悪口を言うときの礼儀
僕は悪口が好きだ。こう書くと某吸血鬼漫画の少佐みたいだが、あそこまで狂っているわけじゃない。悪口の中にも好きな悪口があるという話。好きになる条件は二つ。まず面白いこと、もう一つは言っている本人が悪い事をしている自覚があること。
面白いという条件は単純で笑えること。深夜ラジオやネットミームの影響だと思うが、昔から笑える悪口が好きだ。「死ね」ではなく「糞を食らって西へ飛べ」と言ったり、嫌いなゲームを「頭がEスポーツ」と言ったり妙に中毒性があってたまらない。声に出したくなる日本語だ。
しかしもう一つを満たすのが難しい。最近思うのが悪口を言うくせに自分が被害者だから何をしても許される、もしくは悪人には何をしてもセーフだと勘違いしている輩が多い気がしている。普通に考えたらそんなはずはない。昔から人を呪わば穴二つ、同じ穴の貉という言葉があるように悪口を言う段階でもう相手と同類だ。自分もクソ野郎になっている自覚を持たないといけない。それを忘れている人が多い。教会で告白をしろとは思わないが、クソ野郎になった自覚を持つのは最低限の礼儀だ。悪口を言うのにも礼儀があるというのが僕の考えだ。
周りの人やSNSを見ていると被害者アピールが強い人が多い。「この前~されたから」「こんなひどいことを~に」というフレーズを入れる、そしてエピソードの端々に相手の悪い情報を混ぜる。僕が一番嫌いなパターンだ。悪口を言うなら保険をかけるなと言いたい。ちゃんと同じ肥溜めに腰まで浸かって正面から殴り合う覚悟を持たないといけない。自分だけ遠くから石をなげようとするのは根性が曲がっている。
最近は少数派や被害者であることが特権階級のように扱われるパスポートになっていると思う。そのおかげで被害者アピールをしながら相手の悪口を言う人が増えている。そうすれば自分は清廉潔白な弱者で、不当に力を振るう強者という構図が作れるからだ。
僕はそれは大きな間違いだと思う。本当に清廉潔白な弱者なら相手の目につかないところで悪口を言うはずがない。悪口を言うということは自分も汚い強者側になるということだ。それを自覚しなければいけない。相手をクソ野郎扱いしたいなら、自分もクソまみれの褌をしめて肥溜めで相撲を取るのが礼儀というものだ。それを忘れてはいけない。
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