第1402回「愚は真にちかい」

十一月一日の釈宗演老師のご命日には、東慶寺様で法要と法話を務めさせてもらいました。

先にお墓参りして、それから法話に臨みました。

その日は実に穏やかな秋の日で、控え室にたたずんでいると、静寂の中に身を安んじている思いでありました。

法話はやはり今回東慶寺様で初めて宗演老師のご命日に合わせて開山忌法要が行われるようになりましたので、宗演老師について話をしました。

一通りのご生涯をお話して、今回私は『宗演禅話』の中にある「愚波羅蜜」について話をしました。

六波羅蜜というのはよく説かれています。

布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つです。

波羅蜜は彼岸に到ると訳されたりしますが、言葉としての意味は完成です。

『広辞苑』には、

「仏と成ることを目指す菩薩の修行項目。

原義は完成・熟達・通暁の意であるが、現実界(生死輪廻)の此岸から理想界(涅槃)の彼岸に到達すると解釈して、到彼岸・度彼岸・度と漢訳する。特に大乗仏教で菩薩の修行法として強調される。」

と丁寧に解説されています。

六波羅蜜なら分かりますが、愚波羅蜜とは珍しい言葉です。

宗演老師はこの「愚波羅蜜」こそ、暗闇を照らす灯火であり、迷いの世界を超える車だというのです。

宗演老師は、特にこの愚のまた愚なる者を愛すると仰せになっています。

そのあとに、

「今の世、所謂政治家なる者が、政治を以て国家を害するは愚にあらずして却て智にあり。

所謂、教育家なる者が、教育を以て人の子を賊するは、拙にあらずして翻て巧にあり、

所謂宗教家なる者が、宗教を以て社会を毒するは、鈍にあらずして、反て利にあり」と説かれています。

政治家が国をだめにしてしまうのは、愚かさにあるのではなく、むしろ賢さだというのです。

教育家が子供の素晴らしい素質を奪ってしまうのでは、拙いからではなく、むしろ巧みであるからだというのです。

宗教家が社会を乱すのは、愚鈍だからではなく、賢いからだというのです。

「智と巧と利とは、偽に近し。

偽に近き者は、其の真を距る頗る遠し。」と宗演老師は説かれます。

「愚と拙と鈍とは、真に親かし」というのです。

『禅林句集』にも「其の知や及ぶべし、其の愚や及ぶべからず」
という言葉があります。

もとは『論語』にある言葉です。

岩波文庫の金谷治先生の訳によれば、

「先生が言われた、

「甯武子(ねいぶし)は国に道のあるときには智者で、国に道のないときは愚かであった。

その智者ぶりはまねできるが、その愚かぶりはまねできない」

ということです。

明治書院の『新釈漢文大系 論語』には、

「甯武子。姓は寧、名は兪、武は諡である。

衛の成公の大夫として仕えた。

朱子は衛の文公と成公に仕えたといっている(集注)が、毛奇齢が考証したように、成公元年には彼の父の荘子がまだ大夫であったから、周制は父が上卿であって、その子が国事を執ることを許さないから、武子は文公に仕えたことはあるまい。

武子の名が初めて左伝に見えるのは僖公二十八年の条で、時に衛の成公三年である。

成公は暗愚であったために、時の覇者たる晋の文公の怒りを買って国外に亡命したり、裁判をうけたり、暗殺されようとしたりして、国の難は続いた。

武子は成公を輔けてこれらの患を切りぬけて衛公の地位を復した。 」

「有道と無道」については、

「成公の治世は三十六年間であるが、武子の仕えた期間の中で、道の行われた時と、道の行われなかった時をいう。」と解説されています。

「愚には及ばざるなり」については、

「国歩艱難の時に当たって、一身の危急不利を顧みず、愚者の如くにして責任を果すことには及び難い。

責任を逃れて愚者の如く振る舞うのではない」

と書かれています。

宇野哲人先生の『論語』にある解説によると、

「甯武子は衛の大夫ですが、文公の御世にあって邦なかなか盛んであったのですが、甯武子は何事も特別なことはいたしておりません。

ところが、その後成公の御世になってから非常に国が乱れました時に、武子は非常にその間に骨を折りまして、そして随分困難なことがあったがとうとううまくまとめてしまった。

そういう困難な時はわざわざそうさわがなくても、そうっとしておけばその方が得であるのに、人はそういう面倒な時にはさわらぬ神にたたりなしでいるのが普通であるのに、甯武子は人におかしな男だといわれながらも一所懸命やった。

まことに愚というべきでしょう。

ですからその知は誰でもできるが、あの愚は到底普通の人にはできないことである。」

ということであります。

愚直というと『広辞苑』には「正直すぎて気のきかないこと。馬鹿正直」と書かれていますが、良い意味もあります。

「愚を守るは聖の臧(よみ)する所なり。」という言葉もあります。

これは良い意味での愚です。

愚直を守ることこそ聖人の奨励することという意味であります。

まさに宗演老師がおすすめになる愚なのであります。

「さかしら」という言葉があります。

「かしこそうにふるまうこと。利口ぶること」です。

これは真実から遠ざかります。

「愚波羅蜜」と説かれた宗演老師のお心を思ったのでした。
 
 
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺

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