原田宗典『おきざりにした悲しみは』__ 超えて行くこの世のシステム
はるか遠い昔から絶対的な力を持ち、地球社会の中で当たり前に設定されているシステムがあります。
この当たり前にある絶対的なものに疑問を持つことなく、逆らうことなく、完全に出来上がってしまっているこの世界で私たちは暮らしている。
そんな世界の中で苦労や困難を体験し、それらを味わいながら生きている。
この苦労や困難の世界から学ぶものは大いにあり、もしかしたらそれを学びにここへ来ていてのかもしれない。だとしてもそこから失うものも大いにあり、そこのバランスが近年崩れてきている(崩されてきている)かもしれないと、今の世の中を見て思うのです。
このシステムから外れた道は塞がれていて、最初から失われている生き難さ。
それ以前に、自分が何者であるのかを忘れさせられている中々なハードモードな世界。
何者かにとって都合のよろしくないものは最初から潰されてしまっている世界であるようにも思えてくるのです。
原田宗典さんの小説『おきざりにした悲しみは』では、このようなことが話の奥底で鳴り響いているような、そんなものがあるように思えました。
そんなものがあることついて小説の中で直接的な問題提起がされていたわけではありませんが、そんなものがあるような背景がある話の中で、そんなものについて考えさせられ、そんなものへの気づきと共に深く心に届くものがあったのです。
そんなものとは具体的に何なのか。
小説の中に出てきたこの言葉から、そんなものは見えてきます。
金なんてどうでもいいのに
これです。
この言葉はおそらくここの場面にしか出てきていなかったように思いますが、小説の中でこの言葉がずっと響き渡っていたように思いました。
この「金なんてどうでもいいのに!」と言うのは、主人公である長坂誠65歳が、お金を稼ぐために無茶して出て行った少女を探しに行く最中で、少女を心配し無事を祈りながら心の声としてあった言葉です。
その少女はある理由で弟と一緒に、誠の古アパートの一室で世話になっていました。そんな中、誠が2日間留守をしなければならない時があり、少女とその弟に2日間の食事代として誠がお金を置いて行ったのですが、ギリギリの生活をしている誠を思ってかそのお金を使うことはできないと、少女は自分でお金をどうにか稼いでこようとある場所へと向かっていた、そんな背景の中にあった言葉であります。
小説全体のあらすじはここでは控えますが、出版元の岩波書店から出されているこの小説の内容説明文をここに貼っておきます。
お金のために働き、お金のためにギリギリで生きている。お金のために人に裏切られ、お金のために全てが上手くいかない。そんなお金というものに振り回されながらも、人の心という温もりのあるものにどこかで救われなんとか生きている。昭和の香り漂う、苦労と希望が交差する令和の物語。
はっきり言ってめちゃくちゃいい話です。この本を読んでいたサンマルクカフェで何度も泣きました。おじさまたちが新聞を読んでいる横で涙が溢れるのを堪えきれないほど、心打たれてどうしようもないとても良い話です。
岩波書店の小冊子『図書 11月号』でこの小説について原田宗典さんがこんなメッセージも書いてらっしゃいました。
宗典さんのお母さまも号泣するほど、本当にいい話です。ご一読のほどを。
ですがそれ故に、その苦労と困難の先にある希望の世界を夢見て、浸って、感動し、ただそこで終わってしまってはいけない話ではないのかと、私はそう受け取り読み終えました。
「お金なんてどうでもいいのに」
なんだかこの頃、お金で回されている現代社会システムが崩れてきているように思うところがあるのですが、この「お金なんてどうでもいいのに」と言う言葉が、心の奥底に眠る大事なことを思い出すようでハッとしたのです。心の奥深いところで何かが反応したかのように。
近頃の世の中の出来事なんかを見ていると、ここの所が炙り出されているようなマネートラップで溢れていて、ふるいに掛けられているような感じがしています。
お金さえあればアレもコレもできる。
お金さえあればもっといい人生が送れる。
お金さえあれば。
何かをおきざりにしたようなトラップをあちこちに仕掛けられているようで。
正規ルートであれ裏道であれ、とにかくお金を得ることが目的の生き方となってしまっている。確かにこの世の中で生きていくにはお金はとても大事でございます。お金がなければ生きていけない。だけれども、そこにだけ目が行くばかりになり、何か本質的なものを見失っているような気がして、視点を変え、本質的な方へと焦点を合わせると、この世界はおかしなことになっているのではないかと思えてくるのです。
お金そのものに問題があるのではなく、お金を使って世界を動かしているこの “巧みな” システムがなんだかもうおかしいような。
じゃあお金はいらないと言うのか!と、そう言うお金がいるいらないの二極に振れる話がしたいのではなく、そのことについて考えてみたいという話で、そんな時期が来ているのではないかと、このバランスが崩れかかった世の中を見ていて思ったのです。
この小説を読んで思ったことです。
お金で人生狂わせられている。
私たちが生まれた時に持ってきたものはここに着地するためのものなのか。
いつまでお金に支配される世界、お金に縛られる時代を引きずって行けばいいのだろう。
お金よりもずっと大切なものを見失っている。
お金なんてどうでもいいのに。
お金なんてどうでもいいと、そんな綺麗ごとを言っていてもどうにもならんと思うことだと思います。私もそう思います。
だけども「綺麗ごと」と言う “便利な言葉” を使ってそこで思考を停止するのはそろそろ終わりにした方がいいのではないかと、これは自分自身に対して思っているのです。
思考停止しているといろんなトラップに引っかかってしまうので気をつけたいところ。
お金なんてどうでもいいと、そんなふうに自分が振り切れるかというと、普通に物欲はあるのでどうでもいいとは思えない自分がいます。お金はあるに越したことはない。
でもこの「どうでもいい」というのはもっと重要な場面で発動するのではないか。その時に「どうでもいい」を選択できるかどうか。そして根本的に今の自分では辿り着けないものであるではないかと。生まれ変わるぐらいに変わらなければ。
今はまだ振り切ることができない自分ではあるけれど、そこを今は意識しておこうと思ったのです。
風が運んでくる話によると、これからはお金のない時代となると言う。なんと言うことでしょう。
そうだとしたら、自分はそこへ行けるのか。
イギリスの自然科学者、チャールズ・ダーウィンの名言にこんなものがあります。
時代を生きていけるのは、変化することのできる者であると。何かにしがみ付いていては生き残っていくことはできない。
きっとそうなんだろう。
自ら変化して超えて行かなければならない。
原田宗典さんの『おきざりにした悲しみは』を読んで、感動して泣いて、生きていく勇気をもらった、いい話、ハッピーエンド!と思うけれど、そのハッピーエンドだと思っている世界を超えていかなけばならない時が来ているのではないかと思うのです。
誤解のないように伝えておきたいのですが、『おきざりにした悲しみは』は本当にいい話なので、多くの人に読んでもらいたいと思っています。このお話の根底にあるものはとても美しいです。そこを知っているからこそ新しい世界を創っていけるのだと思います。
もうこれまでの世界は潮時というか、ここを存分に体験したことでいよいよそこを超えていく時なのではないだろうか。
よく言われている「今だけ、金だけ、自分だけ」が通用する世界はもう限界に来ているように感じます。もうその世界は崩れて来ている。それではもう生き残ることはできない。
自分と繋がっていない生き方ではもうここでは限界で、どこにも行き着かない。
ここ数年で加速しているおかしな出来事を見ていて何か感じるものはないでしょうか。
外側の恐れに目を向けるのではなく、内側にある自分と繋がる場所に目を向けていくことが、これからを生きていくことなんだと思います。
外側の意識で自分の世界を作るのではなく。
全ては自分の意識次第で内側から世界は創られていく。
もういい加減、今の歯車から抜け出す時なのではないのかと思うのです。
最後に「綺麗ごと」を言わせてもらいました。
原田宗典さんの小説『おきざりにした悲しみは』を是非読んでみて下さい。皆様もぜひ、ご一読のほどを。
最後まで読んで下さりありがとうございます!
原田宗典さんの新刊小説『おきざりにした悲しみは』を、今回読むきっかけとなった出来事についてこちらの記事で書いています。