シエラレオネの祈り(前編)
<前書き>
今回の記事は「戦争」について触れています。この手の話が苦手な方は、後ろを振り返らずに、そっと記事を閉じていただければと思います。あくまで私が読んだ本を参考にしており、全てが事実かどうかは分かりませんので悪しからず。またちょっと長いので、2部構成としました。
私が生まれた世代では、日本の中で幸運にもこれまで血が飛び交うような争いが起こるなんてことはなかった。だが今こうして息をしている中でも、地球の裏側ではたくさんの子供たちが毎日生きるために必死になって暮らしているという現状があるのだと思うと切なくなる。
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私自身「戦争」という言葉がどうにも昔から苦手で、「戦争」を題材にした映画や小説というのは極力避けてきた。
私の友人の中には、戦争オタクみたいな人もいて、その人は物心ついたときに自衛隊になっていたが、その心情が理解できなかった。なぜ好き好んで志望するのだろう、場合によっては命の危険だってあるかもしれないのに。そんな思いを抱えて、これまで生きてきた。
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もうかれこれ4年ほど前になるだろうか、ようやくミャンマーが長い軍事政権から解き放たれて民主化に向けて舵を切り、数年の月日が経った頃に私は旅人として彼の地を訪れた。実際に行ってみると、それまで圧迫されていたことが嘘かのように、街には朗らかな顔をした人たちで溢れ、私は一度訪れただけでミャンマーという国が好きになった。
それから今現在、コロナによる世間の混乱に乗じて再び軍が国の主導権を掌握した。民主化の立役者となったアウンサンスーチーさんは軟禁の憂き目に遭い、民衆が軍に対して反旗を翻して再びミャンマー国内は動乱の時期に突入している。たとえこのコロナの状況がひと段落しても、もうしばらくは現地に行けないことがわかって、本当に心苦しくなった。
今やミャンマー市民が少数民族武装組織と結託し、軍政との「内戦」に発展する可能性も出てきている。本当に心の底から悲しみが募る一方で、どこか戦争が起こるきっかけみたいなものを見た気がした。
その考えが果たして正しいのかどうか調べたいと思った末、手に取ったのが、伊勢崎賢治さんが著した『本当の戦争の話をしよう: 世界の「対立」を仕切る』という本である。
本作は、著者である伊勢崎さんが福島の高校生18名と、復興中のプレハブ校舎で5日間におよぶ授業を行った時のやりとりが描かれている。
ちなみに伊勢崎さん自身は、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動を組織した後、国際NGOに在籍し、アフリカで開発援助に携わるという仕事をしている。その後、国連PKO幹部として東ティモール暫定政府の知事、シエラレオネで武装解除、アフガニスタンでは日本政府特別代表として同じく武装解除を指揮したという経歴の持ち主だ。
本を読んで考えた私の結論
最初に結論だけ話そうと思う。「戦争」が起こる原因は、それぞれの人たちが持つ信念や主張が食い違い、それがどうにもならなくなった結果、武力で戦うしかないと行き着いた先にあるものだと考える。
ミャンマーの今の混乱も、軍事政権が国を統治するとは何事だと人々が怒った結果、導き出された事態であるように思う。いつだって、「怒り」というのは変化の原動力となりうる。特に日々の危機感みたいなものは割と怒りと直結しうるものであるということが、ミャンマーの今の状況を見て考えることだ。
セキュリタイゼーション
あるものに対する危機感を、みんなが共有して、何か手を打たなければならないという事態になる流れを、「セキュリタイゼーション」と言う。
この一連の流れを仕掛ける人のことを「仕掛け人(securitaizing actor)」と呼び、脅威によって犠牲になるかもしれない、だから保護しなければならない人やもののことを「推定犠牲(referent object)」と呼ぶ。そして「仕掛け人」がより大きな支持のために説得するための人々のことを「聴衆(audience)」と位置付ける。
これは実際にまだ起こっていないことに対して誰かが危機感を覚え、その脅威を人々に伝え回ることでその恐れが人々に伝播し、最終的に人々を過剰な行動に走らせるという概念だ。本来であれば、そうした荒ぶる人たちの心を落ち着かせる役割を担う人がいれば良いのだけど(これを脱セキュリタイゼーションと呼ぶ)、そうしたストッパー役の人がいないとどんどんことは深刻な状況に陥ってしまう。
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「タリバン政権」とセキュリタイゼーション
その典型的な例が、いっとき世間を賑わせた「タリバン」である。
元々は、30年ほど前に国民の敵であったソ連が、アフガニスタンより撤退したことから争いの火蓋が切って落とされた。共通の敵を無くしたことによって、権力者同士の覇権争いが行われるようになり、麻薬ビジネスなども横行することによって世間が混乱に陥る。その状況を見てみぬふりをすることができず、なんとかしないといけないと立ち上がったのが学生たち。
それら学生たちが結成したのが「タリバン」なのである。当初「タリバン」の人たちの思いに賛同した若者たちが結集し、世の悪を切り捨てよとばかりに権力者を包囲していく。しかしそれが行き過ぎた結果、「世の中を浄化する」とばかりに「タリバン」に協力しない一般人にまで手を出すようになったというのが事の顛末らしい。
人を救うための「正義」の集団だったはずなのに、気がつけば人々を苦しめる「悪」の存在になっている。この矛盾した存在を前にして、人々の行き過ぎた結果は誰も幸せにしないとどこかやるせない気持ちになった。
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何が正しくて、何が悪なのだろうか。改めて俯瞰的に考えてみると、第二次世界大戦後、アメリカの介入もあって戦争することを放棄した日本に生まれた私はいかに平穏な日々を暮らすことができているんだろうと思ってしまう。
私たちは普段意識していないだけであって、こうして今もこの世界のどこかで自分たちの「正義」を貫き通そうとして戦っている人たちがいる。でも、それは誰かにとっての「悪」かもしれない。そうした二律背反性を帯びているから、この世で生きるのって厄介だと思ってしまう。
ふと空を見上げると、どんよりとした重たい雲が広がっている。
(後編)に続きます。