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人間の幸福のために、身を粉にした経済学者の物語
佐々木実(2019)『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』講談社を読了。
佐々木実氏の丹念な取材と、文献渉猟の努力には頭が上がらない思いである。
宇沢弘文は、経済学の世界では言わずとしれた、巨人である。
ノーベル経済学賞受賞者は、口を揃えて、「ヒロは受賞に値する」と評した。
「社会的共通資本」の理論化の道半ばで他界した孤高の経済学者のあまりにも充実し、奮闘した生涯を本書は約600頁を割いて記述している。
とはいえ、本書は単なる評伝ではない。
「宇沢弘文という人物を通して、経済学の歴史を語るもの」だと私は考えている。
数理経済学の大家として、シカゴ大学や、東京大学で教鞭をとった、まさに世界をまたにかけて活躍した、世界的な経済学者Hirohumi Uzawa の、生い立ちや、人物像、思想はもちろん、
これまでの「経済学」の世の中との関わりまでも鮮やかに描き出す。
言うなれば、宇沢弘文は、経済学界のイチローである。
経済学が「人間のための学問」であるために、奮闘した日本人は、後にも先にも宇沢弘文しかいないのではないか。
主流派経済学(例えばミクロ経済学)は、合理的経済人(ホモ・エコノミクス)をその理論の前提に据えて、価格が付けられあらゆる財やサービスが「市場で取引される」世界を目指してきた。
しかし、その主流派経済学に、誰よりも秀でて、その分野で卓越した業績を残してきた男が、「内在的な批判」を展開したのである。
この世の中は、市場が中心となっているかもしれないが、「市場=市場経済」ではない。
つまり、「市場=社会」では決してないということである。
世の中は、「市場の外にある多くの部分に支えられている」。
農山村を含めた、自然環境や、地域コミュニティ、家族のつながり等、あらゆる「金銭的評価ができないもの」を前提として、市場経済が存在する。そういう、倫理的にも、理論的にも極めて正しいことを、本書を通じて学ぶことができる。
経済学をお金絡みの安い学問だと言う者は、本書を読むべし。真の経済学は、机上の空論ではないのである。
本書は、この世の中に生きるすべての「人間のため」に書かれた、宇沢弘文からの最後のメッセージであると思う。
最後に、宇沢弘文がその生涯をかけて世に投げ掛け続けた、「社会的共通資本」の定義を本書556~557頁から紹介する。
「社会的共通資本は、土地を始めとする、大気、土壌、水、深林、河川、海洋などの自然資本だけではなく、道路、上・下水道、公共的な交通機関、電力、通信施設、司法、教育、医療などの文化的制度、さらに金融・財政制度をも含む。社会的共通資本のネットワークは、広い意味での環境を意味し、このネットワークの中で、各経済主体が自由に行動し、生産を営むことになるわけである。市場経済制度のパフォーマンスも、どのような社会的共通資本のネットワークのなかで機能しているかということによって、規定される。さまざまな社会的資本の組織運営に年々、どれだけの資源が経常的に投下されるかということによって、政府の経常支出の大きさが決まってくる。他方、社会的共通資本の建設に対して、どれだけの希少資源の投下がなされたかということによって、政府の固定資本形成の大きさが決まってくる。このような意味で、社会的共通資本の性格、その建設、運営、維持は、広い意味での政府、公共部門の果たしている機能を経済学的にとらえたものとなる。社会的共通資本の管理について、一つ重要な点にふれておく必要があろう。社会的共通資本は、国ないし政府によって規定された基準ないしはルールにしたがっておこなわれるものではないということである。各種の社会的共通資本について、それぞれ独立の機構によって管理されるものであって、各機構はそれぞれ該当する社会的共通資本の管理を社会から信託されているのであって、その基本的原則は、フィディシュアリー(fiduciary)の概念にもとづくものでなければならない。社会的共通資本は、そこから生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足に際して、重要な役割を果たすものであって、社会にとって「大切な」ものである。【以下略】」
ぜひ、関心のある方は手にとって頂きたい。
「物語として経済学を学ぶ」にも、最適な一冊である。
読書の秋もそろそろ本番。大作に挑みたい方は、迷わず本書を読んで頂きたい。
そう強く思う一冊である。