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はじめての小林秀雄

「批評の神様」とよばれる小林秀雄を読んでみたい。しかし、レトロな表紙の文庫本『モオツァルト・無常という事』は何だか難しそう。大学入試センター試験で読んだ批評『つば』はチンプンカンプンだった。それでも、何だか気になってしまう。

なぜ小林秀雄に惹かれるのか。歯に衣着せぬ物言いでバッサバッサと対象を斬り、飛躍した論理も何のその、高尚な逆説は小気味よく、あまり意味は分からないけれど、どこか分かったつもりになってしまう。そんなカタルシスを感じたい。かつては、そういう読者も多かったという。しかし現代では、その役割を小林秀雄に求めるよしはない。

では、なぜ小林秀雄を読むのか。それは、読み方を学ぶためだ。批評はつねに、よく読むことから始まる。小林秀雄は音楽や絵画についても批評した。そのときは、よく聴く、よく観ることから始めた。しかし、それは文学を批評する方法を芸術にも用いたまで。小林秀雄を読むというのは、小林秀雄の読み方を学ぶということだ。

文学であれば、まずよく読む。そして自分で考える。知識や理論は用いない。とくに小林秀雄は経験を重視する。自分の心が動くものを、何とか言葉に表わそうとした。そうすることで、自分をも知ることになる。それが小林秀雄にとっての批評だ。論壇に登場した1929(昭和4)年の『様々なる意匠』における有名な「批評とはついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか」という言葉で語っている。

小林秀雄の読み方を学ぶのに、ぴったりの一冊がある。それは「読書について」(中央公論新社)だ。書名のとおり、小林秀雄はどのように本を読むのか、どのように批評してきたのか、言葉についてどのように考えているのか、小林秀雄全作品から選りすぐった随筆集である。あくまでもアンソロジーなので、体系的な読み方指南にはなっていない。それでも小林秀雄の説く「文は人なり」を実感できる。

もちろん、小林秀雄には、名作と呼ばれるものがいくつもある。戦前は、ロシアの文豪の思想と人生を描いた『ドストエフスキイの生活』。戦中は「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」という名文句で知られる『当麻』。戦後は、「観」という言葉を起点に、仏教思想から芸術、美術、宮本武蔵までを縦横無尽に語る『私の人生観』。それらは、たしかに難しいという評価から逃れられない。雑誌連載から人気を呼んだ「考えるヒント」も、読むのに決してやさしいとはいえない。

ある日、小林秀雄に娘が国語の試験問題を持ってきて、何だかさっぱり分からないと言う。読んでみたら、なるほど悪文だと思ったが、それは自分の書いた文章だった——そんなエピソードが苦笑いを誘う『国語という大河』という作品が、この「読書について」に収録されている。小林秀雄自身も、自分の文章が難解だと言われることは自覚していた。だが、この「読書について」は、小林秀雄の体験に基づいた具体的な方法論や助言が書かれている。

ためしに、書名にもとられた随筆『読書について』の一節を読みたい。

書くのに技術が要る様に、読むのにも技術が要る。文学を志す多くの人達は、書く工夫にばかり心を奪われている。作家と言われる様になった人達の間でも、読む事の上手な人は意外にすくないものだ。

詠む工夫は、誰に見せるという様なものではないから、言わば自問自答して自ら楽しむ工夫なのであり、そういう工夫にも何も特別な才能が要るわけではない。だが、誰もやりたがらない。何はもあれ、特別な才能というものを、書く事によって、ひねり出したいからである。そういう小さな虚栄心だけで、トルストイなりバルザックなりに、繋がっているだけだ。だから、書く方は見込みがないと諦める時は、読書という楽しみも、それっきりになる時だ。

『読書について』「読書について」p11

たった2段落とはいえ、読みにくいだろうか。無駄のない平明な印象がある。1929(昭和14)年発表の作品なので、およそ一世紀前に書かれた文章だ。もともとは旧かなづかいだが、本書は現代かなづかいになっている。「〜のような」を「〜の様な」、「書くこと」を「書く事」と漢字で表記したり、送り仮名も多少、現代のものとは異なるものの、極端な古めかしさはない。

「読書について」は全3章からなる。第1章が読書の方法。第2章が批評とは何か。第3章が文化や教養についての考え。どれも批評家である小林秀雄が、どのように本を読んできたか。そして読んでいるかが具体的に書かれている。そのなかのひとつ、『作家志願者への助言』という文章では、小説や批評を書こうとしていなくても十分に役に立ち、しかも小林秀雄が実践してきた方法が五箇条にわたって紹介されている。

1.つねに第一流作品のみを読め
2.一流作品は例外なく難解なものと知れ
3.一流作品の影響を恐れるな
4.る名作家をえらんだら彼の全集を読め
5.小説を小説と思って読むな

『作家志願者への助言』「読書について」p28〜31

この「作家の全集を読め」という読書法は、前述の『読書について』でも述べられている。

或る作家の全集を読むのは非常にいい事だ。研究でもしようというのでなければ、そんな事は全く無駄事だと思われ勝ちだが、決してそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、一番手っ取り早いしかも確実な方法なのである。

一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手ごろなのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。

そうすると、一流と言われる人物は、どんなに色々な事を試み、いろいろな事を考えていたか解る。(中略)これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。

『読書について』「読書について」p11

この教えにしたがって、全集を読んでみたら、どうなったのか。別記参照してほしい。

「読書について」には、小中学生向けの講演録を作品化した『美を求める心』という文章もある。小林秀雄が文学だけでなく、美術や音楽といった芸術作品をどのように観るのか、「美」とはいったい何なのか。分かりやすく語りかける一つひとつの言葉が選び抜かれていて、名文の誉れも高い。

美しい自然を眺め、或いは、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝えいと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直まっすぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。

『美を求める心』「読書について」p88

この「美」という言葉を、「本」や「文章」に置き換えてみる。読書をして感動したとき、何とも言葉で言い表せない思いを抱く。それこそ、書物の筆者が伝えたかったことだ。読む側の心がざわめいたときに、思わず黙ってしまう。そんな沈黙を受けとめるのも、小林秀雄の「読み方」である。

本書に収録されている作品で、最も遅くに書かれたものが、1973(昭和48)年の『読書の楽しみ』だ。11年にわたる連載『本居宣長』を書き継いでいる途中であり。まだまだ批評の気力は衰えていないものの、古希を過ぎた読書人生の味わいも感じられる名随筆だ。

本は、若い頃から好きで、夢中になって読んだ本もずい分多いが、今日となっては、本ももう私を夢中にさせるわけにはいかなくなった。(中略)往年のはげしい知識欲や好奇心を想い描いてみると、それは、自分と書物との間に介在した余計なもののように感じられる。それが取除かれ、書物とのかな、尋常で、自由な附合の道が開けたような気がしている。書物という伴侶はんりょ、これが、以前はよく解らなかった。私は、依然として、書物を自分流にしか読まないが、その自分流に読むという事が、相手の意外な返答を期待して、書物に話しかける、という気味合きみあいのものになったのである。

『読書の楽しみ』「読書について」p64

読むことは、相手すなわち書物からの意外な返答を期待して話しかけること。つまり対話だという。これは、大作『本居宣長』を書くうえで、小林秀雄が最も心掛けたことの一つだといえる。

残念ながら本書「読書について」には収録されていないのだが、晩年に大学生向けの講義『信ずることと考えること』の後で対話した内容が書籍となっている。そこで小林秀雄は、本居宣長の「考える」という言葉について説明している。

〈考える〉ことを、昔は〈かむかふ〉と言った。宣長さんによれば、最初の〈か〉に意味はなく、ただ〈むかふ〉ということだ、と。この〈む〉というのは〈身〉であり、〈かふ〉とは〈交ふ〉です。つまり、考えるとは〈自分が身をもって相手と交わる〉ことだと言っている。だから、考えるというのは、宣長さんによると、つきあうことなのです。ある対象を向こうへ離して、こちらで観察するのは考えることではない。対象と私とがある親密な関係に入り込むことが、考えることなのです。

『講義「信ずることと考えること」後の学生との対話』「学生との対話」新潮文庫、p127

小林秀雄はいつでも、よく「読むこと」から出発している。知識や理論に頼らず、徒手空拳で、対象と交わろうとしている。それは〈自分が身をもって相手と交わる〉すなわち「考える」ことを実践しているのだ。

美が人を沈黙させるように、よい書物も小林秀雄を沈黙させたに違いない。しかし、その心を波立たせたものを何とか絞り出すように言葉にし、批評の文章を書いた。

小林秀雄の文章が難解に思えるのは、〈自分が身をもって相手と交わる〉ことを、読み手が実践していないのかもしれない。11年かけた集大成である『本居宣長』の刊行後、小林秀雄はある講演で語っている。自分がやってきたことは、本居宣長の著した作品や文章を、熟読しただけだと。

はじめて小林秀雄に触れるならば、この「読書について」をじっくり読むことから始めたい。熟読玩味してこそ、小林秀雄である。

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