「心静かにブラーフマンを瞑想する」/シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』(1.2.1)
はじめに
これから第二章と第三章にて、ブラーフマンについての不明瞭な兆候を持つウパニシャッドなどの聖典の中で疑問に対して、シャンカラ師が明解な論説をされるとのことなので、読んでいきたいと思います。
シャンカラ註解『ブラフマ・スートラ』第一篇第二章一節
イントロダクション:第一章では、「そこからここの誕生などが生じてきた」という格言の下で、ブラーフマンが空間から始まる全宇宙の誕生の原因であることが述べられている(B.S.I.i.2)これによって、宇宙の原因であるブラーフマンは、普遍、永遠、全智、全能、万物(identity)との同一性などの特徴を備えていることが、その事実から明らかにされた。そして、ウパニシャッドの中で、他のものを意味するある言葉が、ブラーフマンの意味で使われていることが、理性の助けを借りて示された。それによって、ブラーフマンの明確な示唆を持つある文の意味が疑わしくても、それはブラーフマンを意味することが確認された。ブラーフマンの不明瞭な兆候を持つ他のいくつかの文に関しては、それらは至高のブラーフマンを確立するか、他の実在として再び疑問が生じる。第二章と第三章は、これを確かめるために始められた。
表題1 あらゆる場所で知られる存在(万所として知られる存在者)
1節 ブラーフマンは瞑想されるべき対象である。なぜなら、どこでもよく知られていることが教えられているからだ。(チャーンドギヤ・ウパニシャッドⅢ.14.1-2より引用)
疑問:ウパニシャッドにはこう書かれている。「すべてはブラーフマンにほかならない。ブラーフマンに由来し、ブラーフマンに融合し、ブラーフマンに支えられているからである。人は落ち着いて瞑想すべきである。さて、人は決意の産物である。この世を去った後、人は自分の意志通りに(つまり、自分が瞑想したことに従って)なる。彼は決意を持たなければならない。心と同一視され、その肉体はプラーナ(微細体)であり、その本性は光(すなわち知性)から成る者」(Ch.Ⅲ.xiv.1-2)これに関して疑問が生じる。瞑想のためにここに示された、心と同一化するような特性を持つ肉体化された魂なのか、それとも至高のブラーフマンなのか?結論はどうなるのだろうか?
反論相手:それは肉体化された魂に違いない。
なぜですか?
なぜなら、その場合、心などとの関係は周知の事実であるが、至高のブラーフマンの場合はそうではないからであり、それは「彼は純粋であり、生命力と心を持たないからである」(Mu.II.i.2)や他のテキストに書かれている。
反論:「地球よりも大きい」(同書xiv.1)などと述べられているように、ブラーフマンは名前によって示されている。では、ここで瞑想されるべき実在が肉体化された魂であるという疑門がどうして生じるか?
反論相手:それは何の問題も生じない。この文章はブラーフマンについての命令ではない。
では何についてですか?
「すべてはブラーフマンに由来し、ブラーフマンに融合し、ブラーフマンに支えられているからである。人は落ち着いて瞑想すべきである」(Ch.III.xiv.1-2)という声明(statement)からも明らかなように、これは冷静さを与えるためのものである。暗示されている考えはこうである。このすべての創造物はブラーフマンに他ならず、ブラーフマンに由来し、ブラーフマンに融合し、ブラーフマンに支えられている、 すべてのものが同じであるとき、執着などはありえないので、人は静けさによって瞑想すべきである。そして、もしこの文章が静けさを命じることを意図しているのであれば、同時にブラーフマン(*1)への瞑想を命じていると解釈することはできない。瞑想そのものは、「彼はクラトゥを持つべきである」という文の中で命じられており、クラトゥとは決意、つまり瞑想を意味する。そして、その瞑想の対象として、「心と同一化し、生命力を肉体とする」(同上)と書かれている。さて、これは個々の魂(個我)のしるしである。
(*1)Brahman:それは文章の趣旨の統一性を損なうことになるからである。
したがって、この瞑想は個々の魂(個我)に関係していると言う。そして、私たちが出くわした「あらゆる行為の実行者、あらゆる欲望の所有者」(Ch.III.xiv.2)などというテキストは、(さまざまな誕生におけるこれらの)漸進的な実現の観点から、個々の存在に適用できるようになる。また、無限のブラーフマンではなく、煽り棒(a goading stick)の先ほどの大きさ(Sv.V.8)の個々の魂(個我)にとって、「心臓の中には、籾や麦の粒よりも小さい私のこの自己がある」(Ch.III.xiv.3)で述べられているように、心臓の中に居住し、極小であると考えることができる。
反論:「地球よりも大きい」(同上)というような記述は、限られた魂との関連で考えることはできない。
反論相手:それについてはこう言います。「微細さと広大さの両方を同じ実在に適用することはできないのは矛盾しているからです。そして、どちらか一方を受け入れなければならないのであれば、先に述べた極小性を取り上げる方が合理的です。しかし広大さは、魂がブラーフマンになるという観点から言及することができる。明確な意味は個々の魂(個我)であり、最後に「このブラーフマン」(Ch.III.xiv.4)という言葉で、すでに議論されている主題への言及として意図されているからである。それゆえ、個々の存在は、心などと同一視される資質を有するものとして瞑想されるべきである。
ヴェーダンティン:このような立場から私たちは言います。至高のブラーフマンそのものは、心などとの同一性の特徴を持っているとして瞑想されるべきです。
なぜか?
なぜなら、ブラーフマンという言葉が意味され、すべてのウパニシャッドでよく知られているからです。「すべてはブラーフマンにほかならない」という言葉で宣言されている宇宙の根源は、心などと同一化される特徴を持つものとして説かれるべきであるからである。 このように解釈すれば、議論中のトピックを放棄して無関係なことに目を向けるという過ちを避けることができる。
反論相手:このことに関して、私たちは、ブラーフマンは平静を命じる目的で最初に提示されるのであって、それ自身のために提示されるのではないと言いませんでしたか?
ヴェーダンティン:これについては、ブラーフマンは平静の命令に関連して示されるのですが、それでもなお、心との同一性などの資質が説かれるときには、ブラーフマンは(個々の魂よりも)それらに近いのですが、一方、個々の魂は近くに(*2)あるわけでもなく、それ自身の同義語(*3)を通して示されるわけでもない。ここに違いがある。
(*2)hand:プラーナサーラーとマノマーヤーという複合語を、プラーナを肉体とし、心を付属物とするこのものと分割すると、このものという代名詞は、近くにあるものを指すので、ブラーフマンを容易に思い浮かべることができる。
(*3)synonyms:ここで発見された個人に関するいかなる兆候も除外されます。悲しみの対象となる実在が瞑想の対象となることはありえないからだ、そのような行為は非論理的である。
最後に
今回の第一篇第二章一節にて引用されているウパニシャッドとブラフマ・スートラを以下にてご参考ください。
※プラーナとするのが原文なのですが、シャンカラ師は微細体として人間五蔵説で言われているような微細な心の体としてプラーナを解釈している様です。
今回の一節を要約すると
ブラーフマンが瞑想の対象であるのは、あらゆるところ(万所)、つまり、聖典に述べられていて、しかも、ブラーフマンが世界の原因であるとして知られているブラーフマンはいろいろなウパニシャッドに解説されているからだ。
『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』から引用したシャンカラ師は、この世の全ては他でもないブラーフマンであり、全てはブラーフマンから生じ、そして、全てはブラーフマンに没入(帰入)していくのだし、また、全てはブラーフマンに支えられている、この事実について人は心を静めてウパサナ(瞑想)を施せ、ということなのですが
しかし、この事実だと断定されていることは、まだ私たちにとっては(この“note”を読まれている方々の中には事実だと受け入れられる方もおられるでしょうが)、事実というよりも仮説として、それを実証実験するという意味において、心を静めてウパサナを施してその都度に気づきやインスピレーションを得ていく。
この実証実験はどこで行うのか?
科学者は実験室ですが、私たちは、精神の意識の中で科学的な実験室としてウパサナすなわち瞑想を施していくわけなのですが
ここで大切なのは、仮説を前提とした実証実験なので、行う上で実験室の条件が整わないと時間の無駄になってしまいます。
たとえば、サイエンスの世界で、ニュートリノなどの観測により素粒子・宇宙の謎の解明を目指すためにはスーパーカミオカンデという実験装置を整える必要があるのと同じように
ブラーフマンを対象とする場合において、意識の中の実験室の条件を整えるという意味において、心静かにすることだとシャンカラ師はまだここでは控えめに伝えています。
スーパーカミオカンデ内を真空とするように心の中も空っぽにする…
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