第1403回「愚を守る」

愚を守ると書いて「守愚」という言葉があります。

諸橋轍次先生の大漢和辞典には、

「かしこぶらないこと」という意味が書かれていて、

「愚を守って世途の険しきを学ばず、事無くして始めて春日の長きを知る」という用例があります。

「愚」ということは、一般にはよい意味で使われないものですが、老荘思想においては愚というのはすぐれた徳として説かれるようになっています。

谷崎潤一郎氏はその小説『刺青』の冒頭に、「其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。」と書かれています。

『史記』老子・韓非列伝に、老子と孔子の問答があります。

岩波文庫の『史記列伝一』から現代語訳を引用します。

「孔子は周の都へおもむき、礼について老子に質問せんとした。

老子は言った、「きみが言っている人たちは、その骨といっしょに朽ちてしまった。

ただそのことばだけが存在する。

それに君子は時を得ればそれに乗り、時を得なければ、転蓬のごとくさすらう。

『良れた商人は品物を深くしまいこみ何もないように見え、君子は盛んな徳があっても、容貌は愚者に似る』とわたしは聞いた。

きみの高慢と欲望、ようすぶることと多すぎる志をのぞくことだ。

そんなことはどれもきみの身にとっては無益だ。 わたしがきみに教えられることは、それくらいのものだ」。」

というところに、君子は盛徳有って容貌愚なるが如しという言葉が出てきます。

また『老子』にも愚について説かれているところがあります。

第二十の「学を絶てば憂い無し」と説かれているところです。

講談社学術文庫の『老子 全訳註』にある現代語訳を引用しましょう。

「第二十章

〔およそ学問さえ捨ててしまえば、我々の抱く悩みは全てなくなる〕。

学問によって教えられる、ハイという返辞とコラという怒鳴り声とは、そもそもどれほどの違いがあろうか。美しいものと醜いものとは、一体、どれほどの隔たりがあろうか。

だから、学問の教えるものは全て捨てて構わないのだけれども、ただ人々の〔畏れる〕ものだけは、わたしも 〔畏れないわけにはいか〕ない。

〔道というものはぼんやりとしていて、人間にとって把えることの極めて難しい実在だ〕。

道を知ろうとしない大衆は浮き浮きとして楽しく生きている。

彼らは、あたかも大ご馳走の饗宴に臨むかのようであり、また春、高台に登ってあたりを見晴るかすかのようでもある。

しかし、わたしはつくねんとしてまだこの世に姿を現わす前の状態にいる。

あたかも〔まだ笑うことを知らない赤ん坊〕のようでもあり、またぐったりと疲れはてて〔帰るところのない者〕のようでもある。

〔大衆は〕 誰しもみなあり余る財貨を持っているけれども、わたしだけは貧乏だ。

わたしは愚か者の心の持ち主、のろのろと間が抜けている。

道を知ろうとしない世間の〔人々は、はきはきと知恵がよくまわるのに引き替え、わたしだけは〕 どんよりと暗くよどんで〔いるかのようだ〕。

世間の人々はてきぱきと敏腕を振るうのに対して、わたしだけはもたもたしている。

この道はおぼろげで果てしなく〔海〕のように拡がっており、ぼうっとどこまでも伸びて止まるところがないかのようである。

〔大衆は誰しもみな世わたりの方便を持っているが、わたしだけは頑迷固陋〕でその上わたしはただ一人、他の人々とは異なって、万物をはぐくみ育てる乳母にも譬られるこの道を大切にしたいと思う。」

というところがあります。

「我は愚人の心なり」と説かれています。

『荘子』にも

「大衆はこつこつと勤めるけれども、聖人はぼんやりと愚かである。

永遠の時間の中の出来事をこき雑ぜて、ひたすら世界を純粋さへと高めていき、万物を全て然りと言って斉同化して、万物を尽く是と見なして包みこむ。」

という一節があります。

愚公山を移すという言葉はよく知られています。

『列子』にある話です。

『広辞苑』には「北山の愚公が、齢90歳にして、通行に不便な山を他に移そうと箕で土を運び始めたので、天帝が感心してこの山を他へ移した、という寓話。たゆまぬ努力を続ければ、いつかは大きな事業もなしとげ得ることのたとえ。」と解説されています。

北山の愚公という九十近い老人がいました。

南が山でふさがっているので、その山を平らにしようと言い出したのでした。

息子と孫とで山を崩しにかかりました。

それを河曲の智叟が笑うのです。

「なんと馬鹿げたことを。老い先短いお前さんにゃ、山のかけらひとつ崩せまい。

ましてあの大きな山の土や石をどうするつもりだ」

それに対して愚公は

「わたしが死んでも子どもがいる。子どもが孫を生む。孫がまた子どもを生む。
子どもにまた子どもができる。その子どもに孫ができる。こうして子孫代々うけついで絶えることがない。だが山はいま以上高くならない。平らにできないことがあるものか」

と言ったのです。

「智叟は返すことばがなかった。山の神はこのやりとりを聞いて、愚公がとことんやりぬくのではないかと、そら恐ろしくなって天帝に訴えた。

すると天帝は愚公の熱意に打たれ、夸峨(かが)氏のふたりの子どもに命じて、ふたつの山を背おい、ひとつを朔東に、ひとつを雍南に置かせた。

これ以後、冀州から南、漢水にいたるまで小さな丘さえなくなった。」

という話です。

訳文は『中国の思想6 老子・列子』(徳間書店)から引用しました。

愚の偉大なる徳であることが示されています。

崔瑗(字は子玉。78~143)は『座右銘』で

「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり」

愚直を守ることこそ聖人の奨励することと説かれたのです。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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