考えること、と書くことについて。
どこかが弱っているとき、つまりふだんの生活からいったん立ち止まらざるを得なくなったとき、ぐるぐると人生について考えてしまう。
5ヶ月前、足首を骨折したときも、そう。
めぐりめぐって行き着いたのが、このnoteでした。
自分の考えていることを、何からどう文章にしていいかわからず打ちのめされたけど、気付けば4か月近くも続いていました。
昨日は一日中、寝たり起きたりしながら、図書館で借りていた『ロバート・ツルッパゲとの対話』(ワタナベアニ著)を、結局一気に読み終えてしまった。
そしてまた、書く自信をなくしてしまった。
「ほぼ日刊イトイ新聞」のコンテンツの中で、幡野広志さんが、"人との距離感が学べる"と言っていた意味が、読み進めるごとにわかってくる。
私が想像していたものとは違い(具体的に何か、と問われると困るのだけど)、もっと"人として"の核心にせまるような内容で、自分のうすっぺらさを自覚し、なんだかとてもショックを受けた。
ただ、私自身が違和感を感じていたことの正体が指摘されているところもあり、妙に納得したりもしました。
結局のところ思い知らされたのは、私には「考える」ことが必要だ、ということ。
正解がないものに対して、自分の頭と心をはたらかせて考える、ということが苦手。
それがこれからの世の中、人として致命的だということもわかっているのに、今まで怠けてきたのは、自分がいちばんよおく知っている。
何かを買う、という行為をとっても、今ではネットで検索すると、すでにそこに評価がある。
特に、本とか映画とか、感想を持つのは自分自身なのだから、誰かの感想と答え合わせをする必要もなければ、星が少ないという理由で手に取るのをやめる、というのも残念な話ですよね。
評価を見ない状態で、自分が感じたことを言葉にすること。
わからない人だなあ、と思われるのを恐れず、好きか好きじゃないか、おもしろいかおもしろくないか、をはっきり言える人になりたい。
それができる人にとっては、あたりまえじゃないか、何言ってんだ、と思われるかもしれないけど。
「文章を書くことは、考えること」
偶然にも、今日図書館で借りてきた『三行で撃つ』(近藤康太郎著)の前書きにあったことば。
つまり、考えずに書いた文章は誰にも伝わらない、ってことでもあるんだろうな…。
これまでインプットばかりしてきたので、自分の中にあるものをアウトプットする、という目的で始めたnote。
日々のとりとめのない出来事と思いを、ただ書き残しておきたい、という気持ち。
でも、役には立たなくても何か伝わる文章が書けたら、という思い。
毎日、目的も書き方もふらふらしてはっきりしていないけど、それでも続けてみないことにはわからないこともあるので、やってみよう、という気持ちです。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。
気になった方は、ぜひ読んでみてください。
内容は深いけど、タイトルからわかるように、端々笑いの絶えない一冊です。
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