第1404回「法縁の有り難」

十一月三日は文化の日、もとは明治節といって明治天皇のお誕生日だったそうです。

戦後は文化の日として、「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」となったのでした。

この日は晴れになる確率が高いとも言われています。

この文化の日の前後に円覚寺では宝物風入れと、舎利殿の特別拝観を行っています。

宝物は、近年、数を限定して公開するようにしています。

国宝舎利殿はふだんお参りできませんので、この日には、多くの皆様がお参りくださっています。

また最近はこの時期に、功徳林坐禅と法話の会も開催しています。

私が法話を担当した二日は、大雨でありました。

しかし、明くる文化の日には、すっかりよい天気になったのでした。

三日の日に京都に入り、四日は妙心寺の儀式に参列していました。

京都の八幡市にある円福寺僧堂の師家政道徳門老師が、妙心寺で歴住開堂という大きな儀式をなさって、それにお招きいただいたのでした。

歴住開堂というのは、妙心寺派には二十ほどの僧堂、修行道場があり、その老師が、妙心寺の第何世住持という、妙心寺の世代に入る儀式なのです。

その日、妙心寺に第何世として就任して、はじめて妙心寺の法堂に登ってお説法をなさるのです。

はじめてお説法なさることを「開堂」といいます。

当日いただいた小冊子には次のように解説されていました。

「中国では南宋以降 清朝にいたるまで、人々の尊崇を集めた禅僧たちは、いわゆる五山十刹などの大寺院に「住持」として入りました。

こうして禅院の住持として、はじめて寺院に入ることを「入院(じゅえん)」といい、新命住持は仏祖ならびに開山禅師からの宗旨を継承して、法堂において仏法を説きました。

これを「開堂」といいます。

この儀式が日本に伝来し、変容しながらも今日の禅宗各派に伝わっています。

妙心寺における「歴住開堂式」とは、師家分上の禅僧が「歴住職」という法階を得て、古例に倣い 法堂にて最初の説法を行う儀式です。」

と書かれています。

今年の四月に愛媛の大乗寺の老師が、この歴住開堂をなさって私も参列させてもらいました。

今回の政道老師は、妙心寺の第七百十一世にご就任なされたのでした。

思い返せば、この私も二〇〇三年に円覚寺で歴住開堂の儀式を行いました。

そこで円覚寺第二百十八世に就任させてもらったのでした。

もうあれから二十一年も経つのであります。

三日の晩には、政道老師を囲んで前日の祝宴が行われました。

有り難いことに私が祝辞を述べさせてもらったのでした。

政道老師のことを、私がただいまの老師方の中で、もっともご尊敬申し上げる老師でありますと申し上げました。

そして近年いろいろとご指導いただいますと言って、開堂の無事円成と仏法の益々の興隆を祈念申し上げました。

当日も、政道老師のお人柄を表すかのような爽やかな秋の日となりました。

妙心寺伝統の儀式が粛々と進みます。

もともと堂々たる体躯の老師ですが、まさに威風堂々たるお姿でありました。

政道老師のことを知ったのは、二〇一八年に発行された季刊『禅文化』二四七号に、「『坐禅儀』を読む」という文章を拝読してからでした。

この文章に私は深く感銘を受けました。

政道老師は一九七三年のお生まれですので、私より九歳お若いのです。

二〇〇九年に円福寺の老師になられていますので、まだ三十六歳で老師になられています。

老師方が集まる時に、お姿だけをお見受けしていました。

私と同じく三十代で師家となられていますので、親近感は抱いていました。

ただこの禅文化の「『坐禅儀』を読む」を拝読して是非ともこの老師にお目にかかってみたいと思ったのでした。

ただいまこの「『坐禅儀』を読む」は、禅文化研究所発行の『新・坐禅のすすめ』で読むことができます。

とりわけ、呼吸については、これも『新・坐禅のすすめ』に、次のように書かれています。

「まずはゆっくり息を吸います。

吸いながら、頭のてっぺんが天からひもで引っ張られるイメージで、背筋を伸ばしていきます。

同時に自然にへその下(丹田)に気がみなぎるのを意識します。今度は息を吐いていきます。

吐きながら上半身が緩んでいくのを感じ、息が出て行くのを見届けます。息の出入にともなう身体の変化に心を置きながら、しばらくの間、自然な順腹式呼吸(普通の腹式呼吸)を続けます。

身体と心が「呼吸を介して」一つになっていることを確認します。

呼吸が落ち着いてきたら、さらに今度はスケールの大きな坐禅をすることを心がけます。

息を吸う時は天地の恵みを頂くように吸い、息を吐く時は自分が天地の隅々に溶け込んでいくように吐いていく。

自己と天地が「呼吸を介して」 つながっていることを意識します。」

と丁寧に解説してくださっています。

更に

「……数息観、特に随息観は「出入の息に任せる」というところがポイントですから、この時点で「呼吸を調えよう」とか「大きく吸おう」とか「長く吐こう」等、呼吸に対して計らうことを一切やめてしまいます。

そうすると実際の呼吸には、長短、粗細、深浅、実に様々なものが存在することに気付きます。

そういった次から次へとやって来ては去って行く「千姿万態の呼吸」に対して心を開いて、「一息」また「一息」と丁寧に観察していきます。呼吸に身と心を任せてしまうのがポイントです。」

と書かれています。

私などは意識的に丹田に気を集め、長く吐くことに心を用いていましたので、この解説は新鮮でした。

これは一度教わりたいと思ったのでした。

それから更に『新・坐禅のすすめ』には、

「坐禅の間に歩行禅を取り入れることで、実際に「動静間なく」正念を相続する感覚を学んでいきます。

歩行禅にも色々な方法がありますが、一つの方法として「呼吸に心を置いたまま、その出入に合わせてゆっくり一歩一歩足を進めていく」方法があります。

すなわち吸う息に合わせて足を上げ、吐く息に合わせて足を降ろしていきます。

これは臨済宗の「速く歩く経行」は勿論、曹洞宗の「一息半歩の経行」と比べても、取り組む感覚が少し違います。

日々歩行禅を修習することで、実際に作務など「動中の工夫」のための下地を作ることができます。」

と書かれていて、私はこの「歩行禅」とはどんなものかとても興味をもって円福寺まで教わりに行ったのでした。

また政道老師に円覚寺にお越しいただいて歩行禅をご指導いただいたこともあります。

そんなご縁があって、このたび老師の晴れの儀式にお招きいただいたのでした。

法縁の有り難さをしみじみと思います。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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