座禅なくして悟りなし〜座禅中に起きた不思議な体験〜
3年位前だったと思います。
5月の終わりか、6月の始め頃。湿気が多くじめっとした空気が体にまとわりつく日でした。
その日私は仕事が休みで、妻と幼い娘は朝の10時過ぎから出かけていました。子供が生まれてからなかなか一人の時間がとれていなかった私に、遂にやってきた一人の休日。
その頃、座禅にハマっていた私は、
「今日は思いっきり座禅をしてやるぞ。」と意気込んでいました。
午前中はいつものようにダラダラと、物が散らかった部屋を片付けたり、幼い娘のクルクルとしたくせっ毛が落っこちている床に、掃除機をかけたりしていました。
掃除がひと段落すると、軽い昼食をとります。ハムとチーズのサンドイッチ。私が子供の頃から好きなサンドイッチです。一口ごとに30回噛むことを意識しながら、たっぷりと時間をかけて昼食を済ませます。
食事が終わると緑色をした二人がけのソファに移動し、ハンドドリップで淹れたうすいコーヒーを大きめのマグカップで飲みながらお腹を落ち着かせていました。
そして、15時を過ぎた頃。
昼というには遅すぎて、夕方というにはちょっと早過ぎる時間帯。
ベランダに通じる窓からは西日が差し込み始めていました。
少し汗ばむくらいに蒸し暑かったので、窓を開けて網戸にしていると、たまに吹く湿った風が、ゆらゆらとレースのカーテンを揺らしていました。
幼い子供がいる家庭によくあるように、フローリングの床にはベージュとコゲ茶色のクッションマットが交互に敷き詰められています。
部屋の片隅には木製のベビーベッドが置いてあり、その頭上では北欧風のデザインの動物がぶら下がったベッドメリーが、とてもゆっくりと揺れていました。
私はベランダを背にして、左目の端っこにベビーベッドの存在を感じながらゆっくりと座禅の世界に入っていきます。
フローリングに敷かれたクッションマットの上で、いつもの緑色のクッションを2つに折り曲げ、その上にお尻を乗せます。
次に右足を左の太ももの上に乗せ、左足を右の太ももに乗せ胡座をかきます。
そして背筋を伸ばし、おへその下あたりで右手の掌の上にそっと左手を乗せ、親指同士を軽くくっつけます。
そして、ゆっくりと瞼を半分だけ閉じ、呼吸に意識を集中させるため、吐く息に合わせてゆっくりと数を数えていきます。
ひとーつ、、ふたーつ、、みーっつ、、、、
時間が経つにつれて、だんだん足が痺れてきましたが、その日は意気込んで座禅を始めた甲斐もあり、いつもよりも集中できていました。
足の痺れも次第に気にならなくなり、時間の感覚もだんだんなくなっていきました。
いったいどれくらいの時間が経ったのでしょうか。
ふと気がついた時、部屋の中はとても静まり返っていました。
窓の外を通る車の音も、近所の子供達が遊ぶ声も、冷蔵庫のモーター音も、時計の針の音も、たまに吹き込む湿った風の音も、全ての音がやんでいました。
初めて感じる静けさに少し戸惑う私。全てが静寂に包まれると、自分の心臓の鼓動だけが聞こえてきます。
「トク、トク、トク、」
体の内側から聞こえてくるその音は、次第にどんどん大きくなっていきます。
「ドク、ドク、ドク、ドク」
更にだんだんと大きくなる鼓動は、耳を塞ぎたくなるような大きい音に変わっていきます。
その音は自分の心臓の音なので止めることはできません。
「ドグンッッ!!ドグンッッ!!ドグンッッ!!」
まるで頭の中で和太鼓を全力で叩いているように心臓は鳴り続けます。
私は怖くなり思わず目を開いてしまいました。すると、目の前にうつるいつもの部屋は、クッションシートが敷かれた床も、白い壁紙が貼られ蛍光灯をぶら下げた天井も、グニャグニャと歪み、ウネウネと波打っていました。
大きくなったり小さくなったり、太くなったり、ほそくなったり、
それはまるで、波が渦巻く海の中に放り込まれたような気分でした。
そして、その部屋は歪みながら色彩を変え始めます。赤、青、黄色、オレンジ、紫。まるで体育館に置かれた投光機のカラーフィルムで子供達がイタズラをするように、目の前の色が次から次へと変わっていきます。
サイケデリックな幻覚にも似た空間は、私の頭の中をグルグルと掻き回しました。
私は必死に理性を保つことだけに集中します。
だんだん呼吸が早くなり息苦しくなってきた私は、自分の身体に何が起こっているのかも分かりません。気持ちを落ち着かせるために、ゆっくりと呼吸することに意識を集中させます。すると歪んでいた空間はゆっくりと元の位置に収まり、意識をすりあわせるように少しずついつもの色彩に戻っていきました。
今のが悟りか?!
そう感じた私は、次の日からしばらくのあいだ、厨房の端っこででこっそりとスプーンを曲げようとしてみたり、
サイババのように手から塩を生成できないかと、人の目を盗んでは、無駄に高い位置から塩を振るようなまねをしたりしていました。
しかし、スプーンも曲がらなければ、塩も出てきません。そこにあるのは、ホールスタッフがとってきたオーダーシートといつもの現実です。
結局何も悟れていない、煩悩丸出しの私は、
「シェフ何してんすか?」と不意に言われ、冷や汗をかき、黒いタンクトップに塩をにじませるのでした。
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