「三組から成る瞑想ができるからこそプラーナはブラーフマンである」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.1.31)
はじめに
私は今から24年前に、『ブラフマ・スートラ』のシャンカラ師の解説についての講話を今日までの第一篇第一章を二時間の講義を二回で学んできたのですが、いざ訳してみると、開始したのが2024年8月20日なの約二ヶ月半は経過しています。
当時は、よくわからなくて質問もできなかったのに、このように原文を翻訳している不思議が感慨深いものがあります。
今回の「個々の魂」は、サンスクリット語だと「ジヴァートマン」なので原文に括弧付きで「個我」として入れさせていただいております。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章三一節
31節 個々の魂(個我)と主な生命力の兆候を理由に、ここではブラーフマンは語られていないと主張するならば、それはありえない。なぜなら、これは三組からの瞑想につながるからである。(その上、プラーナは)ブラーフマンを意味するものとして(他の場所で)受け入れられている(ブラフマンの特徴が存在するため)、(そして、それらは)ここでも証明されている。
反論相手:最奥の内なる自己に言及する頻度が高いことから、この教えは(その後に生まれた)外的な神的存在に関するものではないことがわかりますが、それでもこのテキストはブラーフマンとは関係ありません。
なぜですか?
なぜなら、個々の魂(個我)と主要なる(最もすぐれた神である)プラーナの特徴的な印があるからだ。個々の魂(個我)の特徴的な印については、この文章にはっきりと表れている。「人は話し(の内容)について尋ねるべきでなく、話し手を知るべきである」(Kau.II.8)などである。なぜなら、発語器官やその他の器官の使用に従事し、肉体と感覚の集合体を統括する個々の魂(個我)が、ここでは知られるべき存在として語られているからである。 また、主な生命力の兆候もある。「さて、肉体を保持し起き上がらせるのは、意識と一体化したプラーナである」(Kau.III.3)そして、肉体を維持することは生命力の働きである。プラーナの逸話では、他の手押し車(prams)、すなわち発語器官などについても語られている。「主要なるプラーナは彼らに言った。“惑わされてはならない。この肉体を五つに分け、一つにまとめているのは私なのだから”」(Pr.II.3)
(上に引用したカウシータキーのテキストの)意味は、"imam sariram parigrhya"(imam「これ」は中性名詞のidamの代わりに男性名詞で使われている)と読む人によれば、こう説明される。「この個々の魂(個我)、あるいは肉体と感覚の集合体を保持し、肉体を起き上げさせる」意識との同一性も、個々の魂(個我)の場合、その知性を根拠として正当化できる。そしてこのことは、主要な生命力の場合にも正当化できる。なぜなら、知覚の道具である他の器官(プラーナと呼ばれる)を支えているからだ。たとえ、それらが個々の魂(個我)と生命力の両方を意味していたとしても、意識的な魂とプラーナの共存という観点から、それらを1つとして言及することは合理的である。しかし、たとえば、「プラーナであるものは知性であり、知性であるものはプラーナである」(Kau.III.3)や「この2つは肉体の中に共に存在し、共にこの肉体を離れる」(Kau.III.3)などのように、個々の立場から別々に言及することもできる。もしブラーフマンが(プラーナの)意味として受け入れられるなら、どちらが他と異なるだろうか?したがって、個々の魂(個我)かプラーナか、あるいはその両方が意味であって、ブラーフマンは意味ではないとする。
ヴェーダンティン:そうではない。それは三組の瞑想を伴うからです。その仮定の上では、個々の魂(個我)についての瞑想、主要なプラーナについての瞑想、そしてブラーフマンについて三種類の瞑想に直面することになる。しかし、そのような意味は一文に認められない。というのも、この一節の冒頭部分と補足部分を考察すれば、思想の統一性が明らかになるからである。「私だけを知りなさい」(Kau.III.1)で始まり、「私はプラーナであり、意識と一体である。生命と不死として私を崇めなさい」(Kau.Ill.2)と宣言した後、最後に「プラーナであるその実在はまさに意識と一体である」(Kau.III.8)、「至福、不老、不死」(III.8)と述べており、開始と終了が同じパターンであることがわかる。
そうであるなれば、趣旨(purport)の統一性を理解するのは合理的である。その上、ブラーフマンの特性を他のものに適用することは不可能である。なぜなら、十の形態の元素と十の形態の知性(すなわち、五つの元素とその性質、五つの感覚と五つの知覚(sensation)の形態)は、ブラーフマン以外の何ものにも統合することができないからである。「さらに、それは認められる」というのは、ブラーフマンの特性の出現から、プラーナという言葉がブラーフマンを意味することは他の場所でも認められており(B.S.I.i.23)、そして、ここでも最も恩恵に浴するなどの特性があることが証拠となっていることから、これはブラーフマンについての教えであると理解される。
そして、「この肉体を保持し、起き上がらせる」(Kau.III.3)というテキストは、主要な生命力の兆候であると論じられた。しかし、それは間違いである。なぜなら、生命力の機能でさえもブラーフマンに依存しており、したがって、ウパニシャッドのテキストにあるように、「いかなる死すべき存在も、吐き出すことと吸うことによってではなく、これら 2 つが依存する他の実在によって生きる」(Ka.II.v.5)と至高の自己に(比喩的に)帰属させることができるからである。このテキスト「人は話し(の内容)について尋ねるべきはなく、話し手を知るべきである」(Kau.III.8)の解釈でさえも、(相手によって示される)個々の魂(個我)の兆候を提示しているとして、ブラーフマンの受け入れを排除することはできません。
なぜなら、個々の魂(個我)として知られているものは、ブラーフマンと完全に異なるものではないからである。というのも、「汝はそれなり」(Ch.VI. viii-xvi)、「われはブラーフマンである」(Br.I.iv.10)などのテキストは、この見解(this view)を否定しているからである。個々の魂(個我)は実は(in reality)ブラーフマンであるにもかかわらず、知性のような限定的な付属物によって作り出された区別のために、それは行為者(agent)または経験者と呼ばれる。人を最奥なる自己に向かわせるために、「人は話しについて尋ねるべきでなく、話し手を知るべきである」(Kau.III.8)と言うことは矛盾を伴わないが、これは個々の魂(個我)を条件付けの要因によって作られた区別を取り除き、その本質であるブラーフマンとして示すことを意味している。また、ウパニシャッドの別のテキスト、「言葉によって発せられるのではないもの、言葉によって発せられるもの、それをブラーフマンと知りなさい。彼らが客観的に崇拝しているこのものではない」(Ke.I.5)は、話すといった活動に従事する魂はブラーフマンにすぎないことを示している。
もうひとつの反論は、「両者はともにこの肉体に宿り、ともに肉体を離れる」(Kau.III.4)で述べられているように、プラーナと意識と同一視される自己との間に差異があるという認識は、ブラーフマンに固執する者には維持できないというものだった。それは正当な反論ではない。というのも、知性とプラーナの違いを示すことは可能であり、それは内在する自己の二つの限定的な付属物を構成し、知る力と行動する力の基盤を形成するものだからである。しかし、この二つによって条件づけられている内在する自己は、それ自体には何の違いもない。それゆえ、「プラーナは意識と一体である」と述べられている同一性は、矛盾を含んでいない。
あるいは、格言の一部「Nopasatraividhyat asritatvat iha tadyogat」は、(Vrttikaraによれば)このような別の意味を持っている。個々の魂の特性や、ブラフマンを扱うこの文脈の主要な生命力に出会ったとしても、矛盾はない。で。
なぜでしょうか?
なぜなら、瞑想には三組の瞑想があるからだ。ここでは、プラーナ、知性、そしてブラーフマンそのものの特質の助けを借りて、ブラーフマンに関する三組の瞑想が意味されている。これらのうちプラーナの特質については、次のように述べられている。「生命と不死として瞑想せよ。生命はプラーナである」(Kau.III.2)、「この肉体を保持し、起き上げさせる」(Kau.III.3)、したがって「ウクタ(*131)として瞑想すべきである」(Kau.III.3)知性(すなわち魂)の特質はこのように述べられている。「さて、これらすべてのものがいかにしてその知性(*132)において統一されるかを説明しよう」(Kau.III.4)から始まって、「発語器官それ自体がその(すなわち知性の)肉体の半分を満たし、(目などを通して)知覚される対象として表現される名前がその残りの半分(*133)となる」(Kau.III.5)、「知性を通して発語器官に乗り、それ(すなわち意識的な魂)はすべての名前(*134)に到達する」(同上)と述べられている。ここに知性の特質が示されている。
(*131)Uktha:肉体を起き上げさせる(utthapayati)のはウクタ、すなわちプラーナである。
(*132)intellect:「Prajna(般若・智慧)」という言葉は、ここでは自己(アートマン)の反映を背負った知性を意味する。その知性を通して知覚されるすべてのものは、知性の基礎である自己に統合される。
(*133)half:魂と呼ばれる知性に対する自己(アートマン)の反映は、名前の宇宙を知覚する真の主体である。そして、これが魂の肉体の半分を構成している。また、形の宇宙を構成する形を知覚する主体でもある。これが魂の肉体のもう半分である。知性は、その上に自己(アートマン)を反映させながら、発語器官を通して名前の宇宙との関係において作用する。
(*134)names:同様に、それは先見者(seer/予言者)などになる。
そして、ブラーフマンの性質は、次のように示されている。「これら10の元素とその享受できる性質は、10の感覚と感覚知覚に依存しており、感覚と感覚知覚は元素とその性質に依存している。そして、感覚と感覚知覚は元素とその性質に依存している。元素とその性質がそこになかったら、感覚と知覚はそこになかっただろうし、感覚と知覚がそこになかったら、元素とその性質はそこになかっただろう。そのどちらからも、どのようなルーパ(形態)、出現(appearance)、可能性も発生せず、また、それらは異なっていない。この点を説明すると、戦車の車輪の縁がスポークに固定され、スポークが身廊(the nave)に固定されているように、これらの元素とその楽しい性質は感覚と知覚に固定され、感覚と知覚は元素とその楽しい性質に固定されている。このようなプラーナは、確かに意識と一体である」(Kau.III.8)
したがって、これはブラーフマンに対するたった一つの瞑想であり、ブラーフマン自身の資質とその二つの条件要素の資質に基づくことによって、三組のものとして語られている。例えば、「心との同一である」、「肉体としてのプラーナを持つ」(Ch.III.xiv.2)など、条件づけ要因の資質との同一性の助けを借りて、他の場所でもブラーフマンの瞑想が行われている。それはここにも当てはまる。なぜなら、テキストの最初と最後から、その趣旨の統一性が理解され、プラーナ、知性、およびブラーフマン(*135)を示す印がここにあるからである。したがって、このテキストがブラーフマンを提唱していることが証明される。
(*135)Brahman:ラトナプラブハ(Ratnaprabha)はこの見解を否定し、これはヴルティカーラ(Vrttikara)の解釈であり、シャンカラ自身の解釈は以前に与えたとおりであると述べている。
最後に
今回の三十一節にて引用されているウパニシャッドとブラフマ・スートラを以下にてご参考ください。
今回の三十一節を要約すると
いかなる解説も個我とプラーナについて語っているだけだから、ここではブラーフマンについては解説されていない、と言われるかも知れないがそうしたことはあり得ない。なぜならば、このような解説に対して、三組から成る瞑想ができるからだ。これ以外にもプラーナは、いかなるところにおいてもブラーフマンとして理解されている。というのは、プラーナにブラーフマンの性質が存在しているからであり、このようなことごとは、そうしたことからまったく明白なことなのだ。
そして、瞑想している人ならばご存じのことではありますが、三組の瞑想とは下記となります。
1.個我(智慧)に対する瞑想
2.プラーナに対する瞑想
3.ブラーフマンに対する瞑想
「個我(智慧)に対する瞑想」とは、自分の考え方に対する瞑想ですが、自分がこのような状況においてこのように感じるのか、このように思うのか、こんな行動を反応とするのかなど、何らかのテーマをもって自分のセルフトークを調べるというのもありますし、内観のように身調べするのも含まれます。
「プラーナに対する瞑想」とは、自分のそのときの心のエネルギーや過去の活動や行為についてのエネルギーについて調べるということ、いろいろ述べられますが、一般的なものとしてとどめておきます。
「ブラーフマンに対する瞑想」とは、ブラーフマンに対して、よりもっと深いところで観るものとしての意識の大元に対する瞑想だと言えます。瞑想の統一性として、最終的にはすべて同じブラーフマン(神様)に到達していく瞑想となるとも言えます。
また、『カウシータキー・ウパニシャッド』から「人は話しの内容より、むしろ話し手を知らなければならない」ということの意味を深読みすると
「話し手」として知覚する行為者や経験者ではない「話し手」を知るということができる、ということになります。
まだ、始まったばかりなので、深読みはこのぐらいにして、次回からの第二章を楽しみにしましょう!