自分には才能がない。人より秀でた何かがないし秀でさせる努力もできない。 一方で才能なんて信じていない面もある。人間努力すれば全ては無理でも大概のことはできるようになる。勉強、スポーツ、コミュニケーション、金儲け。どれもあるレベルまでいけるはずだ。 だから才能が欲しいと思ったことはない。すべては自分の努力不足だと思っている。そんな自分が最近切実に欲しいと思った才能がある。「再会の才」だ。 これは漫画「植木の法則」にでてくる。二度と会えないと思われた恩人に合うために主人公が
最初に言っておくとこれは風俗に行ったというだけの話だ。普通のおっさんがソープに行って素晴らしいサービスを受けたというだけのこと。 今の僕は普通の会社員、仕事も順調で一緒に住んでいる女性もいる。結婚も視野に入っている。世間一般的には幸せな境遇だと思う。ただ僕はいつも悩んでいる。これでいいのか、他にできることがあるんじゃないか、自分の道が狭まっている気がする。いつもこんなことばかり考えている。 そこでやったことがないことをやろうと思った。そうすれば何か見つかるんじゃないかと期
自分は音楽が好きでよく情報サイトを見る。その時にむなしくなることがある。 その気持ちになるのはアイドルが歌う季節ものの曲や、所謂旬の女優が単発で出した曲を見たときだ。端的にいうと2年後には誰も聞かなくなるだろうなーと思ってしまう。 売れるからルーチンでリリースしただろうとか、抱き合わせ商法的にファンが買うだろうという目論見を邪推してしまう。 まぁだいたい悪い予想は当たるもので「そういえばあの時…」と数年前話題になった曲を検索すると今やだれも話題にしていない。芸術作品界の
いつも楽観的だ。一人になると死にたくなる。これが一過性だと思ってる。発作みたいなものだ。すぐに消えるはずだ。呑んでる時が一番危ない。これを凌げば大丈夫だ。蝿が飛び回ってる。ノイズが止まらない。考えすぎだ。考えがまとまらない。何をすれば止まるんだろう。隣人も機械的な人も中にいる。抑えられない。いつかやりすぎて後悔するんだろうか。
最近「軽率に」という言葉の使い方に関する記事を読んだ。「軽率に」とはあえて意思を無くした思考停止状態を示す意図があるらしい。オタクの人がコンテンツの沼に飛び込む時にわざと「軽率に」とつけることで敷居を下げるとかなんとか。 なるほどと思った。そこで思ったのが「死にたい」と「死んじまいたい」も使い分けられるんじゃないか syrup16gの神のカルマという曲の歌詞に「退屈過ぎて死んじまいたい」という一節がある。 これって死にたいんじゃないわけじゃないんだと思った。あえて軽率に
とある紛争が始まって一年を過ぎたけど皆どう思ってるんだ。去年渋谷でデモに参加してアカウント名に青と黄色の国旗を入れた人はまだロシアに怒っているんだろうか。または募金活動を続けているんだろうか。 最近これに似たようなことをよく考える。虹色の旗を掲げるデモに参加した人、環境破壊を糾弾する発言をした人、地震の後に募金を募った人、皆どれだけその気持ちと活動を維持できているんだろうか。 紛争は続いているし性的マイノリティの人々は戦い続けている。環境破壊はともらないし復興も完了してい
最近思うのは結局他人なんて関係ないよなってこと。大切にするのは家族・友達・恋人みたいに一切利害関係ない人だけでいいと思う。仕事の付き合いにしても客にしても結局は他人。いくらご機嫌とって自分の時間とプライド削っていい顔しても役に立たないと思われれば切られる。家庭を顧みず働いて期待に応えても別に報いる義理はない。頑張って体を壊そうが家族が険悪になろうが相手にとって関係ない。結局他人だし。 別にそういう目に遭ったわけじゃないけど、なんとくそう思った。政治家にとって国民は票田であっ
最近SNSを見ていて急に悲しくなった。これは別に世の中を憂う老人の天声人語のような内容ではない。悲しくなった原因はとある愛猫家の方の投稿だった。 内容はその方の猫が亡くなったという報告だ。その方は漫画で猫のエピソードを投稿していた。フォロワーもかなりの人数がいて人気があるようだった。今回見た投稿も漫画で、内容はその猫がおやつとおもちゃを持ち虹を渡って天国に昇るというものだ。とても楽しそうな表情で天国の友達に迎え入れられていた。これを見て泣きたくなるほど悲しい気持ちになった。
最近某アイドルのスキャンダルが原因でアイドルの恋愛禁止ルールについての話題が盛り上がっている。個人的にはこれはアイドル本人の意思ではどうにもできないと思う。それはアイドル活動を資本主義の競争下で行っているから。 もっと正確に書くと、疑似恋愛というコンテンツを求めるファンがいる以上このルールはなくならないと思う。 そもそも恋愛禁止ルールが何故生まれるかというと、ファンがアイドルを相手に疑似恋愛をできる(夢を見ることができる)からだろう。つまり疑似恋愛を求めるファンがいるから
インフルエンサーやYoutuberには世間に対して鋭い切れ味と独自の目線で意見を述べることで人気を博している人がいる。こういう書き方をするのは僕がそういった人が好きではないからだ。なぜ僕が好きになれないか考えた結果、僕が勘違いをしていたことに気がついた。 以前までの僕はこういった「物申す系」の人は発言に責任を持たない、または言っているだけで本人は何もしていないという理由で嫌っていた。しかしこれは間違いだった。「物申す系」の人の仕事は物を申すことであり、正しいことを言う必要は
最近後輩と話していて他人の不快な癖はあるかという話題になった。僕は気が短いのでたくさん思いついた。独り言、足音を大きく立てて歩く、クチャラー、喋るときにやたらあーとかえーとか挟むなど挙げればきりがない。一方で後輩が一つだげ挙げたのが「唾を吐く」だった。学生時代に悪ぶっていた同級生が頻繁にやっていて嫌いになったとか。 確かに見ていて気分がいいものではないと納得したが、二つ疑問が浮かんだ。なんで悪ぶっている人は唾を吐くんだろうということ、もう一つは何で自分は唾を吐こうと思ったこ
僕は音楽が好きなのだが、音楽レビューを読むことも好きだ。雑誌やメジャーな情報サイトも良いが、個人で書いているブログやnoteのがより良い。本人の主観や趣味趣向が丸出しなほど他にはない感想や考察があって面白い。しかし音楽レビューにも苦手なタイプがある。それは必要な前提知識が多すぎるものだ。 「~の文脈にあり」「~のセンスを感じさせる」など過去のアーティストの名前が多く登場する記事がある。多いものだとアルバム1つの記事に対して10組のアーティストの名前が引用されていた。これが苦
僕は悪口が好きだ。こう書くと某吸血鬼漫画の少佐みたいだが、あそこまで狂っているわけじゃない。悪口の中にも好きな悪口があるという話。好きになる条件は二つ。まず面白いこと、もう一つは言っている本人が悪い事をしている自覚があること。 面白いという条件は単純で笑えること。深夜ラジオやネットミームの影響だと思うが、昔から笑える悪口が好きだ。「死ね」ではなく「糞を食らって西へ飛べ」と言ったり、嫌いなゲームを「頭がEスポーツ」と言ったり妙に中毒性があってたまらない。声に出したくなる日本語
僕は話し合いが苦手だ。苦手と一口に言っても色々なタイプがあると思う。自分の意見を主張できない、相手の話を聞けないなど。僕はどちらでもない。自分が妥協点を出した時に相手が一歩も引かないことを確認した瞬間に話し合いを放棄したくなるという症状だ。 僕は話し合いの目的は2つあると思う。一つはお互いが意見を出し、正確に目的などを理解すること。もう一つは妥協点を探ること。僕の考えでは片方が全く引かない場合、これは話し合いではない。討論や勝負だ。 こっちが一歩引いても相手が引かない。こ
最近「嫁」という漢字、「お母さん食堂」という名称、「美人」という誉め言葉が差別意識を助長するとして非難を浴びている。平等の時代に則さないらしい。これに限らず「子"供"」や「障"害"」ひらがなにしようという動きもあった。この言葉狩りの効果を疑問に思う。 差別意識や相手を傷つけるから良くないという。言葉に差別意識や悪意が備わっているから規制するということだ。使う本人にその気が無くても。しかし言葉は新しく作ることもできるが、後から言葉に意味や悪意を込めることもできる。そこで京都人
最近色々な表現や言葉が時代に適さないとして規制、変更されている。また、過去の作品の人物像がより正しく改変されていることもある。個人的にこれが好きではない。 小節に坂口安吾の「白痴」という作品があるが現代の表現として適さない。同じタイトルでドストエフスキーの作品もある。石原慎太郎の「完全な遊戯」は障がい者差別の表現を含む。映画では「博士の異常な愛情」や「フルメタルジャケット」は明らかに人種差別の描写がある。これらは今後全て規制、変更されるのだろうか。 坂口安吾著「知的障がい