大学・高等教育とは?(仮)
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ここは作成当初は専門性について記載しようと思っていたものの、今更私が専門性について書く意味もないよな…それより今起きている大学、高等教育改革やその構造について書くことにするか、と、例によって路線変更することにしたページです。そのため、3月末時点で日本語教育や継承語教育、海外子女帰国子女教育関連で別ページから貼ってしまっていたリンクの中身としてはずれてしまっている可能性があります(一つ一つ確認する気力が出ず、修正できなくてすみません、、)。
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大学や高等教育については、法人や人権委員会等のこととも絡み、最終的な絶望と自死の理由でもありおそらく今一番混沌としている部分であるらしく、もう二か月位、書こう書こうと思う度に気持ち悪くなり魘されるばかりで一向に進まなかった。ところで、平畑先生の一件があったので、差し当たりここを入り口に、また書きながらのだらだら更新になりそうだけれども、とりあえず始めてみることにした。
現時点で最終像は全く見えていないし、まとまりを持った内容に収斂するのかは未定である。(例によって、構成も考えずあちこち行ったり来たりになる可能性も高いのでかなり読みづらいと思います、、)
これはコロナ感染や特に後遺症の現状を追っている者からすれば完全にアウトな言いがかりであり、揶揄。
ヒラハタクリニックに患者が殺到しているのは元々対応していた所が少なかったの加え、診療報酬がつかないからと後遺症外来をやめてしまったところも多く、患者の受け入れ先が非常に限られているから。そして平畑先生はパンデミック初期から後遺症や治療法について研究実践を積み重ね、かつ、患者さん方の細い声を真摯に受け止め続けてきた方だから。「特別な事情」などとあたかも不当に高い評価を得たり注目をされたり(例えばコネや癒着がそうさせている)という印象を誘導しようとしているようだが、全く違って、真っ当な診療と「患者さん側からの高い評価」で求められている方なんだよ。
「特殊」と揶揄されているのは、東洋医学の経絡治療。以下にもあるように、これは患者さん方や東洋医学、あるいは後遺症情報を追っている者にはお馴染みのもの。コロナ後遺症は西洋医学のみで有効な手立てはなく、各所で特に漢方薬の処方等、東洋医学を組み合わせた治療が手探りで行われているのだが、平畑先生はそこに物理療法も組み合わせている。そしてこれが非常に効果を上げているということで患者さん方に感謝されているのだ。
上記のツイートは、はじめはお仲間の医クラ同士で先生を揶揄し合って盛り上がっていたのだが、患者さんや実際の患者さんではなくても先生のなさってきたことを知っている方からの反論(先生への擁護や実際に経絡治療などが効いている等という書き込み)が集まり、平畑先生ご自身の以下の反論もあり、鍵垢化やツイ消し等による火消しが相次いだ。
行われていることの背景もふまえず、理解するための目や知識も持たない者が恥ずかしげもなく不適切な言説を行っていた(足りない素地による憶測のみで)ということは、その「足りなさ」も、自らの行っていることの背景「も」理解している者の側からは明らか。
これは「国語教育」の目しか持たない者が「日本語教育」的に必要性のあることや、言語教育的知見があれば気付ける生徒達の困難や苦痛が見えず、ただ「簡単な国語」や「漢字」を「国語教師」が教えれば生徒の学習言語含む日本語能力が伸びると「学問的知見も根拠もない【現実に反した思い込み】」にとらわれていることが、【国語教育の目も日本語教育の目も(+英語教育の目も)】持つ者の側からは明らかであった一方、いくらそれを伝えたところで全く聞く耳を持たれず、挙句、弱い立場の日本語非常勤の側が当然の如く退職させられたこと、つまり、行政部及び国語科を中心とする国際基督教大学高等学校(通称ICU高校、ICUハイ、ICUHS)の日本語能力に困難を抱える生徒への無配慮無理解や日本語科非常勤講師への加害とまったく同じ構造である。吐き気がする。
西洋医学の見地から東洋医学は軽視敵視される傾向があるようだ(大学における言語教育、言語教育の知見を持たない者からの日本語教育も軽視されている)。件の医師も、平畑先生がまるでいかがわしい似非治療でも行って患者さん方を鴨にでもしているかのような書きぶりだった。事実無根も甚だしい。
平畑先生は西洋医学の資格を持ちながら、それではどうにも解決できない現状に対処するため、意味のない枠にはとらわれず、ご自身のご専門でない分野へも積極的に知見を求めにいき、地道な研究修練と実践を重ねていらっしゃるんだよ。そしてそれらは実際に身を結び、多くの患者さんの苦痛を和らげている。
実情に合わせて採りうる選択肢の中からなるべく合理的で、なにより【デメリットと患者さんへの経済的負担が少ないもの】を、ベストが無い中でなるべくベターなものを、【当事者に寄り添って】模索なさっているということが、コロナもコロナ後遺症もその患者さん達の置かれている状況や困難も東洋医学も全く理解していない者からは全く見えていないのだ。そのくせ【自分こそが正しく相手が不当であるという謎の自負(無根拠)】でもって、よりによってより広い目や知識を持つ側を、【盲目のまま】叩いている。実に恥ずべきことである。
きちんと知って自分に確かな足場を築けている自由な方はとても謙虚で他者を尊重する。それは異なる専門性や背景を持つ者へだって、当たり前に向けられる。
平畑先生の優しく温かな眼差し、東洋医学の尊重や研究実践、柔軟でしなやかなんだけど芯の強いところは私が好きだった先生方とよく似ている。
既知のことで対応できない未知のon goingなことに、悠長にエビデンスを求めている暇は無い。だから先生は研究と実践と患者さん方との対話(反応含む)を並行し、better waysを模索なさっている。
実際苦しんでいる方々を前に、既に確立されている手法/自分にcapableな枠の中のものだけで、対応できないとか方法が無いとか、無配慮に「NO」を突きつける医師がどれだけ多いことか。それがどれだけ、ただでさえつらい患者さん達の心を抉ることか(免許に胡座をかき上から権威を振り翳すタイプの傲慢な人間は医者にも教師にもいる。この手の人間は自分が知らないことは存在しない不可能であるかのように当然のごとく振る舞うが、それは知識の無更新/知見の狭さによって生じている場合も多い。しかし当人達がそれを認めることはない。自分の優位な立場を利用するわけだ。そういえば、私の突発性難聴?も原因不明で対策無しと「専門医に」言われたっけね)。
平畑先生は、そうやって散々、つらい中、救いを求めていったはずの医師や医療に「拒絶」され「絶望」させられてきた患者さん達の、本当に数少ない受け皿、絶望の中でもなんとか生を繋ぎ止めるための光になっているんだよ。
先生の治療に辿り着けた人の中でも3人が「自死」しているということからも、後遺症がどれだけしんどいか、症状由来の物理的精神的ダメージ、それに加えて【理解されないこと、拒絶されること、存在や尊厳を否定されること】や【見込みがないこと、見通しが立たないこと、ポジティブなビジョンを全く描けないこと】、全て相まっての【絶望】がどれだけ深く致命的だったかが窺える。
今のこの状況がいつまで続くのか、改善することがあるのか、自分も他人も、無理解無配慮や理不尽暴力をつきつけてくる加害者は勿論、直接攻撃してくることなんかない無害な人や支えてくれようとしているのが明らかな先生のような方でさえ、信じることができない、
その信じられないということがさらに、自分に刃を突き立てる、自分で自分の傷を広げていくことになる、
どこへ行こうとしても道は塞がっている、理不尽や暴力は続き繰り返される、それが焼き付く、
どうして自分だけがと思っていたのなんて全然序の口、そのうち、改善や理解や救いを望むこと自体が無駄だったんだと気付く、ループを断ち切ること、終わらせることこそが出口だ
なんて、思わなきゃいけない人を増やしてはいけない。絶望を、作ってはいけない。
平畑先生は西洋医学で糸口が見出せない状況から、東洋医学の知見や実践にもヒントを求め、経絡治療についてはご多忙な中を名手の元に修行?に行ったりもして、手探りの中、自分や患者さんで試行錯誤と実践積み重ねて、確かな効果を上げるようになっている。
そしてその一方で時間と身体は物理的に有限だし、先生だけでは直接受け入れきれない、あまりにも多くの患者さんが溢れているからと、患者さんが自宅で行えるセルフケアの方法を【無料公開】し、同時に鍼灸師など、元々東洋医学で診療に当たっている方々へのコロナ後遺症&後遺症治療についての情報公開も行っていらっしゃる。
コロナ後遺症で苦しむ人の苦痛や困難を少しでも和らげられるように、症状の緩和に携われる自分以外の人を少しでも増やせるようにと、どんどん【ノウハウを惜しげもなく開いて】いっていらっしゃるんだよ。
銭ゲバだなんてとんでもない。真逆。
儲けたいんだったら、保険診療で点数もつかない経絡治療なんてするわけないし、それこそ高額な自由診療で、誰でも安価で手にできるプチリラクなんて器具ではなくて、同等なものを別名にして診療とセットにして高額で売りつけたりすればいいんだよ。ニーズはいくらでもあるんだし、既に知名度も確立していて常に予約待ちの状態、それこそ京都の祭りや各地花火大会の高額席みたいに、新自由主義万歳で金に物を言わせてサービスを買い取る大金持ち小金持ちだけを相手に、太く短く稼ぐことだって、いくらでもできる。でも決してそうはなさらない。
先生はおそらくご自身への@ツイート引用リツイートにはほぼ目を通していらして、悪意のある物以外には全ていいねを返していらっしゃるのではないかと推測されるんだけど、そのいいねがつく時間が、とにかく遅いんだよ、午前3時過ぎとかがざら。はじめは呑気に「先生も夜型なのかな」なんて思っていたんだけど、よくよく考えたら直前に「オンライン診療終了しました」なんて投稿があったりして、その時間(深夜も深夜)まで、患者さんの診療に当たっていらしたんだと、ある時気付いて呆然とした。
一人でも多くの患者さんを診るために、身を粉にして、今年はお盆にすら休まずに働き続けていらっしゃる。薄利多売状態もいいところで、それでも全然(おそらく働けば働くほど)儲からない。
先生を突き動かしているものはお金ではなく患者さんへの想いなんだよ。件の医師によるいわれのない揶揄にきちんと怒り反論なさったのも、ご自身のことより患者さんへの影響があるから。私利私欲ではなく【利他】の方。元々そうだろうなとは思っていたんだけど、今回の件で改めて確信した。
以前、先生が「医療に身を捧げた」みたいなことを書いていらしたような記憶もあるんだけど、どのようにして先生がそこへ至ったのかには非常に興味がある。おそらく、そうならざるを得なかった背景があるはず。先生の視点は決して、地位や名声、学歴などの「ラベル」で医学部や医師を目指しそのまま成功した者による、「勝ち組、勝者、強者の側から弱者を見下ろす(&当然のごとく弱者に無理解無配慮や理不尽暴力を突きつける)」ものではない。
幼少期から何不自由なく脅かされることもなく常にマジョリティー、強者の立場で一貫して成功し続けていた者は、どんなに対外的には取り繕っていたとしても、弱者の視点を体感も理解もすることがなく、容赦なく切り捨て排除する(「人権」「多様性」「対話」など美辞麗句を並べ立てながら無効化し、不合理を合理と捻じ曲げ、「全て無かったことにして解決」させた国際基督教大学法人のように)。
国際基督教大学法人、人権委員会は、筆者の申立書に記載された「感染させられること、ノーマスク、後遺症への恐怖」を無視した/理解しなかった/理解しようとしなかった国際基督教大学高等学校行政部及び国語科(専任)による日本語科非常勤講師へのパワハラ、業務剥奪を肯定したのだが、これは広報上のアピールとは異なり、法人組織にはマジョリティー、強者の側からの視点のみしか存在せず、マイノリティー、異なる者特に弱者や見えない困難への無理解無配慮排他性が強いことの露呈であり、実に不適切である。
そしてこのような、仮面をつけてマイノリティーや弱者への理解配慮、寛容の姿勢を有しているように装い見せかけ思いこませながらの【実質、結局、マジョリティー強者勝者の側からマイノリティーや弱者を叩き潰す】人間や組織集団こそが、実はより悪質であったりもする。
これは平畑先生が8月20日にめざましテレビにご出演なさった際のコメンテーターの発言(Youtubeで動画が公開されているのでご覧ください。スタジオコメント以外は妥当な内容です)。
コロナ後遺症をコロナに関係ない抑うつと何が違うのか、「思い込み」だ、そんなことは考えずに別の事に集中すれば、等と、後遺症の実情も罹患者の方々のお気持ちも全く無視した無神経なことを恥ずかしげもなく言っている。
TVを持っていない&見ないので知らなかったのだが、両親離婚父親暴力の機能不全家庭、父親と衝突→不登校入院→郁文館グローバルで高校在学中にNZへ1年間留学→SFC、NPO法人「あなたのいばしょ」設立、その後内閣官房孤独・孤立の実態把握に関する研究会構成員、こども家庭庁こども家庭審議会こどもの居場所部会委員、東京都こども未来会議委員になるなど、まあ、逆境からの成功を収めた若手売れっ子らしい。その新自由主義的勝者性が見事に体制のニーズとも合致しているので互いにウィンウィンの売れぶりなのだろう。
タレント弁護士元府知事やビリギャル等もそうなのだが、逆境の中でも成果を上げ勝ち組強者の側に成り上がった者の中には、自身の経験を基準に、辛い中でも恵まれた部分もあったから自分は成功できた側面があるのをふまえず、「やればできるのにできないのは努力が足りないからだ」と平気で(自分のようになれなかった)弱者を切り捨てる人間が出る。(自分だけは治外法権の免責、自分の過失や当人に非が無い不幸を他者のせいにし責任を取らせる歪んだ)「自己責任」が大好きな排外主義者化するのである。そしてこの手の人間こそが、新自由主義が蔓延した政財界、そして社会の申し子的存在になっていく。使いやすいのでね。(ちなみに郁文館はワタミの人が理事長なので、まあ、相当に新自由主義の価値観が浸透しているんだろう。)
表面的には弱者に寄り添うような立場に見せかけて真逆なんだよ。本質的に弱者の側にいない。だから、苦しむ人々を突き放し絶望に陥れるような「気のせい、思い込み」「お前が悪い」「やればできる」「本当はできるはず」「どうしてしない」「努力しろ」等、無理解無配慮で頓珍漢な言動を平気で行えてしまう。勝者様強者様の目なのでね。
ここが体制側、生まれながらの勝者強者様その取り巻きの利害と一致し、共通目的、すなわち弱者を切り捨て排除し「強者の強者による強者のための」世界へ邁進する「チーム」となるわけだ。「ワンチーム」で、同質の仲間以外を搾取し潰しながら突き進む世界。あまりに美しすぎて戦慄する。
結局、(気に食わない日本語科非常勤講師へのパワハラ及び追い出しを行った積極的加害者国際基督教大学高等学校行政部及び国語科だけでなく)国際基督教大学法人も、勝ち組、マジョリティー、強者の論理でマイノリティーや弱者を踏み躙る集団だった。ここはもとより逆境無しに恵まれた強者勝者様の集まりなので、人権や平和や多様性、寛容なども実体性の無いおままごと、都合よく自らを彩る装飾具でしかないのだろう。
平畑先生は違う。法人とは異なりご大層なPRをされてはいないけれど、その眼差し、他者/弱者への寄り添い、傾聴の姿勢、実践は、私がかつて愛していた大学に、かつてはあったはずの「人権」「対話」や「多様性」の尊重の、自然な体現の形で、だから私の謎感覚は先生の存在をキャッチしたんだろうと、ふと思った。(そしてそれが、私が死ぬほど嫌だった/嫌な、コロナ感染による後遺症、見えにくい困難、絶望を見つめている方だったというのもまた、謎感覚、妖怪アンテナの謎なんだよな。)
話を戻すと、普段はわりとゆるふわな雰囲気もまとっていらっしゃる平畑先生だけど、おそらくおそろしく曲者、(良い意味で)頑固で骨のある方なんだよな、と、今回の件で再感した。そして自身の「ミッション」としてコロナ後遺症診療に当たっていらっしゃるんだろうな、と。背景にはロックなストーリーがある気がする。私はロックな人に惹かれる。ちょっと意味不明だけど。あと、ご本人がどうかはわからないけど、なんとなくクリスチャンが周りにいたんじゃないかという気もしている(私の周りにいた人と雰囲気が似ているから)。
謎馬力が出て続く感じもちょっと気になっている。先生の働き方は尋常ではない。普通だったら体力的にも精神的にも擦り切れてとても続かないはずなのに、それが来ない感じはある意味痛みを感じない解離や離人症的でもある(実際に先生がどうなのかはわからないけど、逆境を抱えた者は自己リミットのようなものが振り切れているところがあって、側から見た明らかな高負荷を平気で回し続けてしまうところがあるんだよね)。患者さんの「絶望」へ注視も、表面的なものではないように思われる。いずれにしても稀有な方だと思う。どうかご自身のこともたまには労わりながら、長く、多くの人々を救ってほしい。
平畑先生は見識の狭い医クラだけでなく反ワクチン反マスク反コロナ達からも目の敵にされている(まさに四面楚歌状態、、要するに、目立って注目される気に食わない存在を阻害し足を引っ張りたいという歪んだ人間がこの病的な社会には溢れているのだ)。
しかしそんな「ノイズ」に惑わされることなく、先生はご自分の道をしっかり歩み続けていらっしゃる。
↑にもあるけど、平畑先生はワクチン後遺症にも注視注力なさっているんだよ。反ワクがこぞって先生を攻撃する意味が全くわからない(あの手の集団は「理」無しに条件反射で皆して同じような主張口調でターゲットに凸していく、実に個性からも思考からも遠い全体主義的「ワンチーム」でしかない。それでいて全体主義に抗っている気でいて「自分の頭で考える」等と思っているところが滑稽である)。
藁にもすがる思いでかかった(他の)医療機関で鼻で笑われたり無視され突き放し精神病扱いされたりして絶望させられた患者さん達を平畑先生はフラットにそしてあたたかな眼差しで見つめている。上から権威を振り翳すのではなく、既存の枠を押し付けその中のみで対処/切り捨てるのではなく、自分の専門外の症状であっても「勉強させてもらおう」と、むしろ自らの学びに繋げていこうとなさる。
とても伸びやかで柔軟な"affirmation"がそこには存在している。(患者さんへの"affirmation"だけでなく、先生は先生ご自身への"affirmation"もしっかりしていらっしゃる。でも、自分を"affirmation"できているからこそ、他者も"affirmation"できる=他者を"affirmation"できない人間は自分に自信がなく/やましいところがあって"affirmation"ができていないんだよね。)
権威にすがって生きる人間は自身に都合の悪いところを絶対に見つめようとしない。「対処できない」ことを認められない、特に【下からの】指摘を「非難」と受け止め「攻撃」や排除に走るーこれは面白いほどに国際基督教大学高等学校行政部及び国語科と同一の傾向。
全てに完璧な教師だっていやしないんだよ(自分がそうだと思い込んでいるなら単なる思い上がり)。学校教育や教科教育の中にだって様々な専門性があって、各人がそれぞれの専門性を持ちながら業務に当たっている。
言語教育や外国語教育の知見無しの国語教育の目だけで、日本語教育や継承語日本語、学習言語、特に重度の日本語生の状況が見えないのは当然で、だからこそ「日本語科」があった。国語科が担当した日本語生達への授業が機能不全に陥り、L4生に転学者や強い苦痛を抱える子が続出したのは当然で、それは「国語」と「日本語」は【全くの別物だから】。(私は国語科が行う「国語教育」へは一切の批判をしていない。しかし国語科はそうとらえていないだろう。これも↑で平畑先生がおっしゃっていること全く同じ。)
本当に広報通りの日本語支援体制を作ろうとしていたなら、その現実をフラットに受け止め、日本語生には(言語教育、外国語教育含む)日本語教育の目を持つ者を当てればよかっただけ。でも行政部と国語科は頑なにそれを拒絶した。何故か。彼らが見ているのは生徒ではなく自分達の利で、はじめから「下僕のくせに自分達に異を唱える気に食わない日本語科の非常勤講師=敵」を、「自己都合の形にして追い出す」目的で、そのために【日本語科に日本語生を担当させない時間割を組んだ】から。そして、その不当で不合理であるのが明らかである異常な時間割設定を、何の検証もなしに不合理ではないと国際基督教大学法人が結論し人権委員会への申し立てを不受理としたのは、【無期契約であっても「非常勤講師」になど人権も合理的配慮も認めず、踏み躙り排除することに一切の問題はない】という組織の思想を露呈させている。どれだけ飾り立てて偽っていても本質はこうなのだ。
極めて不適切である。死をもって抗議する。
日本語生達、どう過ごしているんだろう。理解されず、配慮もされず、自分が悪い至らないせいだと思い込まされ絶望していないだろうか。
せっかく大きな期待を背負って高倍率の試験を掻い潜って入学したのに、あまりに不適切、理不尽すぎる。マルトリートメントにも程がある。
「教師のための学校」でなく「生徒のための学校」でなければならないのに。何より帰国子女受け入れのために建学された学校なのに。笑え、、ない。
22年度の2年L4生達はびっくりするくらい、はじめは何も言わなかった。(基本的に英語圏欧米の文化で育ってきた子が多いクラスなので)それまでのL4生は課題やテストへの文句も含めとにかく話したがりで、それへの返答や対話込みの授業設定をしていたのだが、この年だけは全く違った。
ずっと理由がわからず悶々としていたのだが、秋学期の行政部呼び出しの一件で、一年次の状況、日本語生達のあまりにも深い学校や教師への失望不信に気付き、それらをふまえて改めて話をするようになったら、生徒のほうも話をしてくれるようになった。
信用に足らない相手には特に弱みなどとても見せられない。でも、警戒が下がっていけば少しずつ、口も心も開いていく。私もそうだった。
日本語生の苦しみって本当に、知識のない人間には理解されないんだよ。日本語の母語感覚はあるから日常会話には全く問題ないし発音だって(ほとんどの場合は)ネイティブのもの。「漢字が読めない書けない」というのはわかりやすいので学校や教師にももちろん認識されているんだけど、問題は決して漢字だけではなく、日本の小学校で漢字と一緒に積み上げてきた語彙やカリキュラム、周辺情報も身についていないこと。その途方のない大きさと穴を埋めるために必要な時間や労力が全く理解されない。
非常に優秀な子達なので、小中9年間のうち海外にいた年数(日本語生の場合はほとんど半分以上は海外だし9年丸々ってのも珍しくない)そのものは必要ないけれど、それでも「学習言語」(継承語日本語話者に欠けている、日本語で学習するのに必要な漢字語彙文法等、主として漢語や抽象語彙、書き言葉)の習得には4年以上かかると言われているし、大学とは異なり、高校には「弱い方の言語で読み書きできるようになるための準備期間」が全く無いまま、いきなり「年齢相応の【弱い言語】でほとんどのカリキュラムをこなさなければならない日常」が無慈悲にほぼ無配慮で(教員に漢字へのルビ振りは指示されている←「漢字が読めない」は認識されているから)始まる。
大学の場合は初年度は(弱い方の)言語プログラム中心の時間割だし、それ以外は強い言語の授業を自分で選べるので全てに打ちひしがれることはないのだが、高校では「何の選択の余地もなく」「いきなり」二進も三進もいかない状況に突き落とされるのだ。しかも、それまで「得意な言語では」大きな成功を収め、高く評価され、当人としてもそれが当然の生活をしていた子達が、である。そのショックや波及する影響を想像できないのなら、(知識だけでなく)考察力も欠如している。
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だらだらと書いていたら回線が落ちていて再接続した時にこの先の文章が飛んでしまった、、地味にショック、、
続きは食べてまた気分を変えてからにしよう、、
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"Unlovable"(ダレンのMemoir)発売で思い出したので歌ってきた。最初の方の矢継ぎ早に歌うところは外で通行人を装いながら歌うには圧が強すぎるので途中から(最後の繰り返しも省略)。
(何故か一枚だけ買って持っていた)ダレンのソロ時代のアルバム"The tension and the spark"に入っている曲なんだけど、歌ってみて改めてこれは深刻だ…と痛感した。やっぱり歌詞を見ないと音で聞いている部分が多いので内容がダイレクトに入ってこないんだよな…
歌った部分の野鳥版 ※()の部分は一人なので歌えていない
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僕の唇にはキスが許されないの?
僕の瞳は何も見えないの?
僕は受け止められないの?
愛されない存在なの?
僕の言葉には聞く価値がないの?
僕は何にも触っちゃいけないの?
僕は誰にも望まれないの?
愛してもいけないの?
*
あなたは決して僕を愛さなかった父親を思い出させる
(あなたは決して僕を愛さなかった)
愛を示すなんて空虚だと思い出させる
(僕はもう空っぽだ)
僕はそんなに愛されない存在なの?
この身体にそんなに触れたくないの?
僕はあなたに自身の嫌いな部分を思い出させてしまうの?
*繰り返し
あなたは母親が僕を見捨てたように思わせてくる
(あなたは僕を見捨てた)
愛を示すなんて空虚だと思わせてくる
(もう何も感じない)
僕は愛してはいけないの?
この心が壊れないとでも思っているの?
僕があなたに自身を を思い出させてしまうの?
あなたは決して僕を愛さなかった父親を思い出させる
あなたは母親が僕を見捨てたように思わせてくる
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これは拒絶や否定をされ続けてきた者のvividな感覚だとヒリヒリ痛くなった。
私に関して言えば、そもそも受け入れられたことがなく、それを当然としてきてしまっていることから相手の愛着も薄いので、逆にこのような苦悶が少ないんだけど(望んでも不毛だと最初から思っている)、ダレンの場合は痛めつけられる経験もある一方、受け入れられた経験もあるので、相手を非常に強く、切望している。
違いはあるけど繋がる部分があるから、たとえ違っても(察し)になるんだよね。自分とは違うけど、歌いながら(これはキツい、キツ過ぎる、ダレンつらかったね)って悲しくなった。ここから15年程経って今の、あの楽しそうなダレンを見ることができたのは本当に良かった。ダレン、よかったね。
どうしてこれをここに置いたかと言うと、【上から絶望を与える人間達】にはこの感覚が無いから。
【強者の強者による強者のための】利便性で"お仲間"/利権の外の下僕捨て駒下位劣位の者を平気で踏みにじれるのは、生まれてからずっと強者の世界/論理の中に置かれいられた人間と、逆境がありながらも強者の世界/論理の中に身を置くようになった主として成功し強者に取り入り一体化するようになった/強者にすり寄ることで成功した人間。
弱者やマイノリティーとしてのアイデンティティーや眼差しを、たとえ対外的にそうは見えなかったとしても保持していたり、ご自身にそういった経験や感覚は無かったとしても教育や教養をはじめ何らかのきっかけで理解共感し心や目や手を寄せる方は、【理不尽や暴力を上から振り翳す側ではなく、逆にそこに抗い、理不尽や暴力を受けている側の方々に寄り添い手を差し伸べる】から。ダレンやCocco、ロブやアギレラ様のようにね。
私たちのICU史再考ー1966~1970年を中心としてー Reconsidering ICU History 1966~1970
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