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「記憶との対話」とは何か——大竹昭子のカタリココ『高野文子「私」のバラけ方』(その1)【書評】

文筆家・大竹昭子の、朗読とトークのイベントから生まれた書籍レーベル「カタリココ文庫」。入手困難な第1号を含め、現在刊行されている全10冊プラスαをレビューする。

その記念すべき第1号は、漫画家・高野文子を招いたトークイベント「カタリココ」の対談録。その書評をするにあたり、二つのことをふと考えてしまった。

一つめは、批評家の作品を「批評」するということ。大竹昭子は、ルポルタージュも書けば、写真も撮り、イベントも主催する。しかし、かつて写真を撮っていた自分からすれば、やはり批評家だという印象が強い。言葉を生業にしている大竹昭子を「批評」するなんて、あまりに畏れおおい。

二つめは、大竹昭子の文章を読み解くことが目的のはずが、対談なので、どうしても対談相手の作品なり考えも「批評」の対象となる。高野文子の作品を単独で「批評」することと、どこまで違いを出せるものか。

ここは、近代批評の神様といわれる小林秀雄の言葉、「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」(『様々なる意匠』)に随おう。他人の言葉を鏡として、自分を、自分の言葉で映し出す。自分の好きなものは、自分の言葉で語りたいものだ。

さて、大竹昭子のカタリココ文庫第1号は『高野文子 「私」のバラけ方』である。

冒頭で大竹昭子は高野文子に対し、自分の狙いを真っすぐに告げる。

私の関心を一言でいえば、「高野文子はどのようにして『高野文子』になったのか?」ということなんです。

何が、高野文子を高野文子たらしめているのか。それを大竹昭子は生い立ちから探っていく。というのも、高野の作品は基本的に自伝だと大竹は考えているからだ。記憶との対話とも言い換えている。読者は、たとえ時代感覚を共有していなくても、作品から無意識の領域が掘り起こされているのではないかという問いかけに、高野は意表を突かれている。

「記憶との対話」とは何か。

歩いた足跡にインクをたらせば日本地図が真っ赤に染まるといわれた民俗学者・宮本常一の有名な、「記憶されたものだけが、記録に留められる」という言葉がある。

大竹が引き出す高野の学生時代の思い出は生々しく、意外性もある。だからといって、すでに失われたものを懐かしむ、それらを取り戻したいという哀愁とも、また違う。

漫画『黄色い本』で主人公の実地子が読む小説『チボー家の人々』は、高野の読書体験からは5年ほどずらしているという。自伝として、たしかに中学生のときに『チボー家の人々』を読んだ経験を書くこともできる。ただ、それは単なる歴史的事実でしかない。そうではなく、季節の移り変わりとともに『チボー家の人々』全5巻を読んだ実地子の経験を、高校卒業と同時に図書館へ返却するときに高野自身が「思い出す」ことで、記録として『黄色い本』に留められたのだ。

たとえ高野自身が高校生のときに『チボー家の人々』を読んだ思い出ではないにせよ、いま、この眼前にない限り、思い出すらフィクションである。そのように「思い出す」そして作品に「記録」したことを、大竹は「記憶との対話」であると指摘しているのだ。

(つづく)

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既視の海
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