第1412回「姿勢は姿と勢い」

赤ん坊がハイハイして進むときには、何か目に触れたものに興味をもって向かってゆくという必然性があります。

腰を立てるにしても、ただどっこいしょで腰を立てるのではなく、何か大切なものをいただくのだと思って、手を差し伸べながら腰を立てるのです。

そんなことを佐々木奘堂さんから教わっていました。

姿勢というのは、何かに立ち向かおうという姿であり、そこに勢いがあるのです。

藤田一照さんは、宮城教育大学の学長であった林竹二先生の話をなされていました。

この話は、一照さんのご著書『現代只管打坐講義』に書かれています。

一部を引用します。

かつて宮城教育大学の学長であった林竹二先生が神戸の長田区にある定時制の湊川高校で行った授業の様子であります。

『現代只管打坐講義』にある「一九七七年二月に行われた「人間について」という最初の授業の時のはなしです。

それは「一番前の席でほおづえをついて上半身を机にあずけて「こいつ何をする気やねん?」という顔つきで林先生をぼんやり見あげているのでした。

これではとても良い姿勢になりません。

その少年は、「いつも授業中は不断のおしゃべりと不規則な行動(五分から十五分間隔で授業から抜け出す)で教師たちを翻弄しているという」のだそうです。

それが五月の「開国」の授業の時には、かれの背筋はしゃんと伸びて腰が立ち、「先生と二時間まともに向き合っていた」と記されています。

実際に一照さんからその写真を見せてもらったことを思い出しました。

同じ人間の対照的な姿勢、態度なのです。

一照さんは

「わたしが問題にしたいのは、この青年の姿勢の変化が、誰かにそうするように言われたからではなく、先生の言っていることをちゃんと聞こう、しっかり受けとめたい、深く学びたいという本人自身の内なる促しによって自発的に起きた自然な変化だったということだ。」

と書かれています。

姿勢が悪いからといって、強制的に姿勢をよくしろと言っても、その時だけは、なんとか取り繕うかもしれませんが、すぐにもとに戻ってしまいます。

一照さんも「こういう他律的な強制・矯正は一時しのぎでしかないことは火を見るより明らかであろう。

先生が見ていなければすぐまた元にもどってしまう。」と書かれているのです。

林先生は

「まるごと変わるーそれはふかいところで何かが解きはなたれて、一つの持続する自己運動がはじまることで、外から加わる力で変わってゆくのではない。

自分の中から次々と新しい自分を生み出して変わっていくのだ」というのであります。」

と書かれているのです。

この話はとても示唆に富んでいます。

この話を聞こうという気持ちが、姿を変えてゆくのです。

そこには必然性からなる勢いがあります。

全身がそちらに向いてゆくのです。

坐った姿勢から大事な何かをいただくのだと手を伸ばして腰を持ち上げようとするところに腰が立ってゆくのです。

たんなる反復練習をしてできるものとは質の違うものがあります。

奘堂さんは、中村天風先生と合気道の藤平光一先生の話をされました。

天風先生は、インドでヨガを習得して、クンバハカという技法を教えておられました。

それは

肛門を締める
肩をおとす          
腹に力を入れる

という三つからなるものです。

これを普段から意識しておくと、どんな困難な状況でも動揺しなくなる、不動の心と身体が得られるというのです。

奘堂さんは、土田國保さんの話をなされました。

土田さんは、警視総監や防衛大学校長を勤められた方です。

警視庁警務部長時代の1971年(昭和46年)12月に、お歳暮の贈答品に擬装された爆弾が自宅に郵送されました。

この爆発により土田さんの奥様はお亡くなりになったのでした。

ご子息も重傷を負われました。

そんな怒りや悲しみの中でも、土田さんは、お尻の穴を締めて、肩の力を抜いて、へその下に力を込めて対処されていたという話です。

そんなことを防衛大学校の校長の折りに、学生さん達に訓示していたそうです。

その教えを受けたのが、宮城県知事となった村井さんだという話でした。

そのように天風先生の教えが生きているといえるのですが、藤平先生は、その方法は間違っていると指摘されたというのです。

藤平光一先生の『中村天風と植芝盛平 氣の確立』という本にある話です。

私もずいぶん以前に読んだことのある本であります。

たしかに、そこには、藤平先生が「私はある時天風先生に、クンバハカのような、あんな呼吸法はダメですよと言ったことがある」と書かれています。

天風先生は、インドでヨガを習ってご自身では不動の心と身体を体得されていたのだと思いますが、言葉にして教えようとすると、十分には伝わらないということかと、私は受け止めていました。

自分が体得したことを言葉で表現して人に伝えようとしても無理があるのです。

その言葉を聞いて稽古してみようとしても天風先生のようにはなかなかなれないのです。

この辺がとても難しい問題です。

気を丹田に充たしめると言葉にして伝えようとすると、伝える側は、丹田に気が満ちた状態になっていても、言葉を聞いてならっている方は、無理に力んで腹筋に力をいれているだけであったりします。

このあたりが伝えることの難しさです。

そこに必然性が感じられないのに、ただ方法論だけでは伝わらないのです。

よし、やるぞという気迫、立ち向かうという気力が原動力なのであります。

姿勢はまさに姿と勢いなのであります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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