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お金は「記憶」を持ちたいのか

先ほど私が使った100円玉は「どんな経路を経て私の元に届き」そして「どこに向かっていくのか」

私たちにとって、(1) 今、私たちのお財布に入っているお金達の「記憶」を辿ることは可能か (2) もし可能ならば、私たちはその「記憶」を辿るべきかの二点を考えていきたいと思う。

1. 「お金」と私たちの「記憶」

「お金」は常に私たちと日常を共にしている。だからこそ私たちの生活は、時たま「お金」と引づけられて記憶されている。例えば、

ポジティブな記憶

・お年玉で買った本

・初任給で両親にご馳走したディナー

・500円玉を握りしめてスーパーに一人で向かった子供が初めて買ってきてくれた夕飯用のキャベツ

ネガティブな記憶

・友人だと思っていた人に無心されたお金

・デートの度に当たり前のようにおごらされた記憶

・解除したと思っていた初回1ヶ月無料のサイトへのサブスクリプションを解除し忘れ、支払わざるおえなくなった今月分の料金

ニュートラルな記憶

・毎日コンビニでコーヒーを購入する時に払うお金(特別な感情を持たずして意識せずに払っている? これらの記憶が持続するのかは別の議論の余地があるが…)

しかし、それらの多くの記憶は使用者である私たち側にしかとどまっていない。お金はそんな私たちの「記憶」など知る由もない。つまり「お金」と「私たち」の関係においては、一方向の「記憶」しか存在していないのである。


2. お金に「記憶」を持たせることは可能か

「お金」が記憶を持っているはずがない、と考える方が多いと思う。確かに「樋口さん」等の紙幣や硬貨がどのような経路で私の元にきてくれたのか、私たちは辿ることができない。

しかしどうだろうか「クレジットカード履歴」は彼らの記憶と呼べないだろうか「Paypalの月別領収書」はどうだろうか。彼らは自分の歴史をしっかりと記憶している。

さらに言うならば、ビットコインやその他仮想資産の多くにおいては、ユーザーは自分の所有しているコインの動きだけでなく、他のユーザーの取引履歴まで基本的には全て追跡することができる (コイン単位ではないが) 

それならば、この世の中、気づかないうちに 徐々に「お金」が持つ「記憶」が増えていっていると言えないだろうか。

ここで多くの方がそれは「記憶」ではなく「記録」だと思うはずである。

「記録」が「私(Otterian)が住所(...)のスーパーで7/31 16:00にひき肉を購入した」だとするならば、「記憶」とは、もっと感情を含めた「私(Otterian)が住所(...)のスーパーで、今日はいつもの安いやつがない!なんで...でも仕事で疲れているからどうしてもハンバーグ食べたい 仕方ないこのひき肉でいいやっと思ってひき肉を購入するのに使われた」という「私たちの思考プロセスも含めた人間側に記憶されているものと似ている何か」なのだろうか。

だとしたならば、お金に「記憶」を持たせるには、お金自身が「人間側の記憶」を知り、保全し、次の利用者に知らせる必要性があるのか。それとも、彼ら自身が「経験」し自身の記憶を形成することは可能なのだろうか。

3. お金に「記憶」を持たせるべきか

「できる」と「すべき」は別問題である。

「お金」とは「手段」であるといわれている。既存の定義を述べるならば、「お金」とは (1) 価値の保存機能 (2) 交換機能(決済機能)(3) 価値の尺度機能の3つの機能を有するものとされている。

言い換えるならば、「お金」はタンスに入れといて、一年後取り出しても然程価値が変わらなく、物々交換の仲介になってくれて、私たちがサービスや物の価値を相対的に判断する物差しとなってくれるものである。

では、お金が「記憶」を持った場合、何が起こるのだろうか

お金が「記憶」を持ったならば、全くの他人とお金を媒介として記憶を共有することになるはずである。

しかし、

・私たちはそもそも、他人の記憶に関心があるか。

・果たして、他人の記憶があなたがお金を使う判断をする上で何かしらの影響を及ぼしているのか。

・及ぼしているとしたらその影響は社会全体にとって良いのか悪いのか。

行動経済学でいうところの「人間は非合理的である (homo economicus)」だとしたら、お金が記憶を持つことで私たちの経済行動がより合理的なものへと変容するのか。
「記憶」を持ったお金が私たちをよりよい行動へと「ナッジ」(そっと一押し)する役割を担い得るのか。
そもそも、お金が記憶を持たないことで、私たちの世界に社会経済の最適化効率化を妨げる「情報の非対称性」が存在しているのだろうか。「他人のお金との記憶」は私たちが経済的判断をする上で必要な情報なのか。

お金が自分と他者や社会との関係性、関連性 (relation)を出み出す重要な媒体とするならば、その「手段」たるお金に「記憶」を加えることで、社会経済システムを変容することがより容易くなるのではないだろうか。


4. この思考と共に私はどこへいきたいのか

そもそも(1)「記憶」とは何か (2) その「記憶」はどのように私たちの行動を変え得るのか (3) その行動の変容は社会にとって最適なのか (4)社会にとって最適な経済活動とは何か等々考えるべき点は多々ある。

ここまで書いておきながら自分でもよく分からない。要検討、要再思考事案。

タイトルの『お金は「記憶」を持ちたいのか』という問いは、あたかも、お金に意思決定権があるかのような言い草である。しかしながら、お金を主語にし、「お金がなくなった」とよく言うように、私達は無意識に、お金に自分達の経済活動の判断を委ねたかのような認識をしていないだろうか。(私はしてる。お金が使って欲しそうにしてるから使わざるを得ない。それでもって彼らはすぐいなくなる…薄情なやつだ…)

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