日本軍を讃える歌 インパール作戦の遺したもの
インドはインパール北方18キロにマパオという村があります。
この村で、五十年以上たった今でも歌われている歌があります。
その歌とは日本軍を讃える歌です。
祖父の時代より
今日の日まで
美しきマパオの村よ
いい知れぬ喜びと平和
永遠にわすれまじ
美しきマパオの丘に
日本兵来たり 戦えり
インパールの街目指して
願い果たせず
空しく去れり
日本兵
マパオの丘に来る
それは4日の火曜日
1944年のことなりき
我は忘れじ4月のあの日
罪無き民も散り散りに
西に東に追いやられ
再び神の恵み受け
集まり住まん
この地マパオに
広島の悲報
勇者の胸をつなぬき
涙して去れる
日本の兵士よ
なべて無事なる帰国を
われ祈りてやまず
この歌を作ったのは村に住んでいるニーヘイラさん。
第二次大戦中、この村にいたイギリス軍を追い払い駐留しインド独立のために戦った日本兵の姿に感動して作ったのでした。
彼女が感動して作った日本軍によるインド独立のための戦いとは昭和十九年(1944年)3月に発案者でもある第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将指揮の元にビルマ駐留第十五軍隷下3個師団(第15、31、33師団)主力として決行されたインパール作戦のことをいいます。
この作戦は、日本と交戦中であった蒋介石をイギリスが支援するためのルート(通称。蒋介ルート)の遮断とビルマ防衛強化の目的でインド北東部のインパールを攻略することが目的でした。
しかし、この作戦はビルマから、幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる、急峻なアラカン山系のジャングル内を徒歩で向かい攻略するというもので
大本営から派遣されてきた竹田宮恒徳王が、
「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」
と評したように、制空権もなく補給を軽視するなど問題点が数多くありました。
この作戦がどれ位無謀かというと、このインパール作戦を日本におきかえ、
インパール=日本
コヒマ(インパールの結節点)=金沢
と想定すると
第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ
15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ
第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30k~60kの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かう
後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮。
作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台という内容になります。
これを徒歩で行うのですから、どれだけ無謀か分かると思います。
当然、危惧する声、反対する者もいましたが、それらの意見を言った者を更迭するなどして封じ込めて決行しました。
食料、弾薬が欠乏する中、インド領内に入りました。
しかしイギリス軍はイギリス軍は暗号解析などにより日本軍の侵攻計画を把握しており補給線が延びきったところで反攻にでて日本軍は守勢に立たされました。
そして四月になり雨季がはじまると補給が途絶え死者、餓死者が続出。
そこへ追い討ちをかけるようにマラリアが発生し、戦傷や飢え衰弱した兵士たちの間で感染が広まり作戦継続は不可能となりました。
このような状況でも作戦継続を厳命する牟田口中将に怒り、五月末に第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は独断で撤退を開始しました。
そして7月3日、作戦中止が正式に決定。投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人という大惨敗に終わりました。
四月の時点で作戦中止は不可避と分かっていたにもかかわらず、三ヵ月後になって作戦中止命令がだされたのは、牟田口中将とビルマ方面軍司令官河辺正三中将が責任を取らされるのを恐れたためでした。
蒋介ルート遮断とビルマ防衛のための作戦がなぜ、インド独立のための戦いだったかというと、この作戦にはインド独立支援の目的もあったのでした。
そして、インド独立の大儀の背景には、チャンドラー・ボーズに花を持たせてあげたいという東條英樹以下河村正三ビルマ方面軍司令官、牟田口司令官の気持ちがあったのでした。
インド独立の志士チャンドラー・ボーズ
インド国民会議派の急進派として活躍していた彼は、ガンディーら穏健派と対立し袂を分かち亡命したドイツで独立運動を行っていた時に日本がイギリスと開戦した事を知りました。
そして、ヒトラーやボーズと接触していたベリルン日本陸軍武官府の山口敏大佐を通して
「日本軍と共にイギリスと戦いたい」
と訴え続けました。
当時、日本軍はマレーシアやシンガポールで投降したイギリス軍インド人将校を集いインド国民党軍を編成しており、その司令官にモハン・シン少将、執行委員長に日本に亡命していた中村屋のカレーでお馴染みのビハーリー・ボーズを就任させていたので、チャンドラー・ボーズを招く必要はないと考えていました。
しかし、モハン・シン少将とチャンドラー・ボーズが対立、反目し、それが国民党軍のインド人と日本居住のインド人の対立にまで発展してしまいました。
結局、モハン・シン少将を解任してJ・K・ボンスレー中佐を後任にしましたが、ボンスレー中佐もボーズもチャンドラー・ボーズを指導者としして招きたいといい、それをうけて大本営はボーズ招聘を決め、ヒトラーの許可も得られチャンドラー・ボーズはドイツと日本の潜水艦を乗り継いで昭和十八年(1943年)五月十六日に日本に到着。
日本に滞在二ヶ月の間に東条英機、杉山参謀総長、後嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外相らと会談し、インド独立支援の約束を取り付けました。
その後、日本占領下のシンガポールに渡りインド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任し、インド国民軍を再建。
そして、ついに昭和十八年(1943年)十月二十一日、シンガポールに自由インド仮政府が正式に英米両国に宣戦布告。
そして、昭和十九年に開始されたインパール作戦。
インド独立支援という側面からインド国民軍6000人も作戦に投入されました。
インド国民軍とは日本軍はマレーやシンガポールで英軍と戦闘中に捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って設けられた部隊で、のちに元捕虜だけでなく東南アジア在住インド人からも志願者を募り総兵力は約45000人に達しました。
しかし、インパール作戦は失敗。
参加した日印10万の将兵の内、死者は3万人を数え、インド国民軍も15 00人餓死および戦病死犠牲者を出しました。
その後もインド国民軍は、日本軍と共に戦い続けましたが日本が降伏したことから、インド国民軍もイギリス軍に降伏したのでした。
そして戦後、イギリスはインド国民軍に参加した約2万名の将兵を、反逆罪で軍事裁判にかけようとしました。
しかし、ガンジー、ネルー率いる国民会議派は、
「インド国民軍将兵は、インド独立のために戦った愛国者である」
として、インド全土での反英運動を展開。
イギリスは、約2年間、反英運動を抑えるために弾圧を続けましたが、ついにインドの独立を認めるのでした。
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参考資料・サイト
援蒋ルート
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8F%B4%E8%92%8B%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88
インパール作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
インド国民軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8D
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