第1400回「季刊『禅文化』274号」

季刊『禅文化』274号がでました。

今回もとても充実した内容ですので、皆様にご紹介します。

特集は「弔いを考える」というテーマです。

それに第152回花園大学創立記念 特別対談として、栗山英樹さんと私との対談が載っています。

それからグラビアは、「建長寺・円覚寺の寺宝~宝物風入」というものです。

それに新連載として、妙心寺派管長や全日本仏教会会長、花園大学学長並びに総長を歴任された河野太通老師の聞き書きが始まりました。

「叢林を語る」は大徳寺僧堂で、令和四年に僧堂師家に就任された宇野高顕老師が語ってくださっています。

他に連載は、安永祖道老師の誌上提唱『碧巌録』です。

残念ながら、今回河野徹山老師の連載はお休みとなっています。

佐々木奘堂さんは「禅における心身について」、いのちのバネについてその2であります。

漢詩講座や瑩山禅師と良寛さんの口語についての文章もあります。

圧巻は、やはり特集です。

まず巻頭インタビューで、「弔いを考える」として佐々木道一老師が熱く語ってくださっています。

佐々木老師は、大分県の万寿寺の老師で、禅文化研究所の理事長もお勤めいただいた老師です。

私も今ご尊敬申し上げる老師のお一人であります。

この頃は、このような特集を組む編集会議にも関わっていますので、巻頭には是非とも佐々木老師のインタビューをとお願いしたのでした。

特集では

現代日本における死と葬儀 山田慎也先生

日本の葬送儀礼と死者祭祀 八木透先生

宋代禅宗における葬送儀礼 小早川浩大先生と

論文が続き、

そして「令和の弔い①」として

愛知県江南市の永正寺様の「現代における弔いの課題と工夫 永正寺の葬儀改革とその想い」として中村建岳和尚が書いてくださっています。

とても熱心な思いが伝わってきます。

それから「令和の弔い②」として

長野県松本市の神宮寺様の「神宮寺におけるお葬式の取り組み」として谷川東顕和尚が書いてくださっています。

谷川さんも、私が推薦したのでした。

巻頭インタビューから少し紹介します。

はじめに「まず、老大師は葬儀とはどういうものとお考えになられていますか。」
という問いに対して佐々木老師は、

「もちろん、亡くなった方を弔う儀式です。

一方、そこに集まってくる人は死んでいないんですよ。

ですから、生きている人に「人間は生きていて、みんないずれは死を迎えますよ」ということを悟らせる場なんですね、葬儀というのは。

―お別れだけが目的ではないと。

はい。集まった人達に、「生老病死」の「死」というものをその場で厳粛に知らしめる儀式なんですよ。

ですから命の転生というのかな、生き続けるんです。

しかし、我々は普段、死を意識して生きていないじゃないですか。

どういう死に方をしたいのか、どういう生き方が理想なのかということを考えたら、自分の生き方が変わるし、周りへの対応の仕方も変わってくるはずです。」

と語ってくださっています。

「七、八十歳になって初めて体が動かなくなって病気が多くなってくる。

そういうことでようやく死というものを意識してくるんですが、本当に死を意識して生きたら、生き方が変わるはずです。

小さい頃から人間は「生まれ」て、「歳を取るんだよ」「病気になるんだよ」「死ぬんだよ」と、四つの苦、「四苦」というものを教育した方がいいと思います。

それが、お寺さんの仕事のはずなんです。」

とも仰せになっています。

神宮寺の谷川和尚の言葉も少し紹介します。

「「どのようなお葬式にしたいですか」。

筆者がお葬式の打ち合わせの初めに遺族に尋ねる質問だ。

故人の遺志を尊重したい、身近な家族で見送りたいなどの返答がほとんどだが、そのためにはどうしたいかと質問を重ねていく。

そんな話し合いの上で、お葬式の形を決めていく。

そんな思いに沿ったお葬式を執り行うために、お寺として、僧侶としてできることは何でもやる。

結果お葬式が遺された人たちにとって大切な時間になると考えている。」

というのです。

これが谷川さんの基本姿勢です。

決してこちらから押しつけるのではなく、「どうしたいですか」から始まるのです。
谷川さんは「神宮寺先住職の高橋通方和尚はお葬式の改革に
も意欲的に取り組んできた。

わたしはそんな神宮寺のお葬式を目の当たりにし衝撃を受けた。

「葬式坊主」とは一般的に否定的な意味で使われる言葉だが、わたしは故人に真摯に向き合い、遺族の想いを汲みとれる「葬式坊主」になりたいと願い、こうして先住職の跡を継いでいる。」

と語ってくださっています。

最後の言葉も感動します。

「筆者はお葬式が大切な人を亡くした方の力になると信じているし、僧侶ができることもたくさんある。

そして、お葬式がお寺にとって大切な布教の場だと確信している。

実際に、お葬式に参列した方から「菩提寺がないので神宮寺でお葬式をしてほしい」という声も届く。

なんとなく仏式のお葬式をしていた人たちにも、お葬式の意義はきっと伝わると思う。」

と書いてくださっています。

谷川さんのお気持ちが良く伝わってきます。

安永老師の誌上提唱『碧巌録』はいつも楽しみに拝読しています。

老師の御提唱をこうして誌面で学べるのは有り難い限りです。

老師の該博な知識と、長年の御修行の体験談が織り込まれているので、読み応えのあるものです。

今回も次の言葉が印象に残りました。

「室内というものは、まず古則公案と自分が一つにならないといけない。

自分と公案というものがじっくりと一つになって、そこに自分の見解というものを得たならば初めてやってくるものであって、完全に覚えもできずに室内に入ってきたって何の所得もない。

そう急ぐものではなく、次の公案は「これ」と言われたら、その公案を正確に間違いなく自分の腑に落ちるように、じっくり自分と公案が一つになって、そうして「これ」というものを持ってくる。

師匠が言うものは何か、何が公案なのかをちゃんと確かめて、そしてそこに自分の見処を看て持ってくる、

そういう手筈を踏まないと、一回一回の参禅そのものが無駄になってしまう。」

というお言葉です。

これは公案の修行をする者にとって肝に銘ずべき大事な心構えであります。

佐々木奘堂さんは、九十二歳になるという、奘堂さんのお母さんの起き上がる姿に感動したという話が書かれています。

奘堂さんが実家に帰って庭の草刈りをしていて、お母さんはその実家で休んでおられました。

普段のお住まいのベッドからは一人で起き上がれるそうなのですが、実家にはベッドがなく布団からは起き上がれないこともあるというのです。

ところが近所のおばさんが訪ねてきたので、奘堂さんが声を掛けると、お母さんが起き上がったのでした。

その起き上がる姿を見て、奘堂さんは「きれいだな」と思ったそうなのです。

それはまさに「生命の弾機(ばね)」が、発露した姿だと思ったというのです。

奘堂さんは「寝ている姿勢から「ただ起き上がる」際に、自ずと足が先に上がり、その反動(全身のバネのはたらき)で上半身が起き上がります。

この動きを「生命のバネ」の働きが貫いています。

この生命のバネは、特定の宗教や宗派や、特定の技法などを超越した次元の「生命のはたらき」です。

この生命のバネ(はたらき)は、胎児の頃や、○歳児の赤ちゃんでは完全にはたらいていますし、九十代の老人でも完全に発揮できる可能性に充ちています。」

と説いてくださっています。

腰を立てる正身端座の極意を説いてくださっています。

かくして今回の季刊『禅文化』も読みどころ満載であります。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?