を本堂にお招きして行われ、多くの檀信徒の方々は本堂の外にテントでお参りしてくださっていました。 外は少し寒いのではと思うような日でした。 法要を終えると、和尚様方は退席されて、檀信徒の方々に本堂の中に入ってもらいって法話を行いました。 法要のみ行うことも多いのですが、檀信徒の皆さんに法話をさせてもらえるのは有り難いことであります。 寺が六百年も続くというのは、考えてみるとたいへんなことです。 南足柄市には富士フイルムという大きな会社がありますが、その会社でも創業九十年であります。 創業百年というかなり古い方でしょう。 それが開創六百年というと室町時代からですので、とても古いものであります。 地域の人たちに大切にされ守られてきたからであります。 その法要の日にも多くの檀信徒の方々がお手伝いをなされていました。 世界には戦争が多く起こります。 その中には宗教がもとになって争うものもあります。 ただ仏教は争うことをしない宗教であります。 異なる思想、宗教だからといって排斥しようとはしません。 宗教戦争というのがあります。 『広辞苑』には、 「宗教上の衝突に起因する戦争。 特にヨーロッパにおいて宗教改革後、カトリックとプロテスタントの間に行われ、政治的・経済的利害ともからんだ激しい戦争。」 と解説されています。 仏教にはそのような宗教戦争はありません。 岩波書店の『仏教辞典』にも、「宗教戦争」という言葉はありません。 異なる宗教、思想を排除しようとしたりはしないのです。 もともと仏教が伝来した時からそうでした。 仏教の伝来は公的には、西暦五三八年、百済の聖明王が使者を通して仏像や経典を送ってきたことからであります。 その後崇仏・排仏の論争がおきていました。 崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏が争い、一時、廃仏派の物部氏の主張が通って、廃仏がなされたこともありました。 しかし、以後は、仏教は大筋において保護されていったのでした。 それから日本では神仏習合という独自の宗教が発展してきました。 『仏教辞典』には、 「神仏習合」とは 「日本古来の神信仰が新たに伝来した仏教と接触することによって生じた、思想・儀礼・習俗面での融合現象。」と解説されています。 更には、 「奈良時代には、神を仏教による救いの対象と捉えて、その救済実現のために神前納経(のうきょう)や神宮寺(じんぐうじ)の建立が行われた。 また、神は仏法を守護するという護法善神説もみられた。 平安時代に入ると、仏・菩薩が仮の姿をとってこの世に出現したものが神であるとする、<本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)>が登場する。 本地垂迹説は、仏・菩薩が権(かり)に現れたものという意味で神を<権現(ごんげん)>と呼んだり、「八幡(はちまん)大菩薩」(八幡神)のように神に<菩薩号>を奉ずる」ようにもなったのでした。 異なる宗教が同じところにお祀りされるという独自の形態になりました。 鶴岡八幡宮も明治維新までは鶴岡八幡宮寺といわれています。 大塔があり、門には仁王像もありました。 それが明治になって神仏分離令が発行され、八幡宮ある仏教的なものをすべてが排斥されました 『仏教辞典』には、 「神仏分離」として 「明治のはじめに維新政府がとった、神道と仏教を分離する政策。 神道の国教化と、神孫としての天皇の宗教的権威確立のため、1868年(明治1)3月から諸社に対して下された、社僧の還俗強制、仏像を神体とすることの禁止、社頭からの仏具の除去、神職に対する神葬の強要、などを内容とする一連の指令をいう。」 のだと解説されています。 その結果どうなったかというと、『仏教辞典』には、 「この神仏分離令は全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、多数の文化財が破壊され膨大な廃寺が生じたが、真宗を中心とする仏教界の反対を受けて、政府も沈静化を目指した。」 と書かれています。 廃仏毀釈とは、『仏教辞典』には、 「明治政府によって1868年(明治1)以来とられた神仏分離政策に伴う、寺院を破却し僧侶を還俗させるなどの仏教廃止運動をさす。 明治以前は全国いたるところで寺院と神社は神仏習合しており、大社においても別当僧が神官を兼ねたり、神体を仏像にしている例が多かった。 檀家制度に支えられた寺院は経営が安定しており、神社を支配していることが多かった。 幕藩領主もキリシタンの摘発業務である寺請状(てらうけじょう)の作成を寺院僧侶にまかせていたので、日本人全体がいずれかの寺の檀家になることが義務づけられていた。 まさに国家仏教といってよい。 ところが明治政府は、天皇制国家を形成させるため伊勢神宮を国家の宗廟として、そのもとに国家神道政策をおしすすめ、全国の村鎮守クラス以上の神社から仏教的色彩を一掃するため神仏分離政策を行なったのである。 そして国家神道の先兵的役割を果す村鎮守の神主の身分を僧侶より引き上げる政策をとった。 水戸学や国学の思想の強いところでは、これを機会に今まで僧侶の風下におかれていた神官たちが、廃仏毀釈運動として徹底的な仏教排斥運動を展開した。 そのため地域によっては仏教寺院すべてを破却したところもあった。 それほどではなくとも、仏像・経典・伽藍などが焼却された例は枚挙にいとまがない。 この運動のもっとも激しかった代表的な地域は、薩摩藩・松本藩・富山藩・苗木藩・津和野藩、伊勢の神領、隠岐・佐渡などである。」 と解説されています。 鵜飼秀徳先生の『仏教抹殺 なぜ明治維新は仏教を破壊したのか』(文藝春秋)には、こんなことが書かれています。 「二〇一四(平成二六)年、ニューヨークで開かれたクリスティーズのオークションで、ある仏像が出品されたことが話題になった。 それは、興福寺に安置されていた「乾漆十大弟子立像」を構成する一体であった。 現在、同寺に残る十大弟子立像は六体のみ。いずれも国宝に指定されているが、残る四体は廃仏毀釈時に散逸した。 それが近年、海外で発見され、オークションにかけられたのだ。 廃仏毀釈によって日本の寺院は少なくとも半減し、多くの仏像が消えた。 哲学者の梅原猛氏は、廃仏毀釈がなければ国宝の数はゆうに三倍はあっただろう、と指摘している。 国の財産が失われただけではない。 廃仏毀釈は、日本人の心も毀した。 何百年間にもわたって仏餉(仏前に供える米飯)を供え続け、手を合わせ続けた仏にたいし、ある時、日本人は鉄槌を下したのである。」 というのです。 今残っているお寺はそんな激動の中を生き抜いてきています。 廃仏が起こるまでは、神仏習合だったのでした。 それは日本の尊く、素晴らしい精神だと思います。 異なるものをも否定したり排除せずに共にお祀りしたのです。 和らぎ慈しむ心こそ仏教の大切な精神です。 寺が存続するのは有り難いことです。 そんな話をしたのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1407回「良かれと思っても」
この頃はよく褒めて伸ばすということが言われます。 たしかに褒められると頑張ろうという気になるものです。 私たちの修行の世界では、褒めるということはほとんどありませんでした。 私の場合、先代の管長にお仕えしてきて、三十年来褒められた記憶はありません。 いつもお叱りを受けるか、お小言を頂戴するかでありました。 おそばで毎日のお料理をお作りしていた頃もありましたが、おいしいとか、よく出来ているというようなことを仰ることはありませんでした。 手間暇をかけて作ったものには、こんなことをする暇があれば、もっと他にやることがあるだろうとか、仰ったものでした。 もうお亡くなりになると、そんなお小言のひとつひとつが懐かしく有り難く思うものです。 それでも長年お仕えしていると、お料理にもお小言を仰せになりながらも、その表情や仕草でおいしいと思ってくださっていることが分かるものです。 それでこちらはじゅうぶんに満足したものでした。 そんな修行をしていると、おそばにいて、言葉にせずとも伝わるものがあると分かってくるのであります。 先代の管長は実際に畑で麦踏みなどをなさっていた経験がありました。 そこで修行僧の指導は麦を踏むのと同じだ、踏めば踏むほどよくなるのだという理論でありました。 もう「麦踏み」も今は伝わらないかもしれません。 「麦踏み」は 「麦の伸び過ぎを押さえ、根張りをよくするため、早春、麦の芽を足で踏むこと」と『広辞苑』に解説されています。 麦は踏んでこそよくみのるものなのです。 しかし、この頃はこの「麦踏み」理論は通じません。 やはりところどころで褒めてあげないと難しいものです。 私は、よく出来たお料理の時は、よく出来ましたねと褒めますし、おいしいと、おいしいですと言ってあげるようにしています。 その方がやりがいがあると思うのです。 しかしただ褒めればいいというわけでもありません。 たとえば「褒め殺し」という言葉もあります。 こちらも『広辞苑』に載っています。 ①ほめて、その者を駄目にすること。 「贔屓が役者を褒め殺しにする」という用例があります。 それから ②誉め言葉を連ねつつ相手を責めること。 という解説があります。 この頃は更に褒めることもハラスメントになるという「ほめはら」なる言葉もあると聞きました。 なかなか褒めることも難しいものだと思うことがありました。 滋賀県在住の高校教師の方から毎月「虹天」という冊子を送っていただいています。 これを毎月読むのが楽しみなのであります。 今月号にもある高校三年生の方の話が心に残りました。 そして深く考えさせられました。 「すべての経験はこれからの幸せのために」という題で書かれた文章でした。 その高校三年生の女性の担任となったときの話です。 その生徒は高校二年まで成績オール「5」で超優秀だったそうです。 そして努力家で、部活も熱心だったのでした。 先生はその女生徒のことを「いわゆる超ストイックで完璧主義な生徒」と表現されています。 この生徒自身、自分には才能がないので、人並みに努力してもダメ、最近は毎日四時間の睡眠だというのです。 それが5月の連休明けから、その生徒は咳が止まらなくなったそうなのです。 毎晩明け方まで寝られなくなり、学校も休むようになりました。 内科の診察では問題はないということです。 そこで大きな病院の精神科にも通うようになったのでした。 とうとう歩くことさえ満足にできず杖をつきながらお母さんと一緒に登校するようにまでなってしまったのでした。 だんだんとそのお母様も衰弱されてきました。 それが七月の頃、変化がみられました。 これまで目指していた大学の受験をあきらめて、将来やりたいことにつながる別の大学を面接で9月に受けるというのです。 夏休みに部活動を引退してからは気持ちが楽になったのか咳が止まったというのです。 これはよい結果になりました。 ただお母様がこんなことを仰ったというのです。 「私は昔から、あの子ががんばって何かできたときにはよく褒めてあげました。 でも、『もっとやれば、こんなこともできるかも知れないね』と、さらに上を目指させるような言葉も言っていたように思います。 何かに挑戦する場面でも、『どうする?やってみる?」と聴きながらも、ついついやらせる方向に誘導していました」というのです。 お母様が、自分のことを責めていらっしゃるのです。 お母様にはなんの悪気もありません。 褒めてあげていたのです。 でも「もっとやれば」という気持ちが彼女を苦しめることにつながっていたのかもしれません。 その先生は「やはり、がんばれって言い過ぎたり、期待しすぎるのはよくないかもしれませんね・・・」なんて言ったりしたら、お母様はいたたまれない気持ちになると察しました。 そこでそのお母様に伝えた言葉が、 「すべての経験は、その人のこれからの幸せのために必要だからこそ、天が与えてくれたんだ」と思ってみるのはいかがでしょうということでした。 素晴らしい話だと感動したのです。 それと同時に深く考えさせられました。 これは誰も悪くないのです。 お母様も子供にとって良かれと思っています。 お子さんも一所懸命に頑張る子だったのです。 でもそれが自分を追い詰めることになっていたのです。 そこで私は仏教で説く「四無量心」を思いました。 岩波書店の『仏教辞典』には 「四つのはかりしれない利他(りた)の心」とあります。 更に具体的に 「慈、悲、喜、捨の四つをいい、これらの心を無量におこして、無量の人々を悟りに導くこと。 <慈>とは生けるものに楽を与えること、 <悲>とは苦を抜くこと、 <喜>とは他者の楽をねたまないこと、 <捨>とは好き嫌いによって差別しないことである。 これを修する者は大梵天界に生れるので<四梵住>ともいう。」と解説されています。 慈は相手に何かしてあげることです。 悲は共に苦しみ悲しむ心です。 喜は、相手の幸福を共に喜ぶ心です。 最後の「捨」が難しいのです。 『仏教辞典』に「捨」は「無関心、心の平静、心が平等で苦楽に傾かないこと」と解説されています。 「平静」である、相手に対する平静で落ち着いた心でいることです。 ただありのままを認めるといってもよろしいかと思います。 褒めることもなければ、悲しむこともないのです。 それでは何もしないのかというと、これが相手にとっては救いになるのです。 この女生徒の話からはいろんなことを学びます。 私たちは、良かれと思っていてもそれが人を苦しめることにもなると知っておくべきです。 「若し善根を作せば有相に住し、還って輪廻生死の因と成る」という言葉があります。 良いことをしても、また、良かれと思っても、それがかえってよしあしの姿にとらわれてしまい、迷い苦しみの原因ともなるということです。 常に自分自身の心を平静に保つようにすることが大事なのであります。 道ばたのお地蔵さんは、ただ黙って私たちのことを見守ってくれています。 よいとも悪いとも言いません。 ただ見守ってくれる、そんなお地蔵さんの心が「捨」なのだと思います。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1406回「死を恐れる心から」
花園大学の講義で、今回は三人の禅僧を取り上げて学びました。 鈴木正三と、盤珪禅師と白隠禅師であります。 この三人に共通しているところは、幼少より死について深く考えていたということです。 鈴木正三は、四歳の時に同年の子供の死に会い、長く死についての疑問が続くようになったのです。 十七歳で『宝物集』(仏教説話集)を読み、雪山童子の話を知って感動します。 真実を求めるためには自らの身命をも惜しまぬ気持ちを起こしたのでした。 盤珪禅師は二、三歳の頃より、死ぬということが嫌いで、泣いた時でも人が死んだまねをしてみせるか、人の死んだことを言って聞かせると泣き止んだというのです。 白隠禅師は、五歳の時、ひとりで海に出かけて、そこに浮かんでいる雲を眺めて世の無常を感じて大声で泣いてしまったというのです。 それから白隠禅師は十一歳の時に、母に連れられて昌源寺にお参りに行き、伊豆窪金(雲金)の日厳上人が、地獄の説相を説くのを聴かれました。 上人の弁舌は実に巧みで、熱鉄や釜の上で身を焼き苦しめられる焦熱地獄や、身が裂けて真っ赤になる紅蓮地獄の苦しみを目の前に見えるかのように話しました。 まだ少年だった白隠禅師は、これを聞いて身の毛のよだつ思いがしました。 そして心に思いました、 「自分は常日頃、好んで小動物を殺してしまうなど、乱暴をして来た。 だからきっと地獄に堕ちて永遠に苦しみを受けるだろう。 もはや逃れようはない」と。 全身が戦栗して、何をしていても心が穏やかではなくなりました。 そこで地獄から逃れるにはどうしたらよいか、母に聞くと、天神様を拝むとよいと教わって一心に天神様を拝んだのでした。 死を恐れる心は無常を覩る心であり菩提心に通じます。 菩提心とはこの無常を観る心なのであります。 この心がもとになって道を求めます。 そしてそれぞれに死の問題を解決してゆかれました。 盤珪禅師は、不生の仏心に気がつかれました。 不生の仏心とは、生じることもなく滅することもないものです。 何も生じていないのですから、滅する道理もないのです。 「禅師の曰、仏心は不生にして霊明なものに極りました、不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのひまするわひの」と説かれています。 仏心というのは生じたものではないのです。 誰かによって生じたものではありません、 また、何らかの条件によって作り出されたものではないのです。 だから条件によって滅することもありません。 不生不滅の素晴らしいものです。 仏心は不生、その仏心で全ては調うのだと気がつかれました。 白隠禅師は、二十四歳の時に高田の英巌寺で坐禅していて悟りを開いたのでした。 「ある夜、お霊屋で坐禅して、恍惚としているうちに明け方になった。そのとき、遠くの寺の鐘の音が聞こえて来た。 かすかな音が耳に入ったとき、たちまち根塵が徹底的に剥げ落ちた。 さながら耳元で大きな鐘を撃ったようである。ここにおいて、豁然として大悟して、大声で叫んだ、 「わっはっはっ。岩頭和尚はまめ息災であったわやい。岩頭和尚はまめ息災であったわやい」と。」 という体験をなされたのです。 賊に襲われて亡くなったと聞いて失望落胆していたのですが、その岩頭和尚は死んではいない、まめ息災だと気づいたのでした。 そしてそれぞれの祖師は、その死ぬことのない仏心を人々に説いてゆかれたのです。 大学で講義をした翌日は、円覚寺で致知出版社の後継者育成塾の講義でありました。 これはそれぞれの会社の後継者となる方のための研修会であります。 毎年担当しているものです。 今回は、木に学ぶと題して講義をする準備をしていました。 ただその始めに花園大学で廣瀬順子さんに出会った話をしました。 楽しむということの大切さをお話しました。 何にしても楽しんで学ぶことは大事であります。 もっとも楽をしようというのではありません。 廣瀬さんの柔道の練習にしても、パラリンピックの金メダルを目指して練習するのですから、楽なはずはありません。 過酷にみえる練習でもその中に喜びや楽しみを見いだしてゆくのです。 少しでも何か自分に変化があると楽しいものです。 些細なことでも出来なかったことが出来るようになるのを見つけると楽しいものです。 そのように楽しみを見つけてゆく心が大事です。 そのあと天台小止観をもとに心を調える方法を学びました。 呼吸を調えるところを紹介します。 「息がととのうのに、四つの有り様がある。 一は風の有り様であり、二は喘の有り様であり、三は気の有り様であり、四は息の有り様である。 最初の「風・喘・気」の三つは、息がととのわない有り様であり、最後の一つの「息」は、息がととのう有り様である。 「風」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、鼻から出入りする呼吸に、声が立つのを感知することである。 「喘」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、呼吸に声は立たないが、出入息が詰まって滞るのが、喘の有り様である。 「気」の有り様は、どのようなことであるのか。 それは、坐禅の最中、声も立たないし、息が滞ることもないが、出入息が細やかでないのが、気の有り様であると呼んでいる。 「息」の有り様は、声も立たず、滞ることもなく、粗くもなく、出息も入息もあるのでもなく、ないのでもなく長く続き、身体を確り保ち、穏やかで、心に深い喜びを抱くことである。 これが息の有り様である。 「風」の状態を続ければ心は乱れ、「喘」の状態を続ければ心は滞り、「気」の状態を続ければ心は疲れるが、「息」の状態を続ければ心は安定する。 またつぎに、坐禅の最中に、呼吸が日常生活の風・喘・気の三つの有り様であれば、心はととのわない。 その状態で、心を働かせる者があれば、風・喘・気の三つの呼吸の有り様は、思いともなり悩みともなる。 従って、心もまた、集中し安定することは難しい。 もし心をととのえようと願うならば、三つの方法によらなければならない。 一は、心を下に置いて安定することである。 二は、身体をゆったりとすることである。 三は、大気が毛穴に満ちわたり、毛穴を出入りして通い、妨げることがないと思うことである。 この思う心が細やかなものであれば、息はあるかなしかの微かなものとなる。 このように息がととのえば、諸々の思いや悩みが生じる余地はない。修行者の心は一点に集中し、安定し易くなるものである。」 という呼吸を調える方法です。 こちらは山喜房仏書林の『天台小止観の訳注研究』からの引用です。 これもまず自分の呼吸は荒い呼吸なのか、なめらかなのか観察することです。 観察しているとだんだんと静かに調ってくるものです。 祖師方は死を恐れる心から道を求めて、こういう地道な修行を通して、あるときの縁にふれて生じることも滅することもない仏心に目覚められたのであります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1405回「楽しみ、その中にあり」
妙心寺で行われた円福寺老師の開堂に参列した明くる日は、花園大学の授業でありました。 京都に行くには往復の時間がかかりますので、妙心寺の儀式に私の授業を合わせるようにしました。 その日は、朝から行事が続く日となりました。 午前9時に禅文化研究所に行って、YouTubeの撮影をしました。 十月は、禅文化研究所では六十周年の記念事業があったので、撮影が出来なかったのでした。 久しぶりの撮影となりました。 まずは墨蹟紹介の動画を撮りました。 この墨蹟紹介、ただいま禅文化研究所所蔵の墨蹟について、その読み方、意味内容、そして書いた人物がどんな人なのかを解説している動画であります。 ご覧くださる方はあまり多くないのですが、墨蹟に興味のある方にとっては、良いことだろうと思って、なんとか頑張って継続しています。 書と画とを交互に紹介していますが、今回は、書であります。 円覚寺の中興大用国師の一行書を紹介しました。 これは数ある大用国師の書の中でも逸品といってよい墨蹟であります。 大用国師のご生涯も解説しました。 それから、研究所のYouTubeでは、書籍紹介を行ってきましたが、今回から新シリーズとして、「山田無文老師の『般若心経』に学ぶ」と題して動画を撮影しました。 これはこれから続いてゆきます。 般若心経をみなさんと一緒に学んでゆこうという企画であります。 禅文化研究所発行の山田無文老師の『般若心経』という本があります。 これをもとにして、般若心経について解説してゆきます。 般若心経の一節をとりあげて、それに対する無文老師の言葉を紹介し、それに私が言葉を添えるというものです。 今回は、経題の「摩訶般若波羅蜜多心経」を解説しました。 これから本文に入ってゆきます。 みなさんと一緒に般若心経を学んで参ります。 そうして十時前に大学の総長室に入りました。 その日はいつもの二時限目の授業を担当することになっていました。 「禅とこころ」という授業です。 月に一回で講義をしています。 今期は、「禅僧の逸話に学ぶ」と題して講義しています。 第一回は達磨大師の逸話を紹介しました。 二回目は唐代禅僧の逸話に学ぶでした。 三回目は、宋代の禅僧の逸話に学ぶでありました。 四回目は、鎌倉時代から室町時代にかけての禅僧の逸話に学びました。 そして今回は江戸時代の禅僧の逸話に学ぶです。 江戸時代で誰を取り上げようかとずいぶん悩みましたが、鈴木正三と盤珪禅師と白隠禅師とを取り上げました。 この三人の禅僧の逸話を紹介しながら、禅について学んでみたのでした。 一般のみなさんも熱心に聴講してくださり有り難いことであります。 いつもならそこでお昼休みなのですが、今回はお昼休みにも仕事が入りました。 これがなんとも有り難いお仕事でした。 花園大学の卒業生で、今回バリのパラリンピック女子柔道で金メダルを取られた廣瀬順子さんとの対談でありました。 大学の卒業生でパラリンピック金メダルとは素晴らしいものです。 授業の前に、担当の方と打ち合わせをして、授業を終えてすぐに、控え室で廣瀬さんにお目にかかりました。 ご主人もご一緒に来てくださっていました。 控え室でお目にかかって一番感じたのは、笑顔の素敵な明るい方だということでした。 お昼休みを利用して凱旋セレモニーを行ったのでした。 花園学園の理事長から、花園学園スポーツ栄誉賞・目録を贈呈し、花園大学からは学長が花園大学スポーツ賞・目録を贈呈しました。 そして同窓会からは副会長が特別賞・目録を贈呈しました。 そのあと廣瀬さんと私とで二十分ほど対談させてもらいました。 対談は、今までかなりの数を行ってきていますが、毎回緊張するものです。 特に公開で、時間が決められていると、その時間内に終えないといけませんので、どのように進行して最後にもってゆくか、ハラハラします。 司会はなく、私が聞き役となって話を進めました。 まずは柔道を始めたきっかけからうかがいました。 柔道が題材になっている少女漫画の主人公に憧れて、小学校五年生の時に始められたのでした。 そして中学校、高校も柔道部に所属していたそうなのです。 インターハイにも出場なされたのでした。 高校卒業と同時に柔道はひと区切りとしていたそうです。 最初は広島の大学に入学していたらしいのですが、一回生のときに病気になり、中退せざるを得なくなったそうです。 もう大学に行くことは無理かなと思っていたのですが、リハビリセンターにいた職員さんが、花園大学の卒業生で、花園大学では目の不自由な方も支援してくれるという話を聴いて、花園大学に行こうと決められたのでした。 先生や職員、そして良い仲間にめぐり合えたと語ってくださいました。 大学としてはとてもうれしいことであります。 しかし、花園大学には柔道部はありません。 大学三年生の時に視覚障害者柔道をはじめ、近所の道場で練習されていました。 大学卒業後に柔道を仕事として就職をすることになり、それからパラリンピック出場を目指すようになったのでした。 そうしてリオのパラリンピックでは銅メダルを受賞し、東京では五位入賞、そして今回のパリでは金メダルを取られたのでした。 パラリンピック女子柔道金メダルは日本初だというのです。 学生へのメッセージをお願いしたところ、あきらめずに頑張ることの大切さを、心を込めて話してくれました。 頑張ったら頑張っただけの意味があると語ってくれました。 最後に私から廣瀬さんにお祝いの色紙を差し上げました。 かねてから楽しむという言葉が入ったのがいいと言われていましたので、論語から「楽しみ、其の中に在り」という言葉を書いて謹呈しました。 論語に「粗末な飯をたべて水を飲み、うでをまげてそれを枕にする。楽しみはやはりそこにもあるものだ。」という言葉があります。 そこから取ったのでした。 廣瀬さんは、柔道では笑ってはいけないと教えられていたそうなのです。 しかし今のご主人と出会われてから柔道を楽しむように変わったのだと仰っていました。 同じく視覚障害者柔道をなさっているご主人との出会いは、廣瀬さんにとってとても大きかったのだと思います。 笑ってもいい、楽しくやったのだというのです。 これは素晴らしいことだと思いました。 素敵な笑顔は楽しんでおられるからだと分かりました。 それで素晴らしい成績をおさめられたのです。 そのお昼のセレモニーを終えて、そのまま禅文化研究所に行って運営委員会を行っていました。 鎌倉に帰ったのは夜遅くなっていましたが、素晴らしい方と対談できると、疲れも残らないものです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1404回「法縁の有り難」
十一月三日は文化の日、もとは明治節といって明治天皇のお誕生日だったそうです。 戦後は文化の日として、「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」となったのでした。 この日は晴れになる確率が高いとも言われています。 この文化の日の前後に円覚寺では宝物風入れと、舎利殿の特別拝観を行っています。 宝物は、近年、数を限定して公開するようにしています。 国宝舎利殿はふだんお参りできませんので、この日には、多くの皆様がお参りくださっています。 また最近はこの時期に、功徳林坐禅と法話の会も開催しています。 私が法話を担当した二日は、大雨でありました。 しかし、明くる文化の日には、すっかりよい天気になったのでした。 三日の日に京都に入り、四日は妙心寺の儀式に参列していました。 京都の八幡市にある円福寺僧堂の師家政道徳門老師が、妙心寺で歴住開堂という大きな儀式をなさって、それにお招きいただいたのでした。 歴住開堂というのは、妙心寺派には二十ほどの僧堂、修行道場があり、その老師が、妙心寺の第何世住持という、妙心寺の世代に入る儀式なのです。 その日、妙心寺に第何世として就任して、はじめて妙心寺の法堂に登ってお説法をなさるのです。 はじめてお説法なさることを「開堂」といいます。 当日いただいた小冊子には次のように解説されていました。 「中国では南宋以降 清朝にいたるまで、人々の尊崇を集めた禅僧たちは、いわゆる五山十刹などの大寺院に「住持」として入りました。 こうして禅院の住持として、はじめて寺院に入ることを「入院(じゅえん)」といい、新命住持は仏祖ならびに開山禅師からの宗旨を継承して、法堂において仏法を説きました。 これを「開堂」といいます。 この儀式が日本に伝来し、変容しながらも今日の禅宗各派に伝わっています。 妙心寺における「歴住開堂式」とは、師家分上の禅僧が「歴住職」という法階を得て、古例に倣い 法堂にて最初の説法を行う儀式です。」 と書かれています。 今年の四月に愛媛の大乗寺の老師が、この歴住開堂をなさって私も参列させてもらいました。 今回の政道老師は、妙心寺の第七百十一世にご就任なされたのでした。 思い返せば、この私も二〇〇三年に円覚寺で歴住開堂の儀式を行いました。 そこで円覚寺第二百十八世に就任させてもらったのでした。 もうあれから二十一年も経つのであります。 三日の晩には、政道老師を囲んで前日の祝宴が行われました。 有り難いことに私が祝辞を述べさせてもらったのでした。 政道老師のことを、私がただいまの老師方の中で、もっともご尊敬申し上げる老師でありますと申し上げました。 そして近年いろいろとご指導いただいますと言って、開堂の無事円成と仏法の益々の興隆を祈念申し上げました。 当日も、政道老師のお人柄を表すかのような爽やかな秋の日となりました。 妙心寺伝統の儀式が粛々と進みます。 もともと堂々たる体躯の老師ですが、まさに威風堂々たるお姿でありました。 政道老師のことを知ったのは、二〇一八年に発行された季刊『禅文化』二四七号に、「『坐禅儀』を読む」という文章を拝読してからでした。 この文章に私は深く感銘を受けました。 政道老師は一九七三年のお生まれですので、私より九歳お若いのです。 二〇〇九年に円福寺の老師になられていますので、まだ三十六歳で老師になられています。 老師方が集まる時に、お姿だけをお見受けしていました。 私と同じく三十代で師家となられていますので、親近感は抱いていました。 ただこの禅文化の「『坐禅儀』を読む」を拝読して是非ともこの老師にお目にかかってみたいと思ったのでした。 ただいまこの「『坐禅儀』を読む」は、禅文化研究所発行の『新・坐禅のすすめ』で読むことができます。 とりわけ、呼吸については、これも『新・坐禅のすすめ』に、次のように書かれています。 「まずはゆっくり息を吸います。 吸いながら、頭のてっぺんが天からひもで引っ張られるイメージで、背筋を伸ばしていきます。 同時に自然にへその下(丹田)に気がみなぎるのを意識します。今度は息を吐いていきます。 吐きながら上半身が緩んでいくのを感じ、息が出て行くのを見届けます。息の出入にともなう身体の変化に心を置きながら、しばらくの間、自然な順腹式呼吸(普通の腹式呼吸)を続けます。 身体と心が「呼吸を介して」一つになっていることを確認します。 呼吸が落ち着いてきたら、さらに今度はスケールの大きな坐禅をすることを心がけます。 息を吸う時は天地の恵みを頂くように吸い、息を吐く時は自分が天地の隅々に溶け込んでいくように吐いていく。 自己と天地が「呼吸を介して」 つながっていることを意識します。」 と丁寧に解説してくださっています。 更に 「……数息観、特に随息観は「出入の息に任せる」というところがポイントですから、この時点で「呼吸を調えよう」とか「大きく吸おう」とか「長く吐こう」等、呼吸に対して計らうことを一切やめてしまいます。 そうすると実際の呼吸には、長短、粗細、深浅、実に様々なものが存在することに気付きます。 そういった次から次へとやって来ては去って行く「千姿万態の呼吸」に対して心を開いて、「一息」また「一息」と丁寧に観察していきます。呼吸に身と心を任せてしまうのがポイントです。」 と書かれています。 私などは意識的に丹田に気を集め、長く吐くことに心を用いていましたので、この解説は新鮮でした。 これは一度教わりたいと思ったのでした。 それから更に『新・坐禅のすすめ』には、 「坐禅の間に歩行禅を取り入れることで、実際に「動静間なく」正念を相続する感覚を学んでいきます。 歩行禅にも色々な方法がありますが、一つの方法として「呼吸に心を置いたまま、その出入に合わせてゆっくり一歩一歩足を進めていく」方法があります。 すなわち吸う息に合わせて足を上げ、吐く息に合わせて足を降ろしていきます。 これは臨済宗の「速く歩く経行」は勿論、曹洞宗の「一息半歩の経行」と比べても、取り組む感覚が少し違います。 日々歩行禅を修習することで、実際に作務など「動中の工夫」のための下地を作ることができます。」 と書かれていて、私はこの「歩行禅」とはどんなものかとても興味をもって円福寺まで教わりに行ったのでした。 また政道老師に円覚寺にお越しいただいて歩行禅をご指導いただいたこともあります。 そんなご縁があって、このたび老師の晴れの儀式にお招きいただいたのでした。 法縁の有り難さをしみじみと思います。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1403回「愚を守る」
愚を守ると書いて「守愚」という言葉があります。 諸橋轍次先生の大漢和辞典には、 「かしこぶらないこと」という意味が書かれていて、 「愚を守って世途の険しきを学ばず、事無くして始めて春日の長きを知る」という用例があります。 「愚」ということは、一般にはよい意味で使われないものですが、老荘思想においては愚というのはすぐれた徳として説かれるようになっています。 谷崎潤一郎氏はその小説『刺青』の冒頭に、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」と書かれています。 『史記』老子・韓非列伝に、老子と孔子の問答があります。 岩波文庫の『史記列伝一』から現代語訳を引用します。 「孔子は周の都へおもむき、礼について老子に質問せんとした。 老子は言った、「きみが言っている人たちは、その骨といっしょに朽ちてしまった。 ただそのことばだけが存在する。 それに君子は時を得ればそれに乗り、時を得なければ、転蓬のごとくさすらう。 『良れた商人は品物を深くしまいこみ何もないように見え、君子は盛んな徳があっても、容貌は愚者に似る』とわたしは聞いた。 きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。 そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。 わたしがきみに教えられることは、それくらいのものだ」。」 というところに、君子は盛徳有って容貌愚なるが如しという言葉が出てきます。 また『老子』にも愚について説かれているところがあります。 第二十の「学を絶てば憂い無し」と説かれているところです。 講談社学術文庫の『老子 全訳註』にある現代語訳を引用しましょう。 「第二十章 〔およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みは全てなくなる〕。 学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。美しいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。 だから、学問の教えるものは全て捨てて構わないのだけれども、ただ人々の〔畏れる〕ものだけは、わたしも 〔畏れないわけにはいか〕ない。 〔道というものはぼんやりとしていて、人間にとって把えることの極めて難しい実在だ〕。 道を知ろうとしない大衆は浮き浮きとして楽しく生きている。 彼らは、あたかも大ご馳走の饗宴に臨むかのようであり、また春、高台に登ってあたりを見晴るかすかのようでもある。 しかし、わたしはつくねんとしてまだこの世に姿を現わす前の状態にいる。 あたかも〔まだ笑うことを知らない赤ん坊〕のようでもあり、またぐったりと疲れはてて〔帰るところのない者〕のようでもある。 〔大衆は〕 誰しもみなあり余る財貨を持っているけれども、わたしだけは貧乏だ。 わたしは愚か者の心の持ち主、のろのろと間が抜けている。 道を知ろうとしない世間の〔人々は、はきはきと知恵がよくまわるのに引き替え、わたしだけは〕 どんよりと暗くよどんで〔いるかのようだ〕。 世間の人々はてきぱきと敏腕を振るうのに対して、わたしだけはもたもたしている。 この道はおぼろげで果てしなく〔海〕のように拡がっており、ぼうっとどこまでも伸びて止まるところがないかのようである。 〔大衆は誰しもみな世わたりの方便を持っているが、わたしだけは頑迷固陋〕でその上わたしはただ一人、他の人々とは異なって、万物をはぐくみ育てる乳母にも譬られるこの道を大切にしたいと思う。」 というところがあります。 「我は愚人の心なり」と説かれています。 『荘子』にも 「大衆はこつこつと勤めるけれども、聖人はぼんやりと愚かである。 永遠の時間の中の出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是と見なして包みこむ。」 という一節があります。 愚公山を移すという言葉はよく知られています。 『列子』にある話です。 『広辞苑』には「北山の愚公が、齢90歳にして、通行に不便な山を他に移そうと箕で土を運び始めたので、天帝が感心してこの山を他へ移した、という寓話。たゆまぬ努力を続ければ、いつかは大きな事業もなしとげ得ることのたとえ。」と解説されています。 北山の愚公という九十近い老人がいました。 南が山でふさがっているので、その山を平らにしようと言い出したのでした。 息子と孫とで山を崩しにかかりました。 それを河曲の智叟が笑うのです。 「なんと馬鹿げたことを。老い先短いお前さんにゃ、山のかけらひとつ崩せまい。 ましてあの大きな山の土や石をどうするつもりだ」 それに対して愚公は 「わたしが死んでも子どもがいる。子どもが孫を生む。孫がまた子どもを生む。 子どもにまた子どもができる。その子どもに孫ができる。こうして子孫代々うけついで絶えることがない。だが山はいま以上高くならない。平らにできないことがあるものか」 と言ったのです。 「智叟は返すことばがなかった。山の神はこのやりとりを聞いて、愚公がとことんやりぬくのではないかと、そら恐ろしくなって天帝に訴えた。 すると天帝は愚公の熱意に打たれ、夸峨(かが)氏のふたりの子どもに命じて、ふたつの山を背おい、ひとつを朔東に、ひとつを雍南に置かせた。 これ以後、冀州から南、漢水にいたるまで小さな丘さえなくなった。」 という話です。 訳文は『中国の思想6 老子・列子』(徳間書店)から引用しました。 愚の偉大なる徳であることが示されています。 崔瑗(字は子玉。78~143)は『座右銘』で 「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり」 愚直を守ることこそ聖人の奨励することと説かれたのです。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1402回「愚は真にちかい」
十一月一日の釈宗演老師のご命日には、東慶寺様で法要と法話を務めさせてもらいました。 先にお墓参りして、それから法話に臨みました。 その日は実に穏やかな秋の日で、控え室にたたずんでいると、静寂の中に身を安んじている思いでありました。 法話はやはり今回東慶寺様で初めて宗演老師のご命日に合わせて開山忌法要が行われるようになりましたので、宗演老師について話をしました。 一通りのご生涯をお話して、今回私は『宗演禅話』の中にある「愚波羅蜜」について話をしました。 六波羅蜜というのはよく説かれています。 布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。 波羅蜜は彼岸に到ると訳されたりしますが、言葉としての意味は完成です。 『広辞苑』には、 「仏と成ることを目指す菩薩の修行項目。 原義は完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。」 と丁寧に解説されています。 六波羅蜜なら分かりますが、愚波羅蜜とは珍しい言葉です。 宗演老師はこの「愚波羅蜜」こそ、暗闇を照らす灯火であり、迷いの世界を超える車だというのです。 宗演老師は、特にこの愚のまた愚なる者を愛すると仰せになっています。 そのあとに、 「今の世、所謂政治家なる者が、政治を以て国家を害するは愚にあらずして却て智にあり。 所謂、教育家なる者が、教育を以て人の子を賊するは、拙にあらずして翻て巧にあり、 所謂宗教家なる者が、宗教を以て社会を毒するは、鈍にあらずして、反て利にあり」と説かれています。 政治家が国をだめにしてしまうのは、愚かさにあるのではなく、むしろ賢さだというのです。 教育家が子供の素晴らしい素質を奪ってしまうのでは、拙いからではなく、むしろ巧みであるからだというのです。 宗教家が社会を乱すのは、愚鈍だからではなく、賢いからだというのです。 「智と巧と利とは、偽に近し。 偽に近き者は、其の真を距る頗る遠し。」と宗演老師は説かれます。 「愚と拙と鈍とは、真に親かし」というのです。 『禅林句集』にも「其の知や及ぶべし、其の愚や及ぶべからず」 という言葉があります。 もとは『論語』にある言葉です。 岩波文庫の金谷治先生の訳によれば、 「先生が言われた、 「甯武子(ねいぶし)は国に道のあるときには智者で、国に道のないときは愚かであった。 その智者ぶりはまねできるが、その愚かぶりはまねできない」 ということです。 明治書院の『新釈漢文大系 論語』には、 「甯武子。姓は寧、名は兪、武は諡である。 衛の成公の大夫として仕えた。 朱子は衛の文公と成公に仕えたといっている(集注)が、毛奇齢が考証したように、成公元年には彼の父の荘子がまだ大夫であったから、周制は父が上卿であって、その子が国事を執ることを許さないから、武子は文公に仕えたことはあるまい。 武子の名が初めて左伝に見えるのは僖公二十八年の条で、時に衛の成公三年である。 成公は暗愚であったために、時の覇者たる晋の文公の怒りを買って国外に亡命したり、裁判をうけたり、暗殺されようとしたりして、国の難は続いた。 武子は成公を輔けてこれらの患を切りぬけて衛公の地位を復した。 」 「有道と無道」については、 「成公の治世は三十六年間であるが、武子の仕えた期間の中で、道の行われた時と、道の行われなかった時をいう。」と解説されています。 「愚には及ばざるなり」については、 「国歩艱難の時に当たって、一身の危急不利を顧みず、愚者の如くにして責任を果すことには及び難い。 責任を逃れて愚者の如く振る舞うのではない」 と書かれています。 宇野哲人先生の『論語』にある解説によると、 「甯武子は衛の大夫ですが、文公の御世にあって邦なかなか盛んであったのですが、甯武子は何事も特別なことはいたしておりません。 ところが、その後成公の御世になってから非常に国が乱れました時に、武子は非常にその間に骨を折りまして、そして随分困難なことがあったがとうとううまくまとめてしまった。 そういう困難な時はわざわざそうさわがなくても、そうっとしておけばその方が得であるのに、人はそういう面倒な時にはさわらぬ神にたたりなしでいるのが普通であるのに、甯武子は人におかしな男だといわれながらも一所懸命やった。 まことに愚というべきでしょう。 ですからその知は誰でもできるが、あの愚は到底普通の人にはできないことである。」 ということであります。 愚直というと『広辞苑』には「正直すぎて気のきかないこと。馬鹿正直」と書かれていますが、良い意味もあります。 「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり。」という言葉もあります。 これは良い意味での愚です。 愚直を守ることこそ聖人の奨励することという意味であります。 まさに宗演老師がおすすめになる愚なのであります。 「さかしら」という言葉があります。 「かしこそうにふるまうこと。利口ぶること」です。 これは真実から遠ざかります。 「愚波羅蜜」と説かれた宗演老師のお心を思ったのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1401回「死は怖くない」
「死ぬなんて寝てる続き、怖くなんかない」九十二歳になるカトリックシスターは、こともなげのそう仰いました。 同じような言葉でも、それを口にする人によって、受け止め方は大きく異なります。 シスターが、透き透るような笑顔で言われると、ほんとうにそのように思って、心が休まるものです。 そんな体験をしました。 私などもこの頃は死生観について、死をどう受け止めるか、講演したりしています。 一時間や一時間半もかけて、死をどう受け止めるか話をしますが、こんな簡単なひとことですませることができるものなのです。 東京湯島の麟祥院で、村上信夫さんが開催されている次世代継承塾に鈴木秀子先生が登壇されるというので、是非とも拝聴しなければと思って出かけてきたのでした。 その日は、早朝から種々の行事が続き、講演も務め、そのあとも海外からのお客さまをご接待していて、かなり疲れていましたが、思い切って出かけて拝聴しました。 鈴木秀子先生と村上信夫さんのやりとりを九十分拝聴しましたが、アッという間のことでした。 その日の疲れがすべて抜け落ちて、満ち足りた思いで帰ることができました。 次世代継承塾はもう32回も続いています。 なんと第一回には私がお招きいただいたのでした。 どうして私が第一回なのかと不思議に思ったのでしたが、有り難いご縁でした。 その後、回を追うごとに著名な素晴らしい先生方が登壇なされて、32回に到っています。 鈴木先生のお話が素晴らしいのはいうまでもないのですが、毎回村上さんが聞き役になっての絶妙なやりとりにまた感動するのです。 今回も村上さんが、最近鈴木先生が夢中になっている話題から入りました。 なんと「ショーヘイ」の話なのです。 大谷翔平選手を熱心に応援されているというのです。 鈴木先生は野球のことなど全くご存じなかったらしいのですが、最近栗山英樹さんとご縁ができて、栗山さんの『信じ切る力』を読んでから、大谷翔平選手のことを応援なされているというのです。 よく野球のことをご理解なさっていて、今や熱心な「ショーヘイ」ファンになっておられるのです。 鈴木先生が「ショーヘイが」と仰ると、まるで自分の孫のことを語っておられるようなのです。 こういうところもお元気の秘訣かなと思いました。 それから村上さんが最近カードでお金を下ろそうとした話をなされました。 一度におろせる限度額が変わっていたことを知らずにいらっしゃったらしく、そこでうまくおろせないので、銀行の係の方を読んで聞いたらしいのです。 ところがお忙しかったせいなのか、村上さんに対しての対応の仕方があまりよろしくなかったとのことなのです。 さすがの村上さんも「カチン」と来たというのです。 こんな「カチン」と来るようなことでいいのですかと鈴木先生に尋ねておられました。 鈴木先生は、だめよと否定することはなく、そうやってカチンと来るから世の中はよくなるのよと優しく仰っていました。 その後始まる話は、すべて肯定して受け入れるということで一貫していました。 そう言われると村上さんの表情も穏やかになられます。 そのあと鈴木先生は、もし私が銀行の者だったらと前置きして、まず村上さんのお話をよく聞いて、困っているのですねと、その困っている人の身になりますと仰います。 それだけで相手が変わってくるというのです。 そこでこちらの対応の仕方もよくなかったこと、もっと限度額が変わったことをしっかりお伝えすべきだったことをお詫びして、これからは、もし多額のお引き下ろしのときは、あらかじめお電話くださいなどと申し上げますと静かに語ってくださいました。 鈴木先生が毎日毎日お祈りをされているのですが、その内容についてもお話くださっていました。 まず第一は神の賛美です。 それから二番目には、当たり前のことへの感謝だそうです。 息が出来ること、健康で一日暮らせたこと、当たり前のことに感謝することを説かれました。 そして誰か病気したり、苦しんでいる人の幸せをお祈りされるそうなのです。 祈りは感謝なのだと教えてくださいました。 死ぬ迄一ミリでも成長し続けるということを繰り返し説いてくださいました。 自分の中で老の学校を作って、自分で自分を教育するというのです。 子供を教えるのと同じように自分を教えるというのです。 少しでも一ミリでも成長するようにと教えてくださいました。 昨晩長年一緒にいたシスターが亡くなったことをお話くださいました。 もう百歳を超えておられたそうなのです。 中国の方らしく十六歳で修道院にはいって、はたらくシスターとして、いつも黙々と、掃除をしながら、今ここを通った人が幸せでありますようにと祈り、お皿を洗っては、この食事をした人が幸せでありますようにと祈り続けられたというのです。 祈りはいつも自分を今ここに連れ戻してくれるのだと鈴木先生は仰せになっていました。 いつも人の為に祈ってご生涯を終えられたそのシスターは、とても穏やかなお顔で最期を迎えておられたそうなのです。 死は人生を全うし、永年の安らぎに入るので、祝福するのだと教えてくださいました。 そしてどんな人でも、亡くなる直前までは苦しみであっても最後は安らかによい気持ちになって息を引き取るのだと仰っていました。 死ぬ瞬間には至福の世界に入るというのです。 だから鈴木先生は「死ぬなんて寝てる続き、怖くなんかない」と語るのでした。 村上さんは鈴木先生の『機嫌よくいればだいたいのことはうまくゆく』という新しい本の話題に触れられました。 不機嫌でいるだけで周りには悪い影響を与えます。 これを鈴木先生は不機嫌のハラスメントで、フキハラだと仰っていました。 不機嫌な人がどうしたらよくなるようにできるのかと問う村上さんに、鈴木先生は、人を変える力はないと静かに語られます。 長年教育の現場にいらっしゃった鈴木先生はいつも人を変えようとしていたと、思っておられたそうです。 しかし、今はそんなことはできない、人を変えるなどおこがましいことだと仰います。 どんな人でも良いところは五十パーンセント、悪いところも五十パーセントだというのです。 私たちは、その良いところだけを見ては良い人だと思い、悪いところだけを見て悪いと思っています。 しかし、その両方をありのまま受け入れるのであって、人は変わりっこありませんと仰せになっていました。 九十分でたくさんことを学びました。 終わりになって、鈴木先生が会場に私がいることを紹介してくださり、なんと私も皆様の前でひとことご挨拶をさせてもらいました。 一心にメモをとっていると、ノートに20頁もの言葉を書いていました。 鈴木先生の温かい愛のある言葉をたくさんいただいて、すっかり日中の疲れもとれてしまいました。 自分自身が至福の世界に入ったような感じなのです。 その存在と、その言葉で人を癒やし、人を変えることができるお力を感じました。 すぐれた人には、できる限り会っておくことが大事だと改めて思いました。 終わって帰ろうとするとスタッフの方が、鈴木先生が写真を撮りたいと仰っていますと声を掛けてくださり、なんと写真も撮ってもらったのでした。 最後の最後まで鈴木先生の温かいお心に触れて、有り難い学びでありました。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1400回「季刊『禅文化』274号」
季刊『禅文化』274号がでました。 今回もとても充実した内容ですので、皆様にご紹介します。 特集は「弔いを考える」というテーマです。 それに第152回花園大学創立記念 特別対談として、栗山英樹さんと私との対談が載っています。 それからグラビアは、「建長寺・円覚寺の寺宝~宝物風入」というものです。 それに新連載として、妙心寺派管長や全日本仏教会会長、花園大学学長並びに総長を歴任された河野太通老師の聞き書きが始まりました。 「叢林を語る」は大徳寺僧堂で、令和四年に僧堂師家に就任された宇野高顕老師が語ってくださっています。 他に連載は、安永祖道老師の誌上提唱『碧巌録』です。 残念ながら、今回河野徹山老師の連載はお休みとなっています。 佐々木奘堂さんは「禅における心身について」、いのちのバネについてその2であります。 漢詩講座や瑩山禅師と良寛さんの口語についての文章もあります。 圧巻は、やはり特集です。 まず巻頭インタビューで、「弔いを考える」として佐々木道一老師が熱く語ってくださっています。 佐々木老師は、大分県の万寿寺の老師で、禅文化研究所の理事長もお勤めいただいた老師です。 私も今ご尊敬申し上げる老師のお一人であります。 この頃は、このような特集を組む編集会議にも関わっていますので、巻頭には是非とも佐々木老師のインタビューをとお願いしたのでした。 特集では 現代日本における死と葬儀 山田慎也先生 日本の葬送儀礼と死者祭祀 八木透先生 宋代禅宗における葬送儀礼 小早川浩大先生と 論文が続き、 そして「令和の弔い①」として 愛知県江南市の永正寺様の「現代における弔いの課題と工夫 永正寺の葬儀改革とその想い」として中村建岳和尚が書いてくださっています。 とても熱心な思いが伝わってきます。 それから「令和の弔い②」として 長野県松本市の神宮寺様の「神宮寺におけるお葬式の取り組み」として谷川東顕和尚が書いてくださっています。 谷川さんも、私が推薦したのでした。 巻頭インタビューから少し紹介します。 はじめに「まず、老大師は葬儀とはどういうものとお考えになられていますか。」 という問いに対して佐々木老師は、 「もちろん、亡くなった方を弔う儀式です。 一方、そこに集まってくる人は死んでいないんですよ。 ですから、生きている人に「人間は生きていて、みんないずれは死を迎えますよ」ということを悟らせる場なんですね、葬儀というのは。 ―お別れだけが目的ではないと。 はい。集まった人達に、「生老病死」の「死」というものをその場で厳粛に知らしめる儀式なんですよ。 ですから命の転生というのかな、生き続けるんです。 しかし、我々は普段、死を意識して生きていないじゃないですか。 どういう死に方をしたいのか、どういう生き方が理想なのかということを考えたら、自分の生き方が変わるし、周りへの対応の仕方も変わってくるはずです。」 と語ってくださっています。 「七、八十歳になって初めて体が動かなくなって病気が多くなってくる。 そういうことでようやく死というものを意識してくるんですが、本当に死を意識して生きたら、生き方が変わるはずです。 小さい頃から人間は「生まれ」て、「歳を取るんだよ」「病気になるんだよ」「死ぬんだよ」と、四つの苦、「四苦」というものを教育した方がいいと思います。 それが、お寺さんの仕事のはずなんです。」 とも仰せになっています。 神宮寺の谷川和尚の言葉も少し紹介します。 「「どのようなお葬式にしたいですか」。 筆者がお葬式の打ち合わせの初めに遺族に尋ねる質問だ。 故人の遺志を尊重したい、身近な家族で見送りたいなどの返答がほとんどだが、そのためにはどうしたいかと質問を重ねていく。 そんな話し合いの上で、お葬式の形を決めていく。 そんな思いに沿ったお葬式を執り行うために、お寺として、僧侶としてできることは何でもやる。 結果お葬式が遺された人たちにとって大切な時間になると考えている。」 というのです。 これが谷川さんの基本姿勢です。 決してこちらから押しつけるのではなく、「どうしたいですか」から始まるのです。 谷川さんは「神宮寺先住職の高橋通方和尚はお葬式の改革に も意欲的に取り組んできた。 わたしはそんな神宮寺のお葬式を目の当たりにし衝撃を受けた。 「葬式坊主」とは一般的に否定的な意味で使われる言葉だが、わたしは故人に真摯に向き合い、遺族の想いを汲みとれる「葬式坊主」になりたいと願い、こうして先住職の跡を継いでいる。」 と語ってくださっています。 最後の言葉も感動します。 「筆者はお葬式が大切な人を亡くした方の力になると信じているし、僧侶ができることもたくさんある。 そして、お葬式がお寺にとって大切な布教の場だと確信している。 実際に、お葬式に参列した方から「菩提寺がないので神宮寺でお葬式をしてほしい」という声も届く。 なんとなく仏式のお葬式をしていた人たちにも、お葬式の意義はきっと伝わると思う。」 と書いてくださっています。 谷川さんのお気持ちが良く伝わってきます。 安永老師の誌上提唱『碧巌録』はいつも楽しみに拝読しています。 老師の御提唱をこうして誌面で学べるのは有り難い限りです。 老師の該博な知識と、長年の御修行の体験談が織り込まれているので、読み応えのあるものです。 今回も次の言葉が印象に残りました。 「室内というものは、まず古則公案と自分が一つにならないといけない。 自分と公案というものがじっくりと一つになって、そこに自分の見解というものを得たならば初めてやってくるものであって、完全に覚えもできずに室内に入ってきたって何の所得もない。 そう急ぐものではなく、次の公案は「これ」と言われたら、その公案を正確に間違いなく自分の腑に落ちるように、じっくり自分と公案が一つになって、そうして「これ」というものを持ってくる。 師匠が言うものは何か、何が公案なのかをちゃんと確かめて、そしてそこに自分の見処を看て持ってくる、 そういう手筈を踏まないと、一回一回の参禅そのものが無駄になってしまう。」 というお言葉です。 これは公案の修行をする者にとって肝に銘ずべき大事な心構えであります。 佐々木奘堂さんは、九十二歳になるという、奘堂さんのお母さんの起き上がる姿に感動したという話が書かれています。 奘堂さんが実家に帰って庭の草刈りをしていて、お母さんはその実家で休んでおられました。 普段のお住まいのベッドからは一人で起き上がれるそうなのですが、実家にはベッドがなく布団からは起き上がれないこともあるというのです。 ところが近所のおばさんが訪ねてきたので、奘堂さんが声を掛けると、お母さんが起き上がったのでした。 その起き上がる姿を見て、奘堂さんは「きれいだな」と思ったそうなのです。 それはまさに「生命の弾機(ばね)」が、発露した姿だと思ったというのです。 奘堂さんは「寝ている姿勢から「ただ起き上がる」際に、自ずと足が先に上がり、その反動(全身のバネのはたらき)で上半身が起き上がります。 この動きを「生命のバネ」の働きが貫いています。 この生命のバネは、特定の宗教や宗派や、特定の技法などを超越した次元の「生命のはたらき」です。 この生命のバネ(はたらき)は、胎児の頃や、○歳児の赤ちゃんでは完全にはたらいていますし、九十代の老人でも完全に発揮できる可能性に充ちています。」 と説いてくださっています。 腰を立てる正身端座の極意を説いてくださっています。 かくして今回の季刊『禅文化』も読みどころ満載であります。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1399回「僧堂の修行」
先だって曹洞宗総合研究センター様に招かれて僧堂の修行について講演させてもらいました。 要点をまとめると、南嶽禅師と馬祖禅師の問答から、修行というのは特定の姿形にとらわれるものではないことがまず分かります。 では何が大事かというと、心です。 その心は見たり聞いたり歩いたり、動いたりして活動している心です。 その心こそが仏なのです。 心が仏でありますから、外に仏を求める必要はありません。 そしてその心は、体の中に収まっているようなものではなく、心の中で私たちは寝たり起きたり活動しています。 それ故に私たちの活動のすべては仏の営みになるのです。 その教えを黄檗禅師も受け継いで、一切の人は全体まるごと仏であると説かれました。 臨済禅師もまた「仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよい」と説かれたのでした。 しかし、ただなにもしないでそのままでいれば良いというのではありません。 臨済禅師もお若い頃から何も分からず真っ暗闇の中をさ迷いながら苦労されたのでした。 苦労の末に、ある時ハタと気がついたのです。 臨済禅師は、戒律をもとにした暮らしをしながら、坐禅をし、経典を読んで学んで、そして土を耕し作務をなさっていました。 この戒律に則った暮らしと、坐禅、看経、作務が、修行なのです。 それに、宋代になって禅の修行として看話禅が工夫されました。 「特定の「公案」に全意識を集中することで意識を臨界点まで追いつめ、そこで意識の爆発をおこして劇的な「大悟」の体験を得させようとする」(『語録の思想史』より)方法です。 そんな禅が日本に伝わりました。 そこで、本来仏だから何もしないでいいというのではなく、栄西禅師は戒を重視され、厳しい修行を行うようになりました。 戒に則った暮らしを清規といいます。 厳格な清規のもとに、坐禅し看経し作務をして、その中で公案を工夫するというのが禅の修行となっていったのです。 更に鈴木正三は、お百姓さんが一鍬一鍬振り下ろすごとに南無阿弥陀仏となってゆけば、その農業が仏道だと説かれたように、日常の畑仕事や掃除や庭木の剪定など、ひたすら一心に打ち込んで行えば、みな仏道になるのです。 そこで、作務に打ち込んで修行するという今の修行道場の暮らしになってきています。 そうかといって、本来仏であるから、決して厳しい修行によって何か特別なものになるのだという思いを抱いてはならないので、盤珪禅師が眠っている僧を叩くのを戒めたように、仏になろうとするより仏のままでいる方が造作がないという教えも忘れてはならないのです。 そのような内容となります。 この基本をしっかりおさえておけば、現実の様々な問題に柔軟に対応することができると思っているのであります。 私の講演のあとに曹洞宗の新井一光先生が発表なされていました。 そのなかで、睡眠と早起きについての考察がありました。 明治の終わり頃に、『僧堂教育改良論』という論説が発表なされていたそうなのです。 その中に「形式にのみに止って宗門の発達せざるは、其一大原因たるものは早起に失し、徒らに身心を疲労し、太切なる昼間に於て、正しく業務を執ること能はざるのには非ざる乎と察せらる」 ということが書かれています。 睡眠も大事なことで、無駄な時間では決してないと論じています。 修行したり仕事をするのと同じことなのだというのです。 早起きにも一定の程度があって、度を超えた早起きは「乱起暴起」だというのです。 寝る時には、徹底してよく眠り、昼間はしっかり眼を覚ましてはたらき、修行に励んでゆくのだというのです。 そこで早起きも午前四時が昔からのよい時間だというのであります。 確かに『正法眼蔵随聞記』には、次の記述があります。 講談社学術文庫の山崎正一先生の現代語訳を参照します。 「私が大宋国の天童山景徳禅寺にいたころ、如浄老師が住持であられたときだが、夜は十一時まで坐禅し、明けがたは午前二時半から三時には起きて、坐禅したものだ。住持の如浄禅師も、みなの者と共に僧堂の中で、坐禅されたものだ。それは一夜も、欠かされたことがない。 その間、僧たちは多く居眠りした。如浄禅師は、その間をまわってゆき、居眠りしている僧をみると拳骨でなぐったり、あるいは、はいている履をぬいで、それで打ち恥ずかしめ、眠りをさまして、はげましたものだ。」 と書かれています。 別のところには「亡くなった私の師匠天童如浄和尚が住持の折のことだが、僧堂でみなみな坐禅しているとき、居ねむりをしている者がいると、浄和尚は自分の履で打ちすえ、ののしり叱ったが、僧たちは、みな打たれることを喜び、有難がったものだ。」とも書かれています。 厳しい苛烈な修行であったことが察せられます。 私などもこのような修行に憧れて努力してきたつもりですが、残念ながら大半は居眠りばかりしていたと今は慚愧の思いであります。 自ら求道心をもってこのような古人の行履にならって行おうというのはいいのですが、これを無理に強要するのは難しいと思います。 明治の終わり頃にも、もう少し合理的に考えたらどうかという論説もあったことは興味深く思いました。 昔から、僧堂の修行はどうあるべきか、いろいろ考え、論じられて今日に到るのです。 肝心なところは守りながら、柔軟に対応することが大事かと思っています。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺
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第1398回「僧堂修行について」
曹洞宗の総合研究センターというところから、学術大会の講演を頼まれました。 近現代教団研究部門研究会で、僧堂教育の現在と未来というテーマで講演を依頼されたのでした。 そこで「僧堂修行について思うこと」と題して講演してきました。 このような学術大会に招かれるとはまことに恐縮でありました。 昨今、曹洞宗でも臨済宗でも僧堂の問題は大きな課題となっています。 そこで、最近私が円覚寺の僧堂でいろいろ試みていることが、曹洞宗の方のお耳にも入ったようで、講演を頼まれた次第なのです。 学術大会ですので、講演では僧堂修行の一番の根本について話をしました。 そしてその根本をおさえた上で、今日取り組んでいることをお話しました。 同じ禅宗でも私たちは馬祖から臨済へと伝わった禅の教えです。 曹洞宗は、青原禅師石頭禅師から洞山禅師へと伝わった禅の教えです。 とりわけ今日の曹洞宗は道元禅師の教えを信奉しておられます。 同じ禅とは言え、違いもあります。 そのことをお断りした上で私が学んでいる臨済の教えをお話しました。 まずは馬祖禅師と南嶽禅師の甎を磨く話をしました。 甎をいくら磨いても鏡にはならないように、いくら形だけの坐禅をしても仏にもならないという話です。 坐禅という形だけを守っているのでは、仏を殺してしまうことになるという話です。 そこで、では何が大切かというと、心だということになります。 心といってもその定義は難しいのですが、馬祖禅師や臨済禅師は、今こうして話を聞いているもの、しゃべっているもの、歩いているもの、それが心であり、仏であると説かれました。 馬祖禅師は、心こそ仏であると明示されました。 心こそ仏でありますから、仏道は何もことさらに求めるものではないのです。 もし修行して何か得るものがあるというなら、得るものは失われるものであります。 ただ汚れを受けないことが大事です。 汚れとは何かというと、ことさらに聖なる価値を外に求めて修行することです。 煩悩を斥けて悟りと求めようとすることです。 ただありのままの心がそのまま道なのです。 これが平常心是れ道という教えであります。 そしてその心は体の中に小さくおさまっているようなものではなく、むしろ心の中で私たちは活動しているのです。 私たちのあらゆる営みは、みな心のはたらきであり、仏の営みだということになるのです。 これが場祖禅師の教えの基本であります。 黄檗禅師もその教えを受け継がれています。 一切の人は全体まるごとが仏だと説かれました。 更に臨済禅師は、 「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。」(岩波文庫『臨済録』50~51頁)と説かれたのでした。 しかし、そうかといってただ何もしないでありのままでいいというのではありません。 臨済禅師も「仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ」と仰せになりながら、同時に「諸君、出家者はともかく修行が肝要である。」とも仰っています。 まだなにも分からない頃には、真っ暗な中をさまよっていたというのです。 そこから「わしなども当初は戒律の研究をし、また経論を勉学したが、後に、これらは世間の病気を治す薬か、看板の文句みたいなものだと知ったので、そこでいっぺんにその勉強を打ち切って、道を求め禅に参じた。その後、大善知識に逢って、始めて真正の悟りを得、かくて天下の和尚たちの悟りの邪正を見分け得るようになった。これは母から生まれたままで会得したのではない。体究練磨を重ねた末に、はたと悟ったのだ。(岩波文庫『臨済録』96~97頁) という経験をなさったのです。 唐代の禅の修行をみてみると、戒律を学んで戒に則った暮らしが基盤にあって、その上で坐禅し看経し作務をしていたと言えます。 これは今日の僧堂にも受け継がれています。 「体究練磨して、一朝に自ら省す」という体験をどうしたら私たちも出来るのかということで、宋の時代になってくると、公案というものを用いて、あえて修行僧を迷わせて暗闇の中をさまよわせて、その結果気づかせるという修行方法を確立してゆきました。 これが看話禅という手法であります。 あえて解釈の不能な言葉を与えて、苦しませるのであります。 苦しませておいてハッと気づかせるというものです。 その言葉を「真っ赤に焼けた鉄のかたまりを吞み込んだようなもので、吐き出そうにも吐き出すことができない。 それまでの誤った認識を根絶やしにし、ただ『無字』となってその状態を保てば、いずれ内と外が一つになるだろう。 そうすれば唖の者が夢を見たようなもので、自分だけがわかっていて、他人に伝えることはできない。 突然気がついたならば、天を驚かし地を動かすだろう。」 という『無門関』の言葉を示しました。 日本に伝わった臨済禅は、そんな看話禅でありました。 栄西禅師の『興禅護国論』に、 達磨宗の教えとして 「我われは、菩提を得ているのだから、煩悩などは存在しない。 だから、戒律は必要ではないし、修行などすることもない。 ただ寝転がっていればよいのである」と書かれています。 しかし栄西禅師は、「この人は、禅の真の教えにとって悪影響を及ぼす以外、何ものでもありません。」と否定されています。 栄西禅師はとりわけ戒律を重んじられました。 戒律をもとにした暮らしは、禅では清規といって規律正しい僧堂の暮らしとなってゆきます。 規律正しく坐禅を主とした修行が日本の禅になっていったのです。 それが鎌倉の武士などに受け入れられたのでした。 更に江戸時代の鈴木正三の言葉を紹介しました。 お百姓さんたちに農業が仏道だと説いたのでした。 一鍬一鍬南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と耕作すれば悟りに至ると説かれました。 作務をするにも、一鍬一鍬「無」「無」となりきって修行するのであります。 公案の修行と、馬祖禅師のあらゆる営みが仏のはたらきだというのが相まって、あらゆる行いに全身全霊を打ち込んでゆけば、それこそ「随処に主となれば立處皆真なり」というようになったのです。 これが今日の僧堂の修行なのであります。 しかし、いかなる営みをしていようと仏の現れであることを見失ってはいけません。 修行したから特別なものになると思ってもいけません。 そこで盤珪禅師の言葉を示しました。 眠る僧がいて、それを叩く僧がいると、眠った僧ではなくて、叩いた方の僧を叱ったという話です。 眠れば仏心で眠り、覚めたら仏心で覚めるだけのことで、仏心が別のものになるということはないというのです。 これは馬祖禅師の教えを忠実に再現しています。 いかなる営みも仏の現れなのです。 このことを忘れてはなりません。 今回私に講演を頼まれたのも、この頃警策を使わないということが、曹洞宗の和尚様のお耳にも入ったからだそうなのです。 最後には、鈴木大拙先生の 「禅者の言葉に「教壊」と云ふがある。これは、教育で却つて人間が損はれるの義である。物知り顔になつて、その実、内面の空虚なものの多く出るのは、誠に教育の弊であると謂はなくてはならぬ。(『鈴木大拙全集十巻』P227)」 という言葉を示しました。 教えるというよりも、一緒になって学んでいるのですと伝えたのでした。 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺