2022年末。喉の違和感から翌日の発熱。 コロナにやられた。 熱は下がり、喉の痛みも改善してきた矢先に 今度は味覚と嗅覚が消える。 今ここ。 匂いや味が分からないって、人間らしさを失う要素として大きい。 人間の体は、贅沢に出来ているもんだと改めて思った2023年の始まり。 「おいしい」とか「まずい」とか、そういう感情自体がすごく贅沢。 これから、ひとつひとつの感情を大切にというか、丁寧にしていこうと 思った しかしまだ私には視覚や聴覚など、消えていない感覚がいくつもある。 味
2022年が終わる。 今頃私は実家に帰省しているはずだったのだが、 コロってしまい、帰省を急遽キャンセルし、今パソコンを打つに至る。 2022年は濃かった。 良くも悪くも。 30歳になり、20代は終わった。 夏。右足の疲労骨折。 そこから、ランニングは中止。いまだに痛い。いまだに走れていない。 この苦痛と虚無感と落ちていく体力と筋力と、自分の中にある優越感が 全て奪われていく、絶望感。 生活にメリハリがなくなり、体調を崩す。 最悪のシナリオ。 それでも、時間は過ぎる。良い時
故障中。 7月上旬から、右足首・かかとの痛み。 ごまかせば走れる程度だと思っていたのも、つかの間。 地面を蹴る動作が痛くて、スピードを出すなんて、もってのほか。 なんなら、日常生活にも支障をきたすほどの痛みが日に日に増悪する。 耐え切れず、整形外科にてレントゲン撮影。疲労骨折ではない、とのこと から、しばらく様子見。 そこからランニングは中止し、足に負担をかけないトレーニングを模索する。 8月。かれこれランニングをやめて3週間がたとうとするが、痛みは変わらないどころか、むしろ
久しぶりに走ることに熱中することが出来ている。 少し疲れた身体を起こし、早朝に大濠公園に向かう。 びっくりするくらいのランナー。そして、今日も練習仲間がそこにいる。 今まで仕事が休みの日はダラダラと夜遅くまで起き、その分朝は遅く起きていたので、自分にとっては、朝、集合時間に集合場所に行く、というだけで 1つミッションを達成している。 ここに来れば、仲間から自然とやる気をもらえる。これは大きい。 質の高い練習と、何より、走ることを通して会話が出来ることが嬉しすぎる。皆、それぞれ
水曜日の夜。これまで、私は仕事帰りにランニングの練習会に 参加することはほぼなかった。練習会があるのは家に帰るのとは逆 方向の公園。家に帰って、やるべきことがあるわけでもないし、 誰かが待っているわけでもない。けれど、わざわざ走るための服に 着替え、暑い中走りに行く気持ちが全く沸いてこなかった。 振り返ってみれば、ここ3年くらい、まじめに走ろうなんて、 少しも思わなかったような気がする。走るのは好きだが、そこに競争性が入ってくると、一気に嫌気がさした。そういう世界で楽しむに
明日、私は大会に出る予定をしていた。 本当なら、今頃、電車か車で、大会会場に向かっているはずだった。 しかし、今、私はそこに向かっていない。 大会に出るのをやめた。 なんだかすっかり疲れてしまった。 身体が疲れているのではない。身体の疲れは、お風呂でも入って、食事をとれば、それなりに回復する。2週間前に大会に出たとはいえ、それなりに、筋肉痛も、転んだ擦り傷も治った。 ということはこの疲れは何だろう。考えなくても分かっている。 1人で頑張るには、あまりにも向かい風である。 なぜ
街に人が戻ってきたような気がする。 にぎやかな声があちこちから聞こえる。 以前の生活に全てが戻っているわけではないが、 以前、当たり前だった風景はこんな感じだっただろうかと 懐かしささえ覚える人は少なくないだろう。 振り返れば、良い感情を抱くことがしにくい時間だったと思う。 そんなに深く考えてもどうしようもないし、どうにもならない。 そんなに悲観することでもなかったのかもしれないが、 そんなふうに自分を俯瞰的に見られるほど、私は大人になっていない。 そもそも、何が幸せで何
新しい年度が始まり、はや2か月がたとうとする。 振り返れば早い。1日は長いけど、振り返るといつもそう。 久しぶりに懸命に走りたくなって、わりとちゃんと走るように なった。やっぱり、これだ、と思う瞬間が確実に増えた。 なまっていた体はそう簡単に変わらないが、気持ちはずいぶん 変わった気がする。充実した日を送らないといけないとは誰も 決めていないが、やはりこの充実感はランニングによって もたらされる副産物だと感じる。というか、そのために走っている。 走ること自体は、それほど意味が
山へ走りに行った。 気分転換、体力向上、現状打破。 理由は色々あるようで、別にどうでも良いっちゃどうでも 良い。最終的には自己満足、といったところか。 木々の隙間から見える太陽がどうしてもきれいで、 この、絶妙に心を掴んで離さないまぶしさを写真に収める。 わざわざ山に登らずとも、そのへんの公園で木の隙間から上を 見れば、太陽と木のコントラストで写真は撮れるかもしれない。 とはいえ、必要に迫られてするのではなく、自ら見つけ出した その価値は、自分で手に入れたこその価値がある。
話す、そして、聞く 人と話す機会がこのところわりと多い。 コロナに巻き込まれてから、「話す機会」は 私にとってとても限られた貴重なものとなった。 話すことは好きだ。聞くのも好きだが。 日常よりも多く人と話をした帰り道、今日は話すことのほうが 多く、私は相手の話を聞くことが出来ていただろうかと いつも振り返る。そしてだいたい、話しすぎたなと思う。 当たり前だから、気付かない 日頃、色々と、頭の中に浮かんでは消えていく感情の ひとつひとつを言葉にして発することはまずない。
朝、まずは走る この週末、本当にいつぶりか分からないくらい、 私は2日連続で長い距離を走った。長らくまともな ランニングをしないままで過ごしていたせいで、筋力は すっかり落ち、気候的に半ズボンを履いて走るも、 何となく引き締まっていない身体がそれを如実に表している。 いや、別に走るために特化した体型でなくてはいけないわけでは ない。あらかた仕事の時の制服のサイズを変えるほどでないなら、 何の支障もないので、そこまでこだわる必要はないわけで。 とはいえ、「どうせやるなら」とい
週末、人知れず、山へ。 時々、いつもの、当たり前を、踏み外したくなる。 しかしこの社会にはルールというものがあるから、人に 迷惑をかけるとかそういう類のことは、もってのほか。 けれど、どうしても外の側に行きたくなる。 当たり前の人々のいる中に身を置いていると、なぜか 呼吸がしづらく感じることがある。 そんな時、山は最高でも最低でもなく、ありのままそこに あって、いつも見ている太陽も緑も、輝きが増して見える。 つまりこれだ。私が人知れず見たかったもの。 人といること。 1
イヤホンを付け、外へ。 ふと思い立って、久しぶりに音楽を聞きながら走ることに した。ゴールデンウイーク最終日。結局、走ることにした。 結局、とか言いながら、消去法ではなく、選択して。 春の風が全身を勝手に吹き抜けていく。走り去る車やバイクなど 全く気にならないほど、走ることに嬉しさを感じたのはいつぶり だろうか。 たしかに、前に進めることへの純粋な喜びと、鳴り響く音楽。 エンドレスで聞き続ける。 久しぶりに聞いた曲は、Official髭男dismのPretender。
今年のゴールデンウィーク たしか1年前、私はどこにも出かけないまま、ただひたすら呼吸するだけだったような気がする。それと比べるわけではないが、今年はずいぶん生きた 心地のした日々だったように思う。 久しぶりの地元。もうすぐ北陸新幹線が開通する。信じられない。こんな 田舎に、まっすぐに伸びた1本の道。田んぼの中を、山の中を、それは人々がより便利に移動するために作られたもの。ピカピカなその出来立ての道は この地元の風景に何となく違和感があるがそれでも現代風らしく、不思議な気持ち
迷い探し続ける日々 好きな曲は深い理由などなし。 ただ、何度聞いても、いつ聞いても、どこで聞いても すんなりと自分の中に入ってくる。 槇原敬之。 今度、コンサートに初めて行く。 この曲を初めて聞いたのはたぶん高校生の頃だっただろうか。 たまたま勉強中にラジオから流れてきた。 混沌としていた迷える時期に、ふと気が付くと、 夢中になってTSUTAYAで槇原敬之のCDを探していたのが 懐かしい。 その頃から好きだったが、今、改めて聞くと、 とてつもなく好きだということに改めて気
単純に走ることが好き。それ以上でもそれ以下でもない。 久しぶりに4月は2度、レースに出た。 いずれも、トレイルラン。 コロナであらゆる大会が消え、それと同じくして、というわけではないが、 私自身も、走ることへの意欲が消えた。 何のために走る、なぜ、誰のため。 考えても答えなど出ないことは分かっているが、 人との接触もなくなり、ひたすら考える時間だけが私に与えられている ような気がした。昔からそうだが、「何もしない」というのが、出来ない。 何かしないといけないという切迫感のよ