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【詩的生活宣言*6】詩を、アップデートせよ。

2018年をふりかえって

今年は意識的にビジネス界の情報をたどってみました。すると、実に「2.0」「3.0」といったバージョンアップされているものが多いことに気づきます。「お金2.0」「仕事2.0」「動画2.0」……。それだけ時代の転換点にきています。SNS勢力の勃興とテクノロジーの著しい進化……、そして既存の流通のあり方を辿らなくても、個人やコミュニティが直接、顧客とコミュニケーションをとれるようになった……。そのなかで、「詩2.0」なんていうところまではいきませんが、少しこの時代の流れのなかでの「詩」のあり方について考えてみたいと思います。(NewsPicksにならって「詩を、アップデートせよ。」なんて大それたタイトルにしてしまってすみません。)

とはいえ、こんな話をすると「文学」と「ビジネス」は無縁だ!と怒られそうですので、高橋源一郎さんの言葉を引いておきましょう。

明治の頃、日本文学が立ち上げられた頃、島崎藤村は、自費出版した『破戒』を、自分で大八車を引いて、本屋に配って回った。夏目漱石は、職業作家になるにあたって、朝日新聞と俸給の交渉をきっちり、厳しく行った。経済が、というか、環境がなければ、文学だって存在できないのは当たり前だ。いや、経済と環境が、文学が決めてしまうことを、彼らはよく知っていた。そのあたりの緊張は、百年前の作家たちの方が持っていたのかもしれない。

いったい、自分が作ったものが、誰の手で、どんな風に、どこに届けられるのか、といったことに無関心な生産者がいるだろうか。野菜を作る農家は、天気予報を聞いて一喜一憂し、日々の値段の変動に心を悩ませる。そして、ほんとうに、自分の作ったものを、どこかの消費者が「美味しい!」と食べてくれるだろうか、と気にかけるだろう。(中略)毎シーズン、新作を作りつづけるデザイナーは、デザイン室に閉じこもり恩寵のようにアイデアが生まれるのを待っているわけではあるまい。それを着るはずの消費者の気まぐれな感情を探ろうと、日々、心を砕くにちがいない。それが、どのようなものであっても、生産者は、最終到達点の消費者に至る道すじを、常に心に思い描く。文学、小説だけが、そこから逃れられるわけがない。
高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(講談社 2018年8月)より

こうした「経済」と「環境」については一考の余地は少なからずあるはずですので、その傾向と対応という部分について考えていきましょう。

「環境」から考える

まず、簡単に「環境」についてですが、このアップデートの流れというのは、単なる「流行」と言ってしまえるようなものではありません。既存のルートを辿れば「何者か」になれる時代ではなくなり、一方で誰もが表現者に、そして、発信者になれる時代になったという発信者側の環境の変化は大きいからです。近代文学のように、物語を織れる人間が「高等教育を受けた人間」に限られることもなく、発表される媒体も雑誌・新聞・本という既存の出版ルートに限られることもありません。誰でも作ることができ、誰でもネットに配信できるようになりました。

また、読む環境の変化もあります。媒体の変化です。まだまだ紙の本が支配的で、紙の本のメリットももちろんあります。とはいえ、スマートフォンの登場によって、確実にコンテンツの消費のあり方、時間の使い方は大きく変化しています。常時オンライン状態にあり、常時スマートフォンが受信する情報を「ながら」で追いかけながら行動をしている。これが良い悪いという話ではありません。そういう生活スタイルになったという事実の方が重要で、Twitterのタイムラインをのぞいていると、「タイムラインに流れてくるものこそが詩だ」という方もおります。反論の余地もありますが、紙の本で育った世代と、スマートフォンで育った世代とでは、感覚が異なるのは当然ですから、頭ごなしに否定するわけにもいかないと思います。

自分のTwitterのタイムラインを追いかける。他人の生活をのぞきこむ。かつてフィクションが果たしていた、誰か別の人生を覗き見るということは、日常的に行えるようになりました。おもしろいツイートがあれば何万人という人がリツイートをして、誰にでもその言葉が届けられます。「言葉を通して楽しくなる」という体験は、わざわざ「小説」や「詩」を経由しなくても日常的に困らない程度には溢れているのです。しかも、わかりやすく、隙間時間で「ながら」で楽しめる(そういうものは「文学」が提供するものではない……!わかってますわかってます)。そういう生活のスタイルになっているという事実には直視すべきでしょう。

「誰かがこの地雷源を踏むのを待っている」では、現実問題、生き残ってはいけないし、読まれません。自分の人生をあきらめて、自分の死後何千年というスパンで俺の作品が評価されればいいとか、生活するお金はたんまりあるから娯楽でやっているから読まれなくてもいいやという人はそれでもかまいません。もちろん、書きたくて、書かずにいられなくて書いているわけだから、それだけでまずはいいわけですが、現実問題、生活のなかの多くの時間を割くわけですから、生存戦略はある程度必要だと思います。せっかく書いたものです、誰かに読まれて、認められたいという承認欲求だってあるのは当然でしょう。それを、押し隠して、いろんな言い訳をして、出てる杭だけ打つのはもうやめにしましょう。

言葉を動かしたい

さて、では、こうした「環境」のなかで、詩は、どのようにアップデート可能なのか。

簡単に思いつくことは、詩語の新しさとか、感覚の新しさとか、電子化するとかいろいろとあると思いますが、問題は、それで何を表現したいかです。

僕がnoteに詩を掲載するようになって思ったことが一つあります。はじめは過去作をネットで読みやすいように連ごとにページを分けて載せて、スクロールすると次の連があらわれるという見方に転換したわけですが、これが果たして読みやすいのかどうかは措くとして、この作業をしたあとに、新しい詩を書こうとしたところ、連ごとに印象的に書くという発想というか、この連は次のページに送って印象的に!という演出というのでしょうか、そういう欲求が湧いてきました。媒体と環境によって、創作方法や意識というのは変わるのだということを実感した瞬間でした。

そこで、単純な欲求として思ったことは、書いているなかで、この部分の文字が動いたらいいなあ……ここが点滅してたり、この詩句のまわりをこの言葉が浮遊している感じになったらいいなあ……ということです。安易な発想であることは認めます。そして、そういうものがいまもないわけではありませんが、それが主流にならないのは、タブレット端末のようなものがなかったことと、技術的な問題で可能ではなかったからというのが一つの大きな要因だと思います。

将来的に、なんらかの端末でほぼすべての人が文章を読む時代になったとき、詩は、もっともっと紙面で言葉が遊ぶのではないかと想像します。萩原朔太郎も「恐ろしく憂鬱なる」の「てふ てふ てふ てふ てふ てふ てふ」とか「薄暮の部屋」の「ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ ぶむ。」のような蝶や蠅の表現については、紙面上を覆うように常に揺れるように書きたかったのではないかとか、「竹」の「ふるえる」感じとかは言葉自体をtrèmoloさせたい欲求もあったんじゃないかなあとか今となっては思ったりもするのです。技術的に可能だったら、どんどんとやっていたようにも思うのです。

明石ガクトさんの『動画2.0』(幻冬社 2018年11月)という本のなかで、これからは動画ビジネスだ!ということが言われています。通信の回線は5G(フルハイビジョン映画が1.5秒でダウンロードできる速度だということです)になり、解像度も4Kから8Kへという技術革新が起こる。現在も4G回線に移行し、すでにTwitterのタイムラインやインスタグラムでは画像があることが当たり前になりました。いまでもすでに動画のサムネイルが載っていることが多い。そんななか、5Gになれば画像は動かないと物足りなさを覚えるようになるのではということです。

だからといって、安易に、これからは動画詩だ!!と飛びつくわけにもいかないでしょう。「動画詩」などと言えば、詩は動画の従属物になることになります。それは、あくまで「詩」が、「詩」であることをやめた瞬間でもあるのかもしれません。(エンタメ作品としてはおもしろそうです)

「詩」でなければできないこと

表現の手段が広がった分、詩を、詩として書くために、詩が、詩として読まれるために、詩とはなにかということを、より強く自分のなかに刻みつけていくことが求められるような気がします。

何年も前のことですが、ある美術展にいったときに、テクノロジーと手を結んだ新しいアートの可能性を感じさせる展示がありました。そのとき、詩は、なぜいつまでも同じことを繰り返しているのだろうかという疑問が浮かんできました。詩は、基本的に紙とペンです。しかし、いまのアートにはもっと多様な「手段」があります。表現の「手段」が。それを、なぜ「詩」は選びとらないのか。

とはいえ、「詩」とテクノロジーが手を結んだ姿をそのときは想像することができませんでした。しかし、いまなら、すこしその可能性が見えてきました。ただ、本気でそれが僕の表現にとって必要なことなのかどうか、それは考えてみないといけないことです。

一流の画家が、いまだに絵の具とキャンバスを選択しているように、なぜ、僕は詩でなければならないのか。詩でしかできないことはなんなのだろうか。自分にとっての「詩」は、どういうものなのか。それを表現する手段として必要なことはなんなのだろうか。

あまり具体的な結論を述べるには僕の手には余る話なので雑感程度のことしか言えませんでしたが、今年は、普段触れることのなかったビジネス界隈の潮流に触れて、あらためて、詩とは何か、という本質的な部分を考えるきっかけになったように思います。

そこが見えてくることが、この時代における詩のアップデートなのかもしれず、自分の詩のアップデートになるのかもしれません。

このまえお話した、吉増剛造も、あれは紙とペンであることには違いはないのですが、そのあとにある読めなくされる作業。そして、剛造フィルム、あれらはいったいなんだというのでしょうか。おそらく、あれは彼の詩にとって必要な行為なのです。

そういう詩を獲得しようとすること。

それを、2019年の目標としたいと思います。


2018年、お付き合いありがとうございました。

詩や文学について親しみのある方には当たり前のことを言いつづけてきましたが、初歩の初歩に立ち戻りながら、僕自身、考えを整理してきました。少しだけ、前に進んだように思います。みなさまにもなんらかの刺激になれば幸いです。ご意見・ご感想ありましたらどうぞ。

詩を想う生活を。

(サムネイル画像 小池隆英「Untitled 」)

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佐々木蒼馬-aoma‐
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