クレーム・ブリュレの恋人
仕事でオンライン越しに打ち合わせをする機会があるのだが、なぜかみんなミュートかつ動画もオフにしているので一体誰が何を喋っているのかよくわからないという不可思議な時間にも最近ようやく慣れた。これが新しいビジネス様式と言われると何だかそれも違う気がする。顔の見えない相手ほど、不気味な光景ってないと思う。
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相手が見えないことによって、膨らむ妄想も確かに存在する。なぜだかぼんやりとした輪郭だけが浮かんでいて、相手の姿を掴もうにもまるでぼやけてなかなか全体が見えてこない。何ともいえないもどかしさ。でも少しだけしか見えていないからこそ、想像に身を任せて追いかけることができるのかもしれない。その時の気持ちはなんとうまく形容したら良いかわからないけれど、残るのは熱を帯びた高揚感。
ここ最近映画を見る暇があまりなくて、若干映画欠乏症に陥っていた。(もっぱら本を読むか漫画を読むか時々したくもない簿記の勉強をするか)なんか面白い映画ないかなーと思って色々Amazon Primeとかを漁っていたのだけど、思うように集中力続かず。そんな中最後まで観終えたのが『アメリ』だった。
何ともドアップの女の子の顔がとても印象に残る作品。まず自分自身の生い立ち(これまた強烈)から始まり、そして次第に計算尽くされた世界観にだんだん自分自身が入り込んでいっているのがわかった。良い映画の一つの条件とは、まるで自分が擬似体験しているような気持ちになれるかどうかだと思う。それゆえ、良い映画の対象は人によって形を変えるとは思うのだが。
アルプスに残された手紙、旅する小人、証明写真をひたすらかき集める奇妙な男、店の店員に執着し続ける男、マドレーヌのように泣く管理人。さまざまなギミックに溢れていて、ひとつも飽きることがない。クレーム・ブリュレを割るシーンなんてそれこそ一瞬だというのに、何だか鈍く頭の中に働きかけてくるから不思議だ。こんな時間なのに、早速食べたくなってきた。それにしても、クレーム・ブリュレって響きが良い。(魔女が手にしている勝手なイメージがある。)
アメリは、父親になぜか心臓病だと疑いをかけられたばかりに、幼少時代友達と遊ぶことができずに不運な時間を過ごす。その間彼女は、妄想をすることにより多感な時期を豊かに過ごす。残念ながら映画ではそれほど深くは語られていなかったけれど、それはそれできっと楽しい時間だったのだろうな。
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映画の中でも好きなシーンがある。
アメリが住んでいた部屋から、昔同じ部屋に住んでいた住人のものと思われる玩具箱をたまたま発見する。昔から住んでいるアパートの住人にヒントを得ながら、その昔住んでいた人の足跡を追うというシーンだ。紆余曲折ありながらも、最終的に持ち主であるプルドトーの手にその玩具箱を返すことに成功する。
プルドトーは40年の月日を経て自分の手元に戻ってきたことにいたく感激し、「公衆電話が俺を呼んだんだ」と言ってバーで涙を流す。それを見て満ち足りた気持ちになるアメリ。
彼女はその瞬間、人生はとてもシンプルで優しいことを知る。
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そうなんだよ、人生ってシンプルでとても優しいんだよ。確かに生活していれば嫌なことの一つや二つはあるだろうけれど、きっと誰も彼もが物事を難しく捉えすぎている。それだけで、もう人生生きているのだ苦しくなる。きっとアメリのように面白おかしく生きていれば、物事はそう複雑ではないことに気づくのかもしれない。
今度、デパ地下で早速クレーム・ブリュレを買いに行こう。急いで家に帰って、クレーム・ブリュレの焦げた部分をコツンと軽くスプーンで叩くのだ。そこからきっと何かくるりと踊りたくなるような、新しい音が生まれることを信じて。焦げの下から覗いたクレーム・ブリュレは、仄かな苦さと共にまろやかな記憶を刺激する。