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「死にたい」と思う日

1ヶ月の休止明けに書くにしてはタイトルからして物騒すぎる。大丈夫。私は死なない。今回は私がよく「死にたい」という言葉を口にする真意について語ろうと思う。

一番最初にこの言葉が頭に浮かんだのは中学2年生の頃だったと思う。当時は自分と周りの違いに悩み、自分が嫌いで仕方なかった。自傷行為と聞いて多くの人が初めに思い付くであろうこともしていた。

考えてみれば、私の言う「死にたい」は当時から「自ら命を絶ちたい」ということを意味してはいなかった。どちらかというと、「消えてなくなりたい」「生まれてこなければよかった」「私という人間が存在していた事実を地球上から抹消したい」という感情が近い。

私が死ねば必ず悲しむ人がいる。これは自惚れなどではなく、もう揺るぎない事実だ。私を愛する人がいることも知っている。私は誰かが悲しむ結果を生みたいわけではない。

仕事で、プライベートで、何か上手くいかないことがあった時、私は「死にたい」と言いたくなる。正確には「死にたい」という言葉で脳が埋め尽くされて苦しくなる。では、死にたくないなら、具体的に何をしたいのか。答えは簡単だ。現実逃避したい。これだけだ。

南国のリゾート地に行くのもいい。高級な料亭の色鮮やかな食事で五感を満たすのもいい。好きな音楽の生演奏を聴きに行くのもいい。とにかく、思考停止して、それに没頭できればいいのだ。俗世から離れたい、嫌なことを忘れたい。できることなら愛する誰かと。

思考が支配されるぐらいだから並大抵の楽しみでは満足しない。やるなら全力で集中できるアクティビティでないと意味がない。一瞬でも日常生活の嫌なことを思い出すと、もうそこから思考が止まらなくなるからだ。

ちなみに、私は一度心療内科で「うつ状態を伴う社会不安障害」と診断をもらったことがある。途中で主治医が代わり、適応障害との診断名になったのだが、症状が一番ひどい時に抱いた死への欲望は全く種類の異なるものだった。

アパートの屋上で夜風を浴びようと思っているうちに、気付いたら柵を乗り越えそうになっている。台所で立っていて、はっと我に返った時には包丁を持って首に当てている。怖かった。

あれは完全に脳が侵されてしまっている状態だと言えた。あそこに死にたいという自分の意思はなかった。自らの行動によって死の淵に立たされて、生への執着を強く感じた。あの時、自分に死にたい意思がないことを強く自覚した。今後一生、自死を選ぶことはないだろう。だからもう少しだけ「死にたい」と言わせ続けてほしい。

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